日曜閑話73-2

今日のお題は「藤原京の続き」です。時間のある時にブログを書くのは楽しいです。

倭京ってどこだ?

まずまずwikipediaですが、

藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2kmとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3km(10里)四方で少なくとも25平方キロメートルあり、平安京(23平方キロメートル)や平城京(24平方キロメートル)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。更に南側は旧来の飛鳥にかかっており、藤原京の当初はは「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域に由来し、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている。

ここに倭京と言う言葉が出てきます。藤原京への遷都は持統時代に行われているので、倭京とは天武時代のものであるのは疑いありません。ほいじゃ天武時代の都はどこかと言えばwikipediaからですが、

日本書紀天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」とある。

時代的背景を少し書き加えておくと壬申の乱に勝利した大海人皇子天皇に即位し、天智が作った近江京を廃し飛鳥板蓋宮を都にしたとされます。岡本宮は雷丘の麓にあったとされますが、ほいじゃ雷丘はどこかと言うと甘樫丘の北東部にあり、飛鳥川を挟んで存在します。岡本宮も変遷があってwikipediaより、

  • 629年1月に舒明天皇は即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)のふもとに遷宮し、岡本宮と称した。
  • その6年後の636年6月、岡本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(たなかのみや、現在の橿原市田中町)へ遷ることとなった。
  • 655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。

これだけじゃイメージが湧きにくいと思いますので明治期の地図を示します。

改めて確認すると、ごくごく狭いところで宮を転々としていたのがわかります。もっとも大王時代は京でなくあくまでも宮です。大王の宮殿として宮が建てられるのですが、作られていた宮殿は伊勢神宮みたいな建物と推測します。ああいう掘立柱構造は何百年も使う事は無理で、大王が変わるごとに新築していたとされています。飛鳥の地は狭いですから、それこそ伊勢神宮遷宮ではありませんが、同じようなところをグルグルと回りながら新宮殿を作っていたぐらいに理解します。

さてなんですが、飛鳥板蓋宮も有名ですが現在の伝飛鳥板蓋宮は川原の少し西側にあります。ちと煩雑になるのですが、現在の考古学検証では、

こうだそうです。どうもなんですが呼称の混乱がある気がします。板蓋宮はある種の美称です。板で屋根を葺いた立派な建物ぐらいの意味で良さそうです。おそらく当時は大王の宮であっても藁葺の可能性があり、これまたある時期から大王の宮殿は板葺になったぐらいを想像しています。そのために「大王の宮殿 = 板蓋宮」みたいな使われ方がされていたんじゃなかろうかです。それはともかく天武は壬申の乱に勝利した後に近江から飛鳥に宮を移し、最初は宮の建物が残っていた岡本宮に入り、引き続いて新築された飛鳥浄御原宮に移ったぐらいと理解して良さそうです。つまりこういう関係・・・にはなりません。倭京は飛鳥浄御原宮とまったく別に作られていたと考える方が妥当と思います。


倭京と藤原京

天武は飛鳥浄御原宮(= 伝飛鳥板蓋宮)で政治を執り行うのですが、天武が藤原京計画に関与したかどうかです。天武紀5年にこういう記述があるそうです。

新城に都をつくらむとす

これをどう解釈するかになります。あえて注目すると宮でなく都を作るとしている点でしょうか。天武より前の大王は自分のための宮殿は作りましたが、宮殿の周辺の都市の造営までは行わなかったと見て良いかと思います。自然発生的な都市形成はあったと思いますが、計画的な都市建設まではなかったぐらいです。天武は長安にならった(これしかお手本はなかった訳で・・・)都を作ろうとしたんじゃなかろうかの解釈が行われています。ここからと思いますが、藤原京は天武の倭京の拡張発展したものだの説が立てられています。上記したwikipediaもそうなっています。

もう一つ注目したいのは「新城」です。天武は飛鳥浄御原宮にいるのですが、新城と記述するぐらいですから飛鳥浄御原宮以外の地に新たな都を作ろうとしたで良いと考えます。何が言いたいかですが、飛鳥浄御原宮から条坊制の都を展開するには土地が狭隘すぎると言うところです。ここで城なんですが、近世の城郭とはちょっと感覚が違うと思っています。宮を中心とした官庁的なもので、あえて言い分けると

  • 城とは内城、つまり宮殿と官庁を合併した後世の内裏のようなもの
  • 都とは内城の周囲に広がる条坊制の計画都市の事
これぐらいに受け取るのが良い気がします。ここで新城が完成して天武がそこに移っていたら話は簡単なのですが、天武は死ぬまで飛鳥浄御原宮におり、藤原京に遷都したのは時代の持統の時です。wikipediaからですが藤原京は、

690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。

天武5年は676年で、ここから着工していたら10年(天武の死まで)かけて新城、すなわち宮殿さえ完成していなかった事になります。これをどう考えるかです。まあ、日本で最初の巨大都市建設ですから、計画も工事も試行錯誤による様々なトラブルがあっただろう事は推測されますが、ちょっと長すぎる感じです。なぜに天武時代に倭京への遷都が行われなかったはある種のミステリーです。たとえば後の藤原宮(藤原京の宮殿)が天武の新城であったかと言えば、これはどう考えても無理があります。藤原宮は既設の条坊道路を潰して作られているからです。

あれこれ考えると次のような事が推測されます。

  1. 天武は唐式の都城を作る構想があった
  2. 場所として大和三山に囲まれた地域が選ばれていた
  3. 天武時代に着工された倭京は持統時代に引き続いて工事が行われ藤原京として完成した
ごく単純な推理ですが天武が手掛けた倭京がそのまま藤原京になったんじゃないかです。ただし宮殿は天武時代には完成しなかったぐらいです。


天武時代の新城はどこだったんだろう?

天武5年に着工の記録がありますが、その後はどうなっていたかですが、天武11年、つまり着工から6年後(681年)に

  • 新城に遣す
  • 新城に幸す

これは工事の進捗具合を見に行ったぐらいの解釈で良いかと思います。そうなると新城(= 宮殿)は天武時代に着工はされていた事になります。しかし実際の遷宮はここからさらに13年後になります。ここから考えられる事は

    天武時代の新城(宮殿)は完成しなかった
完成しなかったので天武は死ぬまで飛鳥浄御原宮にいたと言う事です。なぜに完成しなかったかは謎ですが、ごく単純には技術的なものがあったのかもしれません。唐の長安と言うモデルはありましたが、似せたものを作るだけの基礎技術が当時の日本では十分ではなく、様々なトラブルが発生して工事が遅れに遅れたぐらいの見方です。ここでwikipedia藤原京の建設の項目を引用すると興味深くなります。

690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。

この記述の解釈はヒョットして、天武時代の新城建設があまりに難航したので、いったん御破算とした上で、現在の藤原宮に宮殿建設を始めたぐらいの意味じゃないでしょうか。工事の難航の原因として技術的なものを先に挙げましたが、古代人に取って難航する工事は「祟り」的な解釈が政治レベルで成立します。神の加護がある場所に新たに宮殿を建設しようぐらいです。そこで新たに選ばれたのが大和三山の中心点だったぐらいです。だから条坊道路を壊して建設されているんじゃなかろうかです。その頃には天武時代の新城建設経験が技術的にも蓄積されており、持統の宮殿は4年で無事完成し遷都したぐらいです。

ではでは天武の新城は本当はどこにあったかです。これは考古学的発掘を待たねばなりませんが、wikipediaにある藤原京の地図を引用してみます。

ごく単純には倭京は大和三山の内側に計画されていたと考えるのが妥当ですから、藤原宮の北隣、耳成山の麓ぐらいが天武の新城だった可能性はまずあります。ただその辺はそれなりに発掘調査が進んでいるところです。発掘調査の全容は存じませんが、現在のところ天武の新城遺構が発見されたの話は存じません。そこでなんですが、滋賀県文化財保護協会の紀要6号(1993年3月発行)の中の「倭京の実像 - 飛鳥地域における京の成立過程」の図を引用してみます。
「新城」と書かれている上のポッチみたいなところが耳成山です。ちょっと大胆すぎますが天武の新城は耳成山のさらに北側に作られて可能性も無きにしもあらずと考えています。だから現在まで確認されていないぐらいの見方です。


では皆様、良いお年をお迎えください。