日曜閑話73

今日のお題は「藤原京」です。いつもの事ながら前置きが多いのですが、それはそれってところで宜しくお願いします。

河内からヤマト

記紀伝承に従えば九州からの植民団(神武東征伝説)が最初に勢力を築いたのは大和川の流域の河内で良いと見ます。伝仁徳天皇陵を筆頭に巨大古墳群が存在する事で確認できます。しかし河内王朝はやがて奈良に移動します。推測される理由として、河内は豊かな恵みをもたらす一方で、大和川の氾濫にトコトン手を焼いたぐらいでしょうか。古代人には大和川は手に負えない怪物ぐらいであったと考えます。大和川流域の河内は当時の主要産業である稲作の適地であり、適地であったので巨大古墳群を造営されるぐらいの富と人口を得ましたが、一方で氾濫は田畑も建物も根こそぎ持って行くぐらいの被害も定期的に与えていたぐらいの想像です。

大和川の氾濫に懲りた河内王朝は、もっと穏やかな川の流域の稲作適地を探したと考えます。河川は下流になるほど大きくなり、大きくなるほど水害が起こるのですが、それなら上流に行けば「エエんじゃない♪」ぐらいの考えが出たと想像しています。河内から東を見ればそこには生駒・葛城・金剛の山々が連なっています。地形図で見ると判りやすいのですが、

当然ですが、大和川が流れるところだけ山が切れています。現在のJR関西本線ぐらいです。「ヤマト」の地名の由来には諸説がありますが、河内から奈良盆地に向う時に、山と山の間の峡谷を門に例えたんじゃないかと考えています。「門」は「と」と読みますから山の門すなわち「山門(やまと)」とモトモトは呼んでいた可能性です。山門の奥に平地(奈良盆地)が広がっている事も行って見ればわかる訳で、これを山門の奥の国と呼び、やがて山門(やまと)が地名になったぐらいの想像です。

この河内からの植民団ですが、国ごと一遍に移動したかどうかは疑問です。当然先遣隊がまず送られたはずです。もう少し言えば奈良盆地は無住の地でもなかったと考えるのが妥当です。無住の地でなかった傍証として、これまた神武東征伝説を挙げておきます。先住民がおり、これを退けて奈良に進出したとして良いかと考えます。でもって神武東征伝説では神武天皇が即位したのは畝傍山の麓の橿原となっています。上記した地形図で考えると、関西本線で王寺まで来てから、和歌山線に乗り換えたとするのが妥当と見ます。関西本線大和郡山方面に進まなかった理由は不明ですが、あえて推測してみると

  1. その先は手強い先住民がいた
  2. 大和川上流地域は稲作を行うには適地と言えなかった
  3. 大和川からは離れたかった
個人的にはすべてが理由の気がしますが、1.と3.が強かったんじゃなかろうかと思っています。つうのも本拠地を置いた明日香は奈良盆地の南の端っこです。地形図で示すと、
神武天皇が即位したとされる畝傍山からさらに引っ込んだ甘樫丘のさらに南東側の地域が古代の飛鳥です。なぜにこんなところを本拠地に選んだのだろうかです。考えられるのは防御重視です。盆地に過ぎませんから高が知れてはいますが、北には広大な平地が広がります。そんなところの真ん中に本拠地を置くのは「危ない」の戦略思想です。攻められた時に明日香なら甘樫丘も防御拠点になりますし、さらに背後の山(たとえば岡寺)に立て籠もる事が出来ます。もう少し広めに戦略思想を考えれば、耳成山畝傍山、天の香具山を前進拠点とし、甘樫丘を第二線防御みたいな配置です。つまりは神武天皇はいきなり奈良盆地を完全占領した訳でなく、
  1. 関西本線和歌山線の河内本拠との連絡線を確保
  2. 奈良盆地の最南部の先住民との抗争に勝ち勢力圏を築く
  3. 北の先住民と対立関係に「それなり」の期間があった
ある種の南北戦争時代があったぐらいと素直に考えます。南北戦争と言うより、アメリカ・インディアンを追い散らして行った開拓民みたいなものでしょうか。


奈良盆地ヤマト王権を完全掌握したのはいつ頃か不明です。それでも飛鳥は都であり続けます。これは父祖からの都の地であると言うのもあったでしょうし、先住民からの襲撃の危険がなくなった代わりに、有力氏族によるクーデターや反乱を警戒した部分もあると考えています。そこに現れたのが天智天皇です。天智天皇は色んな事をやっていますが、都を飛鳥から近江に移します。この天智が一番警戒したのが大海人皇子(後の天武天皇)。ある段階までは取り込んで懐柔しようとしていますが、最終的には排除の対象になっていたぐらいの理解で良さそうです。

天智はクーデターで政権を握り、引き続いて大化の改新と言う大改革事業を強力に推し進めています。この改革事業は一面として従来の氏族の勢力を削るものであったぐらいに理解して良いと考えています。当然の事ながら不平不満は出ます。この不平不満勢力が押し立てたのが天武であったぐらいでしょうか。天智が都を近江に移したのは海外からの侵略に備えての解説が良く見られます。公式にはそう発表されたとも考えていますが、奈良盆地の南部は天武派の勢力が強かったのもあるんじゃなかろうかとも想像しています。

天智と天武の関係は近江に都を移してから臨界点に達し、危険を察した天武は吉野に隠棲します。吉野と言うとえらい遠くに感じますが、これまた地形図を御覧ください。

飛鳥から山一つ越えたところにあるのが吉野です。天武は隠棲と言っても、本当に丸腰で隠棲していたら暗殺されかねません。自分の勢力圏に逃げ込み、そこでクーデター計画を練ったとするのが妥当です。吉野まで逃げれば天智の手は届かないぐらいの見方です。天智が天武派を警戒して近江に逃げたのと同様に、天武も天智派を警戒して吉野に立て籠もったぐらいです。壬申の乱の結果、天武は政権を握り、再び飛鳥に都は戻ります。


やっと藤原京

藤原京の建設が始まったのは持統4年となっています。つまりは天武の次の持統天皇の時代に造営が始まっています。天武の遺志があったと言うか、天武時代から計画されていたかどうかは私では確認しようがありませんでした。当時目指されていた政治路線は中央集権国家。天智が始めた事業を天武も受け継いでいます。この中央集権国家のお手本は言うまでもなく唐です。情報源としては遣隋使・遣唐使も送られています。橿原市かしはら探報ナビには、

新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。

当時の都は大王一代限りのものであったと言われています。理由は他にもあるでしょうが、掘立柱形式の建物は20年ぐらいしたら建て替えが必要だったの見方に私は賛成しています。持統も新しい都(つうより宮殿)を作る時期が来ていたと思っていますが、その時に長安の都の壮麗さに心が躍ったんじゃなかろうかです。もちろん長安の様な都を作るには莫大な予算が必要ですが、それを可能にしたのが中央集権国家(= 歳入増加)だった気がしています。つまり中央集権国家に巨大な都が必要だったのではなく、中央集権国家体制になって巨大な都を作れる資力が手に入ったぐらいです。

おそらく従来の都は奈良文化財研究所HPにある

これは飛鳥浄御原宮の復元想像図ですが、大王がいる宮殿があり、その周辺に役人の住宅、豪族の別邸が自然発生的に取り囲むぐらいのものでしょうか。人口にして1万弱ぐらいが関の山程度です。これに対し持統が作る新しい都は、従来の飛鳥の都なんかと比べ物にならない巨大なものになっています。どんだけ巨大化と言うと、都の面積だけなら、ここでなんですが、藤原京の特徴として宮殿の位置が都の真ん中にある事です。後の平城京平安京がミニ長安的に宮殿が都の最北部に位置しているとの最大の相違です。その理由についてwikipediaでは、

大宰府平城京平安京等が北に政庁を配した北朝形式の都であるのに対し、藤原京だけが古い周礼によって建設されたのは、当時武則天則天武后)が周(武周690年〜705年)を復活させるなどしており、漢土の復古調の影響が考えられる。

もっともらしい説ではあるのですが、個人的に説得力が薄い気がします。そりゃ則天武后長安の宮殿の位置を北から中央に移したのならともかく、あくまでも「たぶん」ですが移していないはずです。当然ですが留学生が見ているのも北に宮殿がある長安のはずです。ですからなんとなくですが、藤原京も当初の計画では長安式の北に宮殿であったと考えています。つうのも、藤原宮の発掘調査で宮殿建設手順は、

  1. まず条坊制の道路を作る
  2. その後に道を潰して宮殿を作る
そういう手順が当時ではポピュラーであった傍証としてwikipediaでは、

藤原京の建設予定地では、まず全域に格子状の街路を建設し、そののちに、宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

個人的に薬師寺と宮殿を同列にするのは宜しくない気がします。薬師寺は条坊道路が作られた後に計画建設されたので街路を潰しただけと考えています。一方の宮殿位置は都の建設でまず一番最初に決められるところと考えます。つまりは

    当初の計画位置から途中で変更された
こう考えるのが妥当な気がします。ではでは宮殿の位置に何か地形的特徴があるかと言えば、これはあります。藤原宮は畝傍山耳成山、天の香具山のちょうど中央にあります。この3つの山は大和三山として有名ですが、古代人が宗教的象徴として見ていたであろう事は論を待ちません。万葉集にも、

香具山は 畝火ををしと 耳成と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき

神聖な大和三山の中央こそ宮殿の位置に相応しいです。地形的にも問題はあって、ほぼフラットにも見えますが、南東が高く、北西が低くなっています。つまり北側に宮殿を作ると都の低いところになると言う訳です。さらに傍証があります。wikipeadiaより、

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの門号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。

どでかい新京建設には反対意見も当然あったと考えています。また総論は賛成でも、長安式なら北の宮殿に近いところほど序列が高く、南に下るほど低くなります。「なんでオレのところの予定地は○○より序列が低いのか」なんて各論反対意見ぐらいが出ても不思議ではありません。その解決策としての中央方式です。中央に宮殿を置けば序列問題に対処しやすいぐらいです。これも推測にすぎませんが、門号は名前だけでなく、その門の周辺にはその氏族の居住地になっていたんじゃないかとも考えています。

久しぶりに飛鳥を訪れて見て歩いた連想でした。やっぱり現地に行くのが一番ですねぇ。