ニシンと木綿のお話

北前航路とは日本海航路を指します。地理的には下関から松前を指すぐらいになりますが、今日使う北前交易は狭く取って大坂(上方)から蝦夷(北海道)の松前を結ぶ交易とします。上方から北海道に持って行ったものは基本的に日常品(もちろん奢侈品も含む)で良いかと思います。でもってこっちの方はさしての利益は期待できなかったとされます。もちろんそれなりに利益はありましたが、その利益は北海道での仕入れに費やされるぐらいの理解で良さそうです。ここも単純化すると北前交易とは、

  1. 上方の商品を仕入れて北海道に持って行く
  2. 北海道で売りさばいた利益で仕入れをする
  3. 北海道から持ち帰った物品で利益を得る
こういう仕組みであったぐらいでも大外れではなさそうです。でもって何を持ち帰ったかですが、まずは昆布でしょうか。昆布が大量に上方にもたらされたお蔭で昆布だし文化が定着したのは確実にあります。他には・・・新巻き鮭もあったと記録されています。これは珍しく発明者(御影屋松右衛門)もわかっており、北海道で食べた鮭が美味しかったので、なんとか上方に持って帰る方法を編み出したのがそれになるそうです。新巻き鮭は今でもありますし、いわゆる塩鮭が定着したのも松前交易の賜物かもしれません。

で、大きな交易品としてニシンがあります。ニシンも人間が食べるためではなく、その締粕を肥料にするために大量に必要とされています。いわゆる金肥になりますが、それまで主力であった干鰯にくらべると肥料の効果は段違いであったとされ、木綿や藍等の商品作物に「いくらでも」の需要があったとされます。ニシン以外にも鮭や鱒も一部は食用にされても、大部分は搾りかすとして金肥になったぐらいの理解で良さそうです。この辺は魚の保存技術が限られていましたから食用は限定されたのは致し方ありません。

そいでもってどれぐらい儲かったかです。これも伝聞によるアラアラのドンブリ勘定ですが、一航海で千石船が買えたぐらいであったとされています。なおかつで言えば、北前交易は1年に一往復、無理しても2往復が限界とされています。冬季は和船では到底航海は無理だったぐらいです。今日の話は延々たる芋づる式になりますが、まずは千石船は1隻いくらぐらいだったかです。モトネタは司馬遼太郎の「菜の花沖」程度であることは白状しておきますが、おおよそ千両であったとされます。

千両が現在の貨幣価値でどれぐらいであったかになりますが、前にやったかけそば換算で考えてみます。かけそば換算の1両は7万5000円になります。つまり千両とは7500万円ぐらいになります。ここで一航海で千両儲かるの話があります。千石船に正味どれぐらい積めるかは自信がないのですが、ここは単純に正味千石積めるとします。千石とは何kgになるかですが、これも概算で1石で150kg、つまり千石で150トン(15万kg)になります。一番の儲け筋のニシンを目いっぱい運んできたとして、kgあたり500円(33文)の利益が出る計算になります。

これは利幅であって、仕入れ原価が必要になります。仕入れ原価もモロモロ合わせて利幅と同じぐらいに仮定するとニシンの問屋への小売値は1000円(67文)ぐらいになります。さらに問屋からさらなる小売を通すはずですから、それぞれ2割ぐらいの利益を取れば農民が買う末端小売値は1440円(96文)ぐらいになります。ここは括る事にしてニシン金肥の末端小売値はkgあたり1500円(100文)ぐらいじゃなかろうかと推測されます。kgあたり100文がどれぐらいかですが、かけそば換算で考えると米2升ぐらいに該当します。菜種油なら1升相当でしょうか。お酒なら4合程度になります。


そうなると次に気になるのは木綿栽培にどれほどの金肥が必要だったのだろうです。これがなかなか書いてなかったのですが、干鰯でやると木綿畑1反で金1分なんて記録があります。金1分とはかけそば換算で1250文になります。干鰯とニシンですが、ニシンの方が単価は高かったのですが肥料効果は優れていたとなっています。つまり量が少なくて効果があり、トータルでは気持ち割安ぐらいの感じでしょうか。このあたりも自信が無いですが、トータル割安説を取れば畑1反に付き1000文(1万5000円)ぐらいと考えましょうか。つまりニシン10kgぐらいになります。1000文あれば2斗(20升)の米が買えるわけですが、それだけ肥料代を費やしても木綿は儲かった事になります。

さて1000文費やした畑1反あたりの収量がどれぐらいかです。これが諸説あるのですが成績の良いところでは70貫(260kg)も取れたとなっていますが、平均的には40貫(150kg)だったとする説もあります。現在の技術で畑1反あたり240kgらしいですから、70貫はちょっと多すぎ、40貫(150kg)ぐらいが妥当な気がします。これも概算なのですが綿花1kgでおおよそ服1着分相当になるともされています。そうなると畑1反から150着相当の服が出来たぐらいになります。ちなみに服1着分の布量も1反の単位になります。妖怪じゃありませんが一反木綿で服が1着できたわけです。


さて次に進むと木綿1反がいくらだったかです。これも前にかけそば換算をやった時にあったのですが、年間15万文の支出のうち衣料費が8%つまり1万2000文ぐらいの記録がありました。家族は子ども2人で老父が1人の5人ぐらいらしいのですが、1万2000文で何着買えるかとなると「???」です。ちなみに年間支出の8%と言えばほぼ住居費と同じなんですが、どこかに木綿1反はほぼ棟割り長屋の1か月分に相当するなんて記載もありました。この木綿1反が布代だけなのか、仕立て代も含んだものなのかが微妙ですが、当時的には仕立て代も込みと考えると木綿1反1000文(≒ 服1着)がはじき出されます。実際は古着を買っていてもっと多かったと見ますが、古着も新着がないと出来ませんから、新着換算で1人年間2着ぐらいの意味です。

これはニシンと逆で末端小売値仕立て代込みですから、小売時の服屋の利益を仕立て費込みで2割と考えます。服屋は問屋から仕入れている訳でから、問屋も2割取っていれば木綿農家は布1反あたり650文ぐらいになります。これが畑1反で布150反取れますから、9万7500文が木綿農家の売り上げになります。ま、ここは10万文として良いかもしれません。

やっとたどり着きました。木綿農家は木綿栽培のためにニシンの金肥を畑1反に付き1000〜1200文必要ですが、一方で畑1反から10万文程度の売り上げが期待できるわけです。これを稲作とくらべるとどうなるかですが、田1反からは米1石が収穫できますが、米1石は末端価格で1両(5000文)になります。農家が問屋に売る時に木綿と同様の流通をたどるとすれば、農家が米問屋に売る時は0.7両程度と考えます。そうなると稲作1反で3500文ぐらいになります。金肥代以外の手間賃を同等とする、もしくはもう少し高いとしても木綿では畑1反につき25倍以上の収入が期待できます。この辺は中間でもっとボラれている可能性が少なくありませんが、どんなにボラれても10倍は軽くあったと推測します。


たいしたムックではないのですが、江戸期に木綿栽培が盛んになった話は知っています。盛んになりすぎて幕府が何度も制限令を出しているぐらいです。一方で木綿栽培のために大量の金肥が必要な話もでていました。とくにニシンは高い、高いと言いながら、いくら北海道から運び込んでも飛ぶように売れていったお話です。だからこそ北前交易が盛んになるのですが、高いと言われるニシンの金肥は木綿農家にとってどれほどの負担だったのだろうの素朴な疑問です。

稲作のためだけならニシンの金肥は無茶苦茶です。これも仮にですが木綿と同じ量の金肥を投入していたら1/3ぐらいが肥料代になり話になりません。ところが木綿になると売り上げの1〜2%程度の負担です。多くても5%いかないでしょう。これなら需要がワンサカ湧いてくるはずです。さらに我も我もと木綿に挑戦する農家が増えるのも良くわかります。木綿の服の需要も生産量に較べると当時は無尽蔵の感覚もあったんじゃないと思っています。


次に見ときたいのはどれぐらいの木綿重要があったかになりますが、江戸期の人口は3000万人ぐらいだったとして、そのうち1000万人が木綿の服2着を買ったとすれば2000万着、布2000万反になります。これは木綿の服ばっかり買っていたわけではなかろう考えたのと、年間2着も買えない層も相当あったんじゃないかの推察です。布2000万反を作るのに畑13万反ぐらいが必要になります。1反に付き10kgのニシンが必要と今日は概算していますから、すべてニシンで賄うとすれば130万kg(= 1300トン)ぐらいは必要になります。ん、ん、ん、千石船は150トンのニシンを運べますから全部で9隻ぐらいで賄えてしまいます。おっかしいな、どこかで換算ミスをやってるのかなぁ。木綿需要が倍になっても20隻もあれば需要を賄ってしまいます。

北前船は江戸後期に500石以上のものが1500〜1600隻はあったと推測されていますから、ニシン需要ぐらいを賄うのはそんなに難しくなさそうな気もします。私が計算ミスをやっていなかったらニシンが珍重された理由は、

  1. 北海道と上方を往復できる北前船は案外少なかった
  2. 北前船でニシンを主力とするものは案外少なかった
どちらもありそうなんですが、もう一つニシンはそこまで獲れなかったもあるかもしれません。最盛期には100万トンの漁獲があったニシンですが、江戸期には1000トンを確保するのも結構大変みたいな感じです。それとニシン自体を持って帰るのではなくニシンの締粕ですから、ニシン自体はその倍ぐらいは取る必要があったのかもしれません。それと良くわかりませんが、ニシンは儲かったのは間違いありませんが、ニシン以外の昆布とか、鮭でも十分儲かった可能性も考えています。ですから北海道まで来た北前船はニシンを絶対とは考えず、他のものでも十分満足して帰ったのかもしれません。場合によってはニシンより儲かったとかです。


なんか最後の最後に計算ミスをどこかでやらかしている気がしますが、その辺は優しくご指摘ください。