新春歴史閑話

私が古代史も好きなのは記紀以外に目ぼしい記録が乏しい点です。その上で記紀は政治的脚色が施されており、すべてが必ずしも事実と言えないのも楽しいところです。そこに色んな想像の翼を広げられるところです。ただなんですが、趣味の歴史好きですから知識に怪しい点が多々あります。ムックを書くのはその整理の意味合いが多いと思って下されば幸いです。


古墳群

これはJSJ様のコメントですが、

手元の本によれば、百舌鳥古墳群古市古墳群、大和・柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群を畿内五大古墳群というのだそうです。

気になったのはその築造年代です。wikipediaは定説と思いますからそこからまとめると、

名称 築造時期
大和・柳本古墳群 3世紀半〜4世紀前半
馬見古墳群 4世紀末〜6世紀
佐紀盾列古墳群 4世紀末〜6世紀
古市古墳群 4世紀末〜6世紀前半
百舌鳥古墳群 4世紀末〜6世紀後半
現在の考古学調査では大和・柳本古墳群が一番古く、とくにその中の箸墓を含む纏向古墳が一番古いとされています。箸墓の築造年代は3世紀半ばぐらいが定説のようです。他の古墳群は年代的には大和・柳本古墳群が衰えだしてから台頭する感じで良さそうです。もう一つの特徴としてこれらの古墳群は前方後円墳が主体となっている事です。ここは素直に考えて纏向古墳で作られた箸墓をモデルとして広がったと見たいところです。それぐらい古代ではインパクトのある古墳だったのだろうの見方です。古墳の広がりとして纏向古墳を含む大和・柳本古墳群から3世紀半ばぐらいから始まり、大和・柳本古墳群の衰える4世紀末から他の古墳群が築造され始めた事になります。

古墳は権力者の墓ではありますが、ただの墓ではなく権力のデモンストレーションの意味もあります。デモンストレーションとして見せたいのは遠来の訪問客もあるでしょうが、支配下の民にも見せたいはあるはずです。また大きなものほど築造期間が長く、工事に動員される民も、住居からあんまり遠方だと通うだけでも大変です。たいした話ではありませんが、古墳群の近くに住居の中心地(都)があったと考えるのが妥当です。そうなると3世紀半ばは大和・柳本古墳群の近くが畿内の中心地であった事になります。地図でも示しておきます。

だいたいですがこんな感じです。


3世紀半ばに何があったのか

記紀は歴史の1級資料ですが、年代はアテになりません。そこで記紀以外で年代を特定できる資料で考えてみます。日本から中国への使者は何度か派遣されていたようです。まず見てもらいたいのは後漢書倭国伝と隋書倭国伝です。

  • 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した(後漢書倭国伝)
  • 安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。(後漢書倭国伝)
  • 後漢光武帝の時(25−57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。(隋書倭国伝)
  • 安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。(隋書倭国伝)

どうも隋書の記載は後漢書の引用の気配がありますが、かなり具体的に記録されています。後漢書の方を取りますが、後漢光武帝時代の西暦57年と安帝の西暦107年に2度の記録があります。この2回の使者の後はどうなったかですが、

  • 桓帝霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。(後漢書倭国伝)
  • 桓帝霊帝の間(146−189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。(隋書倭国伝)

どうも西暦150年ぐらいから大乱が長期にわたって行われたようです。これがいつまで続き、どうやって収束したかですが、

  • 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。(後漢書倭国伝)
  • 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。(隋書倭国伝)

女王卑弥呼が立てられてようやく大乱が収束したとなっています。後漢書にも隋書にも女王卑弥呼の時代がいつとは書いていないのですが、ここに魏志倭人伝があります。

  • 卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。
  • 正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。

女王卑弥呼は西暦238年に魏に使者を送っています。でもって女王卑弥呼は西暦247年に死亡したと記録されています。卑弥呼の年齢がわからないのですが、仮に47歳で死亡したとし、30歳ぐらいで女王になった(後漢書に「年増」って書いてあるので・・・)と仮定すれば、倭国大乱は西暦150年ぐらいから西暦230年ぐらいまでの約80年続いていたと推測されます。これの傍証として魏志倭人伝に、

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。

微妙な文章で「住まること七、八十年」を男性王統治時代と読む方が自然そうなんですが、そう考えると西暦57年に使者を送った国が浮いてしまいます。西暦150年から大乱が起こっていますから、80年前でも西暦70年ぐらいになります。もちろん西暦57年の使者と西暦107年の使者が別の王権と取る事も出来ますが、王権は代わっても中国から見れば同じ倭の国からの使者ですから、ここは「七、八十年」が大乱の時代を指すと取っても良い気がしています。このあたりを年表にまとめると、

西暦 事柄
57年 後漢に使者を送る
107年 後漢に使者を送る
150年 倭国大乱が起こる
230年 卑弥呼女王となり大乱収束
238年 魏に使者を送る
247年 卑弥呼死亡
畿内の古墳の築造は3世紀半ばから急に盛んになります。これは倭国大乱が卑弥呼を女王に押し立てる事によって収束したからではないかと考えます。そりゃ戦争状態では古墳築造のために人手を動員する余裕はなく、すべては軍事に動員されていただろうからです。そこに平和が訪れ、平和の象徴として偉大なる女王卑弥呼の墓が盛大に築造されたぐらいの想像が出てくることになります。


エッセンスから推理する

基本的に魏志倭人伝後漢書倭国伝、隋書倭国伝に記載されている事に大きな嘘はないと考えています。中国から見て辺境の野蛮国に関して事実関係で嘘を書く必然性に乏しいからです。もっとも魏志倭人伝に無く、後漢書、隋書にある西暦57年および西暦107年の使節の話はどうなんだろうの疑問は正直なところありますが、考えても仕方がないので事実と見ます。そうなるとまず考えなくてはならないのは西暦57年と西暦107年の倭の使節はどこから出されたのだろうです。

古代日本の文化の先進地は大陸文化の影響が早い北九州と考えるのが妥当です。1世紀半ばとか2世紀初めに中国王朝に使節を送ろうなんて文化レベルが日本にあるとすれば、北九州以外に考えにくいところです。ここは素直に北九州王権から派遣されたと見ます。でもってその頃は北九州王権は瀬戸内海沿岸に沿って植民団を派遣していたんじゃなかろうかです。古代の事ですから、街道なんてものは非常にプアと考えるのが妥当です。あっても北九州王権内ぐらいが関の山と考えます。そうなると海路が用いられる事になりますが、北九州から海路となれば瀬戸内海を目指すのが地理的に無難ぐらいが理由です。植民先にも地元勢力がいたんじゃないかの指摘は出そうですが、非常に少なかった可能性はあると考えています。

つうのも縄文晩期(紀元前3世紀ぐらい)の人口推計は鬼頭宏氏によると8万人ぐらいです。これが弥生時代に移行する紀元前2世紀ごろには59万人に増えているとなっています。弥生時代とは弥生式農業、もっと平たく言えば稲作が行われる文化と考えても良いはずです。これも北九州から始まったとするのが妥当です。稲作は採集文化に較べると安定して大量の食糧を得る事が出来ます。食糧が豊富になれば人口が増えます。増えると言うより増えすぎると言った方が良いかもしれません。植民先の縄文人は縄文中期に26万人いたとされていますが、これが8万人ぐらいに急落していますから、植民先は無人の荒野に近かった可能性を考えています。

北九州王権が後漢使節を送った時代は瀬戸内海への植民団が次々に送り出された時期になり、中国で国の大きさを聞かれたら植民地も含めた範囲を当然話したと思います。もう一つ重要な事は文化の根っこも同じだったろうです。かくして北九州から瀬戸内海沿岸に北九州王権の力は広がって行ったぐらいでしょうか。


次に倭国大乱が西暦150年ぐらいから始まると推理しています。大乱の原因は不明ですが、植民地と本国北九州の抗争ぐらいで良い気がします。植民地経営も軌道に乗れば本国と軋轢が生じるのは世の常です。ただもう少し複雑な展開であった可能性もあると考えています。これまた定番の北九州王権内の王位争いです。王位争いに植民地が巻き込まれると言うか加担して、大規模な大乱に発展していったぐらいです。それと結果として判るのですが、大乱を短期で収拾するような英雄は出現しなかったと見て良さそうです。後世で喩えると南北朝みたいな感じでしょうか。

もう一つ重要なポイントも考えています。倭国大乱の中で北九州王権自体が崩壊したんじゃなかろうかとも思っています。理由は3世紀半ばに女王卑弥呼が擁立されて平和が訪れたとなっていますが、ちょうどその頃に纏向に前方後円墳式の巨大な箸墓が築造されただけではなく、4世紀末になるとあの百舌鳥や古市の巨大古墳が出現します。つまり倭国大乱は結果として北九州から畿内に王権自体が移動させてしまったんじゃないかの推理です。


そこで謎は何故に纏向と言うか、奈良盆地の中だったんだろうかです。そこで思いつくのが神武東征伝説です。神武こそが倭国大乱を収束させた英雄だった可能性です。では何故に神武は北九州を捨てたかです。無理やり推理すれば、北九州では危なかったぐらいでしょうか。大乱は80年ぐらい続いていますから、神武が天下を取ったと言っても、反神武勢力は根強く残り、いつクーデターが起こるかわからないぐらいの状態を考えます。あえて喩えれば政争の中心である京都からあえて離れて鎌倉に幕府を置いた頼朝みたいな発想です。

神武の感覚では大和川の河口の河内でさえ不安で、さらに大和川を遡り山門(やまと)を越えた地に政権の中心を据えたぐらいです。海に近い河内からも距離おき、天然の要害が立ち塞がる地形です。今でこそ奈良盆地は平らな地形ですが、神武が奈良盆地に入った当時は、盆地の中心部は低湿地帯で人が通れるような状態ではなく、纏向のある三輪山麓まで行こうと思えば、南部の山沿いの道をたどるしかなかったのかもしれません。強引な推理ですが、そうとでも考えないと纏向発祥の古墳文化が始まるのは説明が難しいところです。


もう一つ難問がありまして女王卑弥呼の存在です。どうもなんですが、卑弥呼こそが神武の政権掌握のマジックのタネの様に思っています。古代の宗教の力は強大です。北九州王権も当初は男性王が立っていたと記録されていますが、基本は祭政一致の神聖政権で、王の言葉は神の言葉みたいな体制であった気がします。ただ豊かになってくると王は神であるだけでなく、現実の権力者として振る舞う事になります。これが大乱の一つの原因でもあり、さらに大乱中に神と人が分離してしまった気がしています。これも例えれば世俗の権力者である皇帝と、精神世界の長であるローマ法王みたいな感じです。これを神武は再び合体させた可能性です。合体と言っても神武が神になった訳ではなく、卑弥呼を神にしたぐらいです。魏志倭人伝の記述にこんなものがあります。

鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ

卑弥呼は女王に祀りあげられてはいますが「王となりしより以来、見るある者少なく」つまり現実世界に出てくる事は殆どなかったと見て良さそうです。でもって実際に国政を司っていたのは「男弟あり、佐けて國を治む」。実際の国政を動かしていたのは弟であったと見て良い気がします。求心力の象徴として卑弥呼を立てながら、実際の権力は弟が握っている構図です。ごく素直に神武の姉が卑弥呼だったんじゃなかろうかです。卑弥呼は統合の象徴の神ですから、死後は可能な限り盛大に祀る必要があり、それが空前の大工事の箸墓となって現れたぐらいが私の推理です。


我ながら無理があるなぁ

一番の無理は北九州から畿内に王権が移動したのもそうですが、畿内の王権が何故に纏向なんだです。しかし纏向に行ってくれないと大古墳群の説明がつかなくなります。纏向を含む大和・柳本古墳群が衰微した後に、残りの四大古墳群が台頭しているのは考古学的事実だからです。古墳時代が出現したのは倭国大乱が女王卑弥呼の出現により収束し、戦争に費やしていた人手やパワーを古墳築造に向けられる様になったぐらいで良いかと思います。古墳は王権の象徴であり、王権の所在地を示すとシンプルに考えています。その理屈で言うと纏向を含む大和・柳本古墳群はわかりやすいところです。

纏向王権は3世紀半ばから4世紀半ばまでの約100年間続いたぐらいの理解で良いと思っていますが、問題はその次に4つの大古墳群が4世紀末に同時進行的に出現している点です。これを4つの王権が出現したと考えると無理がある気がします。古代とは言えあまりに近所です。喧嘩にならない方が不思議です。でも考古学は4つの大古墳群が並行して築造されていると示しています。どう理解したら良いのだろうかです。

無難な説明として思いつくのは、纏向王権の権威は高かったぐらいです。纏向王権時代に残りの4つの古墳群地域も開拓され人口集積が行われていたとまず考えます。富と権力と人手はあったが、纏向王権は古墳の築造を許さなかったぐらいの考え方です。ところが纏向王権は様々な事情で衰微します。纏向式の古墳を作りたくて仕方が無かった4つの地域の首長は、4世紀末になり規制緩和に乗っかって競って大古墳の築造に勤しんだぐらいです。喧嘩状態にならなかったのは、古墳築造には多くの人手が費やされるため戦争などやる余裕が生じなかったぐらいです。

書きながら凄い無理があると思っています。権力者はそんな平和主義なんだろうかです。これ以上は私の手には負えなくなります。


飛鳥にはいつ来たのだろう

もう一つ気になるのは纏向から飛鳥への王権の移動です。纏向は4世紀半ばには衰微したで良さそうです。つまり纏向から飛鳥に王権がスンナリ移動したとは思いにくいところがあります。移動していたら世は大古墳時代ですから、飛鳥地域にも大古墳が築造されているはずだからです。ここはやはり、纏向は完全に滅んでしまったぐらいに考えます。百舌鳥や古市の大古墳の存在を考えると、纏向から河内に王権の中心は移動していただろうです。でもって再び奈良盆地に進出したぐらいです。

進出した地域が飛鳥だったのは奈良盆地の西側には馬見古墳群を作っている大勢力があり、北側には佐紀盾列古墳群を作っている大勢力があった関係かもしれません。つまりは纏向衰微後に空いていたのが飛鳥地域だったぐらいです。ではいつ頃かになるのですが、とりあえず隋書倭国伝です。

  • 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
  • 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢

日本書紀小野妹子が遣わされたと書かれている物で良いかと存じます。でもって馬見・佐紀盾列・百舌鳥・古市の古墳群は6世紀にはそろって衰微します。600年すなわち7世紀には飛鳥の王権は確立していたと考えて良さそうですから、飛鳥に人が集まりだしたのは6世紀半ばぐらいだったんじゃないかと思ったりします。ほいじゃ飛鳥に住み着いた連中は誰なんだになります。河内方面からの移住と考えるのが無難ですが、そこから先は歴史の彼方の世界ぐらいにしか言いようがありません。