奈良期の平均農家モデル

高島正憲日本古代における農業生産と経済成長:耕地面積,土地生産性,農業生産量の数量的分析が実に興味深かったのでベースデータとしてまとめ直したいと思います。高島氏の論文読みながら感心していたのですが、奈良期の農民1戸の人数の計算根拠というのがあるのだそうです。

当時の農民戸数については,当時の1戸あたりの人口は,鎌田(1984)で推計された1郷あたりの良民(農民)人口1,052人に対して,1郷あたり50戸の規程から除して平均21人と考える

要するに郷と言う行政単位に1052人が属し、そこには50戸あるので1戸平均は21人になると言う事です。「へぇ」としか言いようがないのですが、この1戸21人の構成も研究があります。

現存する戸籍から得られた男女比が,男83.5:女100.0 となる。次に,口分田の班給開始年齢は6 歳からであるので,当時の世帯における5 歳以下および6 歳以上の年齢構成比を求めると,男総数100 に対し5 歳以下16.1、6 歳以上83.9,女総数100 に対し5 歳以下13.4、6 歳以上86.6 という数値が得られる。これを1 戸あたり人口21 人の場合に適用すれば,口分田の班給人数は男8.1 人,女9.9 人になる。当時の規程によれば,男は2 段(0.2 町),女はその1/3 の口分田をそれぞれ与えられるので,合計2.94 町の口分田が1 戸あたりの受ける口分田の面積となる

字で読むと煩雑なのでまず箇条書きで抜き出してみます。

  1. 奈良期の男女比は83.5:100
  2. 6歳以上人口は男性83.9%、女性は86.6%である
  3. 6歳以上に男性は2段、女性は男性の2/3が口分田が支給される(高島氏の論文は誤記されています)
1戸当たりのモデルを表にすると、
1戸人数 男性(人) 6歳以上男性(人) 支給口分田(町) 1戸当たり口分田(町)
21.04 9.57 8.03 1.61 2.93
女性(人) 6歳以上女性(人) 口分田(町)
11.47 9.93 1.32
6歳以上の男性が8.03人になるのですが、高島氏は
  • 正丁:1.7人・・・20〜60歳の男子
  • 次丁:0.2人・・・61〜65歳の男子及び21〜60歳の残疾者(身体障碍者
  • 中男:0.4人・・・17〜20歳の男性
「丁」とは課税対象の人の単位で、次丁は正丁の1/2、中男は1/4の負担となっています。この正丁・次丁・中男を足しても2.3人にしかなりません。当時人口構成からして17歳以上と17歳以下の人口が同じとしてもまだ4.6人です。なにを現している数字か私にはよくわかりませんでした。正丁問題は置いとくとして1戸21人に対して約3町の口分田が与えられる事になります。3町と言えば30反になります。問題は1反から幾ら米が取れたかになりますが延喜式より、
田の等級(反あたり) 穎稲(斗) 舂米(斗) 現在の斗換算 1戸換算(現在斗)
上田 50 50 25 10 293.00
中田 40 40 20 8 234.40
下田 30 30 15 6 175.80
下下田 15 15 7.5 3 87.90
問題は田の等級がどういう分布をしていたかになります。実はこれも文献があるそうで、

班給された口分田は均一な土地ではなく,生産性に差のある様々な田品(田地の等級)の混合地であったと仮定して,その比率を平安時代に編纂された延喜式および弘仁式に記載の田品比率である七分法(上田,中田,下田,下下田の比率を1:2:2:2 とするもの)に求めた。

この七分法も高島氏は検討の結果奈良期でもそうであったとしています。でもって延喜式の税率は

其租一段穀一斗五升,町別一石五斗

「穀」が穎稲なのか舂米なのか微妙なんですが、どうやら舂米を取っている説が多いのでそれに従います。それと租は上田のものであり、等級が下がると租も下がると考えて計算すると、

田の等級 戸あたり口分田(反) 等級田(反) 収穫(斗/反) 1戸収穫量(斗) 税率(斗/反) 税金(斗) 残り(斗) 現在石換算
上田 29.3 4.19 25 104.64 1.5 6.28 98.36 3.93
中田 8.37 20 167.43 1.2 10.05 157.38 6.30
下田 8.37 15 125.57 0.9 7.53 118.04 4.72
下下田 8.37 7.5 62.79 0.45 3.77 59.02 2.36
合計 460.43 27.63 432.80 17.31
延喜式通りに各等級田で収穫があったとして1戸(21.04人)に残る米は17.31石(現在石)になります。ちなみにこの試算モデルでの税率は6.02%になります。さて、次なる問題はこの米の量で1戸を養えるか(米が足りているか)になります。当時の1人当たりの米の消費量の推測も難しいのですが、延喜式の路糧を参考にすると

右運漕,功賃並依前件。其路粮者各准程給,上人日米二升、鹽二勺,下人減半。

荷物を運ぶ上りは1日2升(8合)、下りは1升(4合)となっています。ここも乱暴ですが1日1人当たり6合平均とすれば1年でおよそ2石になります。これでは全然足りない事になります。前に江戸期の米の取れ高の試算をやりましたが、あの時は武士・町人階級が1.5石/人としましたが、それでも半分ぐらいになります。江戸期の計算では農民階級は0.4石/人ぐらいに試算していますから、それに較べれば奈良期の農民は倍ぐらいの米が手許に残る事になりますが、あくまでも延喜式通りに米が収穫出来た時になります。

もう一つのエッセンスとして米以外の農作物がどうであったかになります。奈良期の畑は高島氏の試算で田に対し15%ぐらい、一方で江戸後期が明治初期に近いと仮定すれば80%ぐらいになります。ざっとですが1/4ぐらいになります。さらにがありまして奈良期の栽培野菜にカボチャもサツマイモもありません。これは食糧確保の観点からかなり厳しい感じがします。


最後にチョット気になったのは「郷 = 里」なのかです。里とは条里制の里に当たる面積単位で、36坪が1里です(1坪とは3600歩になり1町になります)。1坪は10段(反)に分割されますから、1里には360反の班田がある事になります。29.3反で1戸(21.03人)になりますから、

    360(反)÷ 29.3(反)× 21.03人 = 258.4人
どうも郷は4里(258.4人 × 4(里)= 1033.6人)ぐらいを一つの行政単位としていたようです。いやぁ、それにしても古代の推測研究って結構なところまで資料があるのに驚かれされました。なんと言うか延喜式の雑物貢進に仰山の筆があった理由が良くわかります。