日曜閑話61

今日のお題は「空海高野山」です。某所で空海高野山に金剛峰寺を開いたのは、こんな不便なところだが

    オレの教えを学びたければここまで来い
こうでなかったかの説を立てられました。確かに高野山は今でさえ不便なところにあり、よくまあ、こんなところにこれだけの寺を建てたものだと感心します。ですから、そういう部分もあったのは否定できませんが、ちょっと違う説を展開してみました。ただなんですが、私が空海に対して持っている知識は司馬遼太郎の「空海の風景」程度のものなので、その点は差し引いてご勘弁下さい。


日本の仏教は国家が輸入していました。それで成立したのが奈良六宗ですが、当時でも「論であって教でない」の批判があったとされます。私にはその辺の感覚がもう一つ実感できないのですが、最澄空海もその点では一致し、論ではない教である仏教を日本にもたらそうとしたで良いと思っています。最澄が選んだのが天台宗であり、空海密教です。

当時の独裁者桓武は奈良仏教に飽きたりず新たな仏教を求めていたぐらいと考えています。この辺も今となっては良く分からないのですが、あえて理由を考えると奈良仏教は藤原氏系の有力貴族との結びつきが強く、自分の考えを反映させてくれる新たな仏教が欲しかったのかもしれません。とにかく最澄桓武に気に入られ、遣唐使船で中国に渡り天台宗を手に入れます。

でもってこの時に同乗していたのが、当時まだ無名であった空海のようです。空海が当時本当に無名であったのか、なぜに遣唐使船に乗り込めたのかは司馬氏の調査でもはっきりしなかったようです。ただ無名の人物では遣唐使船にホイホイ乗る事は難しかったと思います。

これは司馬氏の意見と一致するのですが、空海は奈良仏教の応援を受けていたのではないかと私も考えています。最澄が奉じる天台宗に対する危機感の裏返しです。最澄桓武の庇護の下に天台宗を持ち帰れば奈良仏教が危機に瀕するぐらいでしょうか。空海密教もそんな要素はあるようにも思いますが、最澄が奈良仏教を正面から否定する立場であったのに対し、空海は奈良仏教も並立させるぐらいのプランを長老たちに説き支援を集めていたです。

空海は謎の多い人物ですが、唐での資金源もまた謎とされています。空海密教の伝承のために多額の金品を費やしたとされますが、それは誰からの支援であったのかです。この時代にそういう事が出来るのは、朝廷、有力貴族ぐらいで、庶民階級にはまだまだ力がありません。そうなると有力貴族に匹敵する有力寺社の支援ぐらいしかない気がします。空海の帰国後の奈良仏教との関係を見ると、最有力スポンサーは奈良仏教であったの推理は成り立ちそうな気がします。


密教ブーム

唐から帰国後も先行したのは最澄です。桓武の庇護の下に今に続く比叡山を本拠地として成立させます。ただ最澄に取って誤算だったのは、帰国後の新仏教への期待が最澄天台宗でなく、密教になっていた点のようです。ここも司馬氏はボカしていますが、何故にそうなったのだろうです。自然な流れと言うより、何らかの人為的な操作が加わっていたのではないかです。

先ほどの奈良仏教空海支援仮説から考えると筋は通りやすくなります。最澄は奈良仏教を成り行き上敵視しています。その切り札兵器が天台宗です。さらに独裁者桓武の庇護付です。こんなものが直輸入され猛威を振るわれたら「たまったもんじゃない」です。そうなれば対抗策として、最澄天台宗の価値を落とす工作が必要です。最澄に続いて空海が持ち帰るはずの密教を新仏教の中心に据えようです。空海なら奈良仏教のヒモ付きですから、悪いようにはしないだろうです。

最澄密教の一部を持ち帰っていたのが誤算だったかもしれませんが、空海が本物の密教を持ち帰ると一躍時の人になったと見ます。この辺は様々な見方が成立しますが、空海は奈良仏教の対最澄用の秘密兵器であり、空海が持ち帰った密教が新仏教の主流になるように奈良仏教が行った工作ではなかったろうかです。無名で唐に渡った空海が帰国後に表舞台に駆け上がったのはそれぐらいの理由はありそうです。


嵯峨

空海に取ってさらに幸運だったのは、桓武が亡くなり、薬子の乱を経て皇位に就いた嵯峨の存在です。嵯峨は桓武が築いた独裁権力を適度に保ちます。それより何より、空海が持っていた先進文明・文化に憧れます。嵯峨−空海ラインの成立です。当時最大の権力・金力を持っていたのは朝廷であり、朝廷の頂点にいた天皇になります。桓武の庇護の下で羽根を伸ばした最澄と同様に、嵯峨と言う最有力支援者を得た空海も羽根を伸ばせる事になります。

逆に最澄は不遇時代に突入します。桓武がいなくなり、奈良仏教はもちろんの事、空海密教にも圧迫される状況が続きます。最澄も偉大な人物ですが、空海は化物の様な人物で、才華の煌きは言うまでもなく、政治工作でも最澄を遥かに凌いでいたとしても良いと思っています。日本史でも100年程度に1人現れるかどうかの怪物であったと言うところでしょうか。


やっと高野山

空海が成り行き上最澄をかなり意識していたのはあると思っています。周囲もそれを期待して支援していますし、その期待に応える事で空海の地位は築かれていったからです。もちろん空海は自らの密教体系には絶対の自信を持っていたでしょうし、最澄天台宗など低いものと見ていたとも思っています。空海最澄の事を本音でどう思っていたかは知りようもありませんが、長年ライバル的な位置にいればあれこれ意識しない方が不自然です。

空海が自らの本拠地を作ろうとするのは不思議でも何でもありませんが、念頭にあったのはやはり最澄比叡山だった気がします。比叡山より下の本拠地は許し難いです。ただ比叡山は良いところに建っています。都の北方で周囲を見下ろすような場所です。これをなんとか凌ぐ本拠地を空海は是非欲しかったです。

空海は東寺を下賜されて本拠地にしますが、空海の感覚では十分とは言えなかった気がします。シチュエーション的には、北の比叡山に対する南の東寺とは言えますが、やはり比叡山に見下ろされる関係は好ましくないところぐらいでしょうか。ただなんですが、場所は難題です。比叡山よりさらに北の湖東なりでは、比叡山の裏側感覚であんまり嬉しくないぐらいでしょうか。

京都の東山なりも、どう作っても比叡山から見下ろされる位置関係になり好ましいとは言えません。そういう中で空海が意識したのは山であった気がしています。とりあえず比叡山が北なら、南が望ましく、なおかつ比叡山に匹敵する山である事が望ましいです。ただ京都の南は適地が乏しかったと考えます。天王山辺りも候補に浮かんだかもしれませんが、どうにも中途半端な感覚です。もっと南に下れば金剛山や生駒もありますが、ここに作ると支援者であった奈良仏教を見下ろす感じになり、あんまり宜しくないだろうぐらいも考えた気がします。

さらに考えると、空海最澄を意識して南に本山を作ったと言われるのも嫌だったかもしれません。本当は意識しているにしても、そうストレートに受け取られるのは空海の美意識が許さなかったぐらいです。


そこで視野を南限まで下げたのではないかです。高野山は都から遠いのですが、この近辺は吉野でもあり、まだ畿内の内みたいな感覚があります。また高野山を下りれば紀ノ川であり、ここを遡れば五條から奈良に至り、京都に通じます。これ以上南に下れば、京都との縁が切れるほど遠くなりますが、高野山ならギリギリ南限みたいな感覚です。

それと後背地としても期待できるところです。紀ノ川の水運(終点は橋本だったそうです)は活用できますし、紀ノ川中流域の農業生産も期待できます。それより何より、ここまで南に下れば、比叡山との直接比較を積極的にする人間も少ないだろうです。


高野山

もう一つの狙いもあったんではないかと考えられます。京都は文化の中心ですが、政治の中心でもあり、政争もまた激しいところです。そんな政争による浮き沈みも空海は当然知っているはず(伊予親王事件に巻き込まれた阿刀大足とか)です。空海は嵯峨との関係で飛躍した部分は確実にありますが、一方で最澄桓武との関係で浮沈があったにも目に見えています。このリスクを空海は避けたかったんじゃなかろうかです。だから南限の高野山まで下がったです。

この政治的な距離を置きたいは、高野山の建設姿勢にも現れています。当時の空海の地位、存在感、嵯峨との関係から官寺として建設するのは決して不可能でなかったと見ています。ところが高野山はあくまでも空海の私寺として作られます。そのための資金集めに空海も苦慮した記録も残っているようですが、それだけの苦労をしても私寺としたのは、後継者が政争に巻き込まれないための配慮だったんじゃなかろうかです。空海ならば政争に対処できても、空海以外の人物では到底無理の予測です。

このプランは紆余曲折があったものの成功したと見ます。密教はその後の朝廷でも活躍しますが、そちら方面は京都の東寺が主に担当します。そして時代と共に高野山は政治的中立地帯の趣を濃くしていきます。有名な奥の院墓所にしても、敵味方の武将の墓石が建ち並び、それを時の権力者でさえ殆んど文句をつけなかったとして良さそうです。

政治的な処罰の一つに「高野山に追放」てなものがあり、信長も佐久間親子に下したりしていますが、これもまた時の権力者が高野山が中立地帯であるの共通認識が確立していたからではないかと考えます。間違っても追放された有力者を全面支援して高野山が立ち上がるみたいな状況が「ありえない」と認識されていたからじゃないかと思っています。


この点、北の比叡山は位置的にも政治に深く関与せざるを得ない経緯を取ります。都の有力貴族の子弟は比叡山で僧となります。自然に有力貴族と比叡山の関係は深くなります。地理的にも都に近いため、僧兵による武力自衛も自然に行われ、武力が有力なほど政治的な重みが増します。その一つの結果が信長による延暦寺焼き討ちになったと言えるかもしれません。もちろんそこまでは最澄の責任とは関係ないですけどね。


笑う空海

全部仮説です。もし空海にこの仮説を投げかけても、

    ほう、色々理屈を考えたようだが、単にこの山が気に入っただけさ
これで一笑されてオシマイの気がします。でも案外そうかもしれません。その場所を気に入るのは理屈抜きの直感の部分があります。気に入った山を別の角度から見れば、上にあげたような理由が後付で出てくる位です。色んな計算は後から出ただけの話で、問答無用で先に高野山空海が気に入っただけが本当のところかもしれません。そうでも考えないと空海高野山を選んだ理由を説明しきれないからです。

空海の実像は今となっては伝説・伝承が多すぎてかえって判り難くなっています。あえて喩えると万能の人です。密教と言う感覚的な要素が多い思想を受け入れられる素地があり、これを大系として完成させる論理力が卓越し、筆から墨、土木技術のような実用技術を忽ち習得する職人的な器用さがあり、華やかな文章、見事な筆跡を残す芸術的なセンスに満ち溢れていたです。その上で政治力もまたふんだんに備わっているです。

先ほど空海の直感としましたが、これほどの才華の人物の直感は、凡人のヤマカンとは次元が違います。色んな要素を無意識に計算した上でのものです。頭でこねくり回す作業も一瞬もかからず終わり、当人はそんな事を考えた意識すらないレベルのものです。あえて言えば、意識下にあった諸条件が見事に当てはまり、一方で反する条件もない状態ぐらいでしょうか。

まあ、こんな理屈も空海に言えば大笑いされてやはり「オシマイ」と思っています。


もう一度最澄空海

漠然たる感想ですが、宗教者としては最澄空海も五分五分だった気がします。そんな二人の差は宗教者以外の才能の差です。とにかく空海は何をやらせても超人的な才能を発揮します。いわゆる俗才部分まで空海は実に達者であったぐらいの評価は可能かと思っています。

それと当時は理由はハッキリしませんが、奈良仏教に代わる新仏教の登場が渇望されていたのはありそうです。これは奈良仏教自体も自覚しており、既に阻止するのではなく、どうやって折り合って行くかを考えている段階ぐらいと考えています。そういう素地がないと最澄空海があれほど、もてはやされた理由が理解不能になります。

運命の悪戯と言うか、歴史の皮肉は常に最澄を先行させます。その先行する最澄空海が追っかけていくのが基本構図です。この先行していた最澄との差は、後世の我々が考えるより遥かに巨大であったのかもしれません。事実だけ見ても、空海がやっと台頭しかけた頃には、最澄は自らの天台宗を奈良六宗と並ぶ地位にしています。当時は国家公認宗教でしたから、最澄は公式にも奈良仏教と対等の地位に達していた事になります。

そこから猛然と空海は追いかけます。空海自身もその差の大きさを自覚しており、追いつくために時に最澄を追い落とすような事まで行ったとなっています。聖人「お大師」様のある意味陰の部分です。現在の我々は弘法大師として揺るぎない地位にいる空海しか知りませんが、当時の空海は新仏教の最大のライバルである最澄に追いつくのに必死だった気がしています。空海にとっても食うか食われるかのサバイバル闘争だったぐらいです。

この追いかける時に空海の俗才部分が存分に発揮された感じです。これも考えようですが、空海ほどの才華をもってしても、一代で最澄に追いつくのがやっとだったと言えなくもありません。なぜに容易に追いつけなかったかですが、先行する最澄もまた確実に進んでいたからじゃないかです。だから宗教者としての資質は互角じゃなかったろうかです。

もしこの二人の立場が入れ替わっていたらの「if」を考えたりしますが、私如き凡才では何も語る事はできません。