末期がん患者へのDNR不要論

3/20付日経メディカルより、あえて全文引用します。

コード(心肺蘇生)を末期がん患者や家族に尋ねるな

扇田信(聖路加国際病院腫瘍内科)

 「心臓マッサージをしたり、延命のための人工呼吸器を着けますか? 私としては勧めませんがどうします?」

 こんな会話が末期がん患者やその家族と医師との間で行われているとしたら、すぐに改めるべきだ。感染症COPD心不全の急性増悪などと異なり、末期がんの進行による心停止・呼吸停止に対して心肺蘇生は100%無力であり、医学的に無意味な行為である。

 「肝転移による肝不全で生命の危機がありますから肝移植を検討しますか? 私としては勧めませんがどうします?」

 こんな馬鹿げた話をするなんてあり得ないと思うだろう。肝臓が手に入ることはなく肝移植をしたデータはほとんど存在しないが、理論的には効果があるかもしれない。少なくとも効果は否定できない。ただ、われわれは実際にできないような医療行為の話を患者に持ち出すことはなく、話す義務もない。心肺蘇生は行えるというだけであり、効果を見込める理論すら成り立たない。

 患者は,医療者側が話す治療オプションは,ある程度の効果が見込めるからこそ提示されていると信じている。心肺蘇生は一般市民を対象に講習が行われているし、テレビドラマでも扱われることがあり、行為の概要はある程度知られている。ただ、多くの人が知っているのは、カジノで興奮して突然心停止となり、心臓マッサージ+AEDが奏効して、スタスタ歩いて監視カメラの視界から去っていくというような心肺蘇生であり、蘇生の可能性ゼロで医療者側も無力感を覚えながら行うような心肺蘇生ではない。

 「考えておいてください」

 考えても無意味なのに患者・家族に考えることを強制し、残された短くかつ貴重な時間を奪っている、非常に許しがたい行為である。DNR(do not resuscitate)の同意書に家族のサインを求めることは、もはや狂気の沙汰である。明らかに蘇生の可能性があるにもかかわらず、いかなるときにも心肺蘇生を拒否する場合を除き、患者・家族に負担をかけるだけの行為ということに気づかないのであろうか。

 末期がん患者の家族は患者を失いたいわけではなく、患者も死にたいわけではない。選択肢はなく、誰の同意を得ずとも死は訪れる。サインをさせるという行為は、家族に「自分たちが最愛の人の死にゴーサインを出した」という心理をもたらす。

 本来であれば、末期がんでも抗がん剤で治せれば、それがいいに越したことはない。実際には治療効果が低く、最後は治療ではなく緩和ケアだけが唯一のできることであり、患者・家族の拠り所なのだ。緩和ケア病棟に入る基準として患者・家族にDNRのサインを求めているような病院があるのだが、その行為を改め反省すべきである。その要求は本当に緩和をもたらしているのか。緩和とは名ばかりで、取り返しのつかないような心理的な負担をもたらしているではないか。立場の弱い患者・家族は、サインしないと入れてもらえないから苦痛を我慢してサインをしている。

 慢性型病床や有料の緩和ケア・ホスピス病院で看取ることが増え、末期がん患者をがん治療医が最期まで診る機会は減っている。在宅往診医・訪問看護介護体制が整ってゆけば、今後はさらに減るであろう。がん患者の最期は、思ったよりも早いときもあればずっと長いこともあり、生命の不確かさに驚かされるばかりである。血圧が計測不能、下顎呼吸になってから週単位で生きることもある。

 われわれは、がん治療医とは名ばかりの「抗がん剤投与医」になり下がっていないか。そもそも、挿管・人工呼吸器につなぐことで延命になるということすら幻想だ。エビデンスに基づきもしない思い込みの治療である。その思い込みの治療で患者の最後の重要な期間を縮めている。

 挿管しなければ最期まで家族からの声かけが聞こえているのかもしれないし、家族の握ってくれている手の温もりも感じられるかもしれない。挿管されて完全に鎮静されれば、その可能性はゼロになる。死ぬ時刻が正確に分かるはずもなく、死ぬ直前に挿管ができるはずもない。死ぬかなり前に、挿管・人工呼吸器・鎮静のセットが入るのである。これほど残酷な行為が許されるべきではない。

 「心肺停止時指示;ご家族は心臓マッサージを希望していますが、人工呼吸器等による延命は希望していません」

 「心肺停止時指示;フルコード。患者さん家族はできることすべてを望んでいます」

 コードの話をする人間と実際にコードに立ち会う人間は、まず同じではない。フルコードにした上級医が、責任を感じて夜中の3時に駆け付けて無意味な心肺蘇生を行うことはない。多くの場合、その日たまたま当直している、無関係で状況を全く知らない若手医師が立ち会うのである。心肺蘇生は医学的処置であり、医学的に必要なすべての行為が行えてこそ意味がある。全く効果がない心肺蘇生と分かっているから、このような奇天烈なオーダーが出される。

 患者・家族は効果のある「できることすべて」を望んでいるのであり、効果もなく苦痛だけの行為を望んでいるのではない。手術・化学療法はできないと言うのに、なぜ心肺蘇生はできないと言わないのか。手術・化学療法だって死ぬ直前でもできないことはない。意味がないとわれわれが判断しているのだ。それと同じことを心肺蘇生でも適用するだけだ。

 無意味な心肺蘇生をすることの心理的トラウマは計り知れない。無意味なコードは、「死体」を生きていると仮定して痛め付ける行為にすぎない。そして、周りにいる家族は「医師が何か意味のある行為を行っている」と思っている…と、少なくとも「死体」を押している医師は信じている。死体でないのは、単に死亡宣告をしていないからというだけである。私は今まで経験した無意味な心肺蘇生の光景や感触、そこで交わした言葉をすべて鮮明に覚えていて忘れることができない。私がそもそもこの分野に足を踏み入れたきっかけも、無意味なコードを研修医時代に体験したからである。

 「急変の徴候があれば、できるだけ早くご家族には連絡をします。突然亡くなってしまう場合もありますが、その際は患者さんができるだけ苦しくないように最善を尽くします」

 これだけで十分である。心肺蘇生について、そもそも触れる必要なんてない。われわれはもっと大事なことを患者・家族と話すべきである。

全文が読めない人もおられるので御了解下さい。それと今日のエントリーの中で使う蘇生措置もDNRもすべて「末期がんの終末期状態」での事を指します。要らざる誤解を招かないようにあらかじめお断りしておきます。


賛成意見

がん末期患者のターミナルに際し蘇生措置は基本的に必要としないと言う意見には賛成意見がありました。これはこの医師が指摘したから気が付いたのではなく医師としての共通認識ぐらいで良いかと存じます。


反対意見

まとめてしまえば

    世の中、そんなに甘くない
これに尽きるかと思います。必要としない蘇生措置をどうやって回避するかが実際の問題であり、回避する手法の一つとしてDNRがあるぐらいとして良いかと存じます。とにかく患者もその家族も千差万別でワンパターンではとても対応しきれないぐらいでしょうか。患者の年齢、立場によって家族の対応も様々だぐらいです。私は小児科医ですから子供のターミナルの経験ももちろんあります。それこそ一族郎党が寄り集まっての愁嘆場になります。一方で高齢者のターミナルも経験もあり、極端なケースになると死亡確認してもなかなか親族に連絡が取れず少々困った事もあります。それぐらい幅があると言うことです。もちろん高齢者でも愁嘆場になる事も数多くあります。これを一律にDNR不要論で括ってしまうのは少々無理があるんじゃなかろうかです。

もちろんDNRとて万能ではありません。私が思い出したのは諏訪中央病院緩和ケア科が訴えられた事件です。諏訪中央病院緩和ケア科は「がんになっても、あわてない」で有名な平方眞先生が頑張っていらっしゃるところです。詳しくはリンク先を読んでもらうとして、胃がん患者のターミナル治療についての訴訟です。いくつか争点がある様なのですが今回はターミナルの蘇生術にまつわる部分を拾い上げます。原告側遺族が不満としたのは、

    急変後の患者の苦痛軽減のため、心停止後に蘇生措置を行わないとした方針は、一部の家族に延命治療と蘇生措置との区別をあいまいに説明し、患者やほかの家族のはっきりとした意向を確認せずに決めた。
かなり難解な日本語ですが「たぶん」末期ガンの心肺停止時の蘇生措置にも2種類あり、
  1. 蘇生が必要な場合
  2. 蘇生が不要な場合
この訴訟の原告側の理解として蘇生が必要な心肺停止であったにも関わらず、これを怠り漫然と「見殺しにした」ぐらいでしょうか。判決がどうなるかは別次元ですが、訴訟には巻き込まれると言う事例が確実にあります。それと医療者ならすぐに思い浮かべる個所があります、
    ほかの家族
これが時にどんだけ手強いかです。家族も2種類あるとしてよく、普段からお見舞いなどに訪れる家族と、土壇場で駆けつける家族です。ここもお断りしておきますが、土壇場組も患者に対する愛情に差はないと明言させて頂きます。違いは医療者との信頼関係の差です。普段組は入院から患者が心肺停止、さらには死亡宣告に至るまで医療者と繰り返しコミュニケーションを持っています。そういう積み重ねの中で様々な了解事項を共有しているわけです。一方で土壇場組は医療者とは下手すりゃ初対面です。当然ですが信頼関係もコミュニケーションもほぼ存在しない事になります。その上で土壇場組は土壇場まで来なかったの負い目があったりします。そのためかいきなり目の前に現れた患者の状態に強い憤りを示される事がしばしばあります。そうですねぇ、
    なぜお前ら(医師)は何もしないんだ!
こういう土壇場組への対応はしばしば発生するので医療者もそれを心得て対応しますが、時になかなか納得されない事も起こります。その時に普段組との了解事項(DNR)を示してなんとか納得してもらう手法を取らざるを得なくなったりします。諏訪中央病院緩和ケア科はそういう了解を取るのに習熟していると思いますし、そういう土壇場組への対応も慣れているはずですが、それでもトラブルが訴訟にまで発展することはあるという事です。なにも了解をとらず
    DNR(do not resuscitate)の同意書に家族のサインを求めることは、もはや狂気の沙汰である。
これですべて収まるかどうかはかなり疑問とする意見は多数あった事を記しておきます。患者も家族も千差万別であり「死」と言う重い現実の前にどういう反応をされるかは予想がつかないと言うところです。やはり大勢としてまだしも余裕のある時にDNRの承諾書を取っておくほうが現実としては無難であろうです。DNRは万能の切り札ではありませんが、DNRもなくトラブル状態に陥ればさらに困難な状況が展開しかねないぐらいの懸念です。つうか数々のトラブルが積み重ねられた結果の上にDNRは取っておく流れが出来たぐらいの認識です。

それと蘇生措置は基本的に不要なのは共通認識ですが、患者への思い入れの強い家族の要請としてポピュラーなものとして、

    ○○が駆け付けるまでなんとか・・・
これが出る事はあります。いわゆる「せめて死に目を」の願いです。蘇生措置を施しても無理なものは無理ですが、1時間とか2時間ぐらいならその気になれば頑張れるケースはあります。私もやった事があります。そうやって蘇生措置を施した結果として数日の延命が可能になった事もあります。その数日が意味のあるものなのか、そうでないものなのかは医療者が決めてしまうのは躊躇われます。非常に意味のあった家族も少なくないと思っています。


「もっと大事なこと」とはなんぞや?

それでもDNRが目的でなく手段に成り下がっているの指摘として、この医師の意見を受け取る事は頑張れば可能かもしれません。それならばどういう手法を取ればDNRなしでトラブルを回避し家族にも納得して頂けるかです。これを探してみたいのですが、結構な分量であるにも関わらずあんまり書かれていません。まずなんですが、

    「急変の徴候があれば、できるだけ早くご家族には連絡をします。突然亡くなってしまう場合もありますが、その際は患者さんができるだけ苦しくないように最善を尽くします」

    これだけで十分である。
なにか凄い事が書いてあるように感じられる方もおられるかもしれませんが、ごくごく普通の事が書いてあるだけです。つまりは誰だってやっているターミナル時の対応に過ぎません。これは十分条件でなく必要条件に過ぎません。これだけの事でトラブルが発生しないのなら誰も苦労しません。ここに書いてある必要条件を満たした上でどんな十分条件を満たせばDNRなしでトラブルが回避できるかを知りたいわけです。十分条件らしいところとして、
    われわれはもっと大事なことを患者・家族と話すべきである
そりゃそうなんですが、これだけでは「気分」が書いてあるだけで具体的な十分条件がサッパリわかりません。家族には上記したように普段組だけではなく土壇場組もおられるわけであり、そもそも土壇場組には話すべき時間さえ殆どない訳です。さらに言えば終末時のトラブルは土壇場組が原因となる事が多いのも医療者の常識です。具体的な十分条件の全体像は不明ですが「大事なこと」に含まれない事項の一つは確認できます。
    ただ、われわれは実際にできないような医療行為の話を患者に持ち出すことはなく、話す義務もない。
ここが指すのは蘇生措置であるのは文意からして明白です。つまり蘇生措置に関わる事は一切話してはならないと理解して良さそうです。そうでなければDNR不要論が成立しませんが、これぐらいしか十分条件ついて書かれていませんから「???」です。あえて推測すれば蘇生措置の話を医療者が持ち出さなければ患者も家族もそういう措置がこの世に存在することを知らず、知らないからトラブルにもならず、知らないからDNRは不要になるぐらいなのでしょうか。万が一でもそんな理由なら石を投げられそうな気がしないでもありません。

当然ですがもっと違う「大事なこと」があるはずです。これについては私のような凡庸な想像力ではまったく思い浮かびません。つうかこれが判らない事にはこの医師の主張の最終評価は保留にせざるを得ないぐらいです。ここまで強い主張をされるぐらいですから、きっと目から鱗クラスの素晴らしい手法論が存在するはずです。少なくとも聖路加国際病院腫瘍内科、いやもっと限定してこの医師は蘇生措置の事を全く触れず、DNRも取らずに何の問題も起こさず患者を看取る実績を積み上げられている「はず」だからです。医療には秘密はありません。是非公開して頂きたいと希望する次第です。


DNR不要論が読みたい

意見の核心は言うまでもなくDNR不要論のはずです。この医師はDNR不要論を出すためにその前段階である蘇生措置不要論に重点を置きすぎた気がします。つうか実質それしか書いていないで宜しいかと思います。繰り返し強調手法を用いる事によって救急措置不要論は論証できているとは思いますが、掲載場所からして医師に読ませるものでありこの部分は医師にとって無駄な部分です。そんなに執拗に強調しなくとも医師なら前提のお話です。なおかつ非常に奇妙な事に論旨の進め方は

    蘇生措置不要論を論証したからDNR不要論を同時に立証できた♪
そんな事で立証できているとは現場の医師は思わないし感じもしないと言うことです。「蘇生措置不要論 = DNR不要論」とは絶対に結びつかないと言うことです。現実の問題は医師として基本的に不要と考えている蘇生措置をいかにしないかの手法論であり、その手法の一つとしてDNRがあるわけです。医師が蘇生措置の話を持ち出さずとも患者家族の中には期待している者が確実に存在していると言うことです。DNR不要論を展開したいのなら蘇生措置不要論を力説するのではなく
    不要な蘇生措置をどうすればDNR抜きで家族に納得させる事が出来るか
この手法論がメインでなくてはならないと言うことです。そのために患者や家族に蘇生措置不要論を啓蒙する趣旨なら今回の主張でも「まだしも」ですが、現場の医師に訴える主張なら内容は「???」としか私は思えません。まあ、あんな表現手法では患者の啓蒙の役に「???」でもあります。そういう点を練り直して発表してくれない限り議論のベースにもなりにくいと考えます。


蛇足 私ならこう書く

根本の体裁をケースリポート形式にします。前段としては、

    末期ガン患者の最終段階に蘇生措置を施すのは医療的にも無駄であり、患者にとってもメリットがあるかどうかについて疑問な点が多々あります。そのため無駄な蘇生措置を回避するためにDNR(do not resuscitate)の了解を予め取っておく事が一般化し広く行われています。DNRの取り付けは現場医療の必要性から生まれたものと理解はしますが、患者及びその家族にとって重い決断を強い、心理的な負担になる点を我々は常々懸念していました。患者との残り少ない時間をそんな事で費やさせたくないの思いからです。
次は蘇生措置不要論を「付け加える」ぐらいで軽く補足しておいて、
    とはいえDNRを省くには単に省いただけでは昨今の医療情勢から種々のトラブルが起こる懸念が残ります。1人の人間の死はそれほど重いものです。そこで我々の取り組みとして次の事を行いました。
ここからは具体論の展開です。内容については私は想像しようもないので、なんらかの手法論を書いて頂くことになります。でもって結び的なところは、
    こういう取り組みを行った結果、聖路加国際病院腫瘍内科ではDNRを省く事に成功しました。地域事情、医療機関の性格などにより我々が行った手法が常に通用するかどうかはなんとも言えませんが、患者及びその家族の心理的負担を軽減するために参考にして頂ければ幸いに存じます。
こういう体裁なら建設的な議論が「まだしも」期待できるんじゃないでしょうか。別に真似する必要はない事を念のために付け加えておきます。