続延喜式の蘇

蘇の前の段階の牛乳の引用ですが、wikipediaより、

日本書紀』に「牛酒」と言う記述が見られる為、弥生時代より飲用されていた可能性がある。一般には、560年(欽明天皇21年)に百済の智聡が、日本に来た際に持ってきた医薬書に、搾乳などについての記述があり、これによって広まったとされる。

JSJ様から紹介して頂いた日本家政学会誌 Vol、39No.4349〜356(1988)斎藤瑠美子,勝田啓子「日本古代における乳製品「蘇」に関する文献的考察」が非常に詳細に調べられているのでこちらを活用しますが具体的には、

日本人の牛乳飲用の最古とされる事例が史書に現れるのは孝徳天皇時代(645〜654)である.それは欽明天皇23(562)年大伴連狭手彦に伴われて渡来した智聴(呉国主照淵の孫と伝えられている)の後孫普那が孝徳天皇に牛乳を献上し姓を与えられたという記録である.

新撰姓氏録左京諸蕃下の該当部分の一部を引用すると

依献牛乳 賜姓和薬使主 奉度本奉書一百三十巻 明同図一 薬臼一 及伎楽一具 今在寺也

賜った姓は「和薬使主」だったようです(えらい長いなぁ)。どうも嗜好品と言うより薬としての位置づけであったようで、孝徳期に伝わったとされる肘后備急方とか名医別録の医学書にも牛乳の効用が書かれてあったようです。牛乳の飲用は天皇や上級貴族に受け入れられたようです。延喜式には

凡供御乳,日別大三升一合五勺

大三升一合五勺とは約2.3リットルになります。おおよそ200mlの牛乳瓶換算でで11本ぐらいになります。この牛乳は源高明西宮記

供御三宮乳

この三宮とは大皇太后、皇太后、皇后であり、この三宮と天皇が飲用していたと推測されています。量的にも天皇と三宮とせいぜい後数人ぐらいの量しかありませんから、そんなものかと思います。天皇が飲用すれば上級貴族がこれを真似るのは必然の流れで、11世紀の文献にも上級貴族が引用した記録が残されています。当時の貴族の食事から脚気などが起こりやすいと推測され、現実にも悩まされていた記録があり、これに対する牛乳の効果は十分に期待されますから、治療と予防のために牛乳の飲用さらには常用が広まったと考えるのは不自然とは言えないところです。


聖武天皇の肉食禁止令との関連

牛乳の飲用やさらには乳製品を食べるのが衰え、さらには途絶してしまったのはwikipediaより、

奈良時代聖武天皇が肉食の禁を出したことで、以降は仏教の普及とともに、次第に牛乳を飲む風習は薄れていったとされ

肉食に禁止令(的なもの)は天武天皇が675年に出たのが始めとされ、聖武天皇のものは730年に出されたとなっています。ただなんですが、8世紀に出ても11世紀でも牛乳の飲用は続いているのが文献で確認できます。聖武天皇の禁令から300年しても続いている訳ですから、聖武の禁令をあまり重視するのはどうかなって思います。ボディーブローの様にジワジワ効いて行ったの考え方は可能ですが、解釈としてはもっと単純に仏教の広がりにつれて廃れていったとした方が良さそうな気はします。

それと仏教、仏教と言いますが、仏教は長らく貴族の宗教としてのみ存在したと考えています。奈良六宗もそうですし、天台宗真言宗も基本はそうだったはずです。庶民にも広がったのは禅宗曹洞宗)からと思っていますが、その辺までは今日は調べていませんから置いときます。史実として言えるのは聖武の禁令ですぐに衰退したとは到底思えないぐらいです。


蘇の広がり

蘇は延喜式より

凡諸國貢蘇,各依番次,當年十一月以前進了。但出雲國十二月為限。

出雲以外は11月までに納めるように規定されています(なんで出雲だけ12月なのかは不明)。ここから蘇の食材としての使用は年賀料理に用いられていたのではないかの推測がありますが、私も基本的に同意です。延喜式には蘇を使った料理の具体的な規定はありませんが、おそらくデザート的な位置づけであったとするのも同意です。蘇は牛乳を煮詰めたものである種の保存食ですが、おそらく当時の技術的に年単位の保存は難しく、宮中の冬の味覚、冬の珍味として取り扱われた可能性はあると考えています。貢蘇量は延喜式から計算すると約40kg程度ですから、年始から始まる一連の行事での食事に費やされていたぐらいを想像します。この蘇の味と言うか、蘇の存在を朝廷がどう考えていたかの傍証が「日本古代における乳製品「蘇」に関する文献的考察」にあります。

平安時代前期になると貢蘇量が拡大し各国の負担が重くなったことにともない国司のなかには粗悪な蘇を貢納するものがおり,そのことが政府によって糾弾されるに至るのである.また,貢蘇期を遅らせる者も現れ,違反が頻発し貢蘇制度が乱れてくるのである.

平安前期の蘇の朝廷での需要は拡大傾向にあったと見て良さそうです。さらに

これに対して朝廷では,清和天皇貞観7(865)年,光孝天皇の仁和3(887)年,違反者に対し重い刑罰を科して粛正し貫蘇の制度を維持しようと努めている.

貢蘇量の維持のための罰則が発せられているのが9世紀後半のお話になります。それと注目したいのは「国司のなかには粗悪な蘇を貢納するものがおり」に関連してですが、

また,国司や地方豪族は良質な蘇を買い占めることに利益を求めるに至り,良質な蘇は売却され,国司はかわって粗悪なものを交易して貢納するようになったと考えられる点はとくに重要である.

ここは重視して良いポイントと私も思っています。蘇は6年毎に貢蘇の当番国になりますが、当番年以外にも蘇は作られていたと考えて良さそうです。「交易」があったという事は公式の蘇生産以外に非公式の蘇の生産も当然あった事になります。蘇は完全に商品となっており、それこそ市で取引されるレベルに普及していたと考えても良さそうです。考えればさして不思議なお話ではなく、製法的には細かいノウハウを別にして牛乳を煮詰めれば製作可能である、なおかつ非常に高価となれば牛乳さえ入手できる立場であれば作られてもおかしくありません。

では蘇を現場で作っていた人間が蘇を食べていたかですが、そりゃ食べていたでしょう。味見も必要ですし、それ以前に美味しければ役得として食べていても当然です。非公式であればなおさらってところです。絶対的な量は少ないにしろ、交易物として出てくる以上、貴族以外もその味を知るものが、それなりにあったとする方が自然です。少なくとも中央貴族だけでなく、地方豪族レベルにも蘇は手に入るものになっていたからです。蘇自体は保存食品ではありますが、賞味期限はせいぜい数か月単位でしょうから、作った分は交易で利益を求めるにしても誰かが食べているのは間違いありません。蘇の生産が低下した理由として、

各地方では牛馬の要求が盛んとなり,地方豪族の強制的な牛馬の買収もおこり,牧の運営が不安定となり牧で蘇を造ることが困難になる

たぶんレベルで申し訳ありませんが、「牧」とは公営農場を指すぐらいに見ています。そこに牛を集めるのが難しくなったとしていますが、一方で蘇に対する商品重要も確実にあった事になります。想像に過ぎませんが生産シフトが「公式 → 非公式」に転じたとも解釈できます。それぐらいの需要と商品価値が蘇にあったと私は見ます。


蘇の終焉

「日本古代における乳製品「蘇」に関する文献的考察」より、

建武元(1334)年蔵人所牒として,北陸道七箇国(若狭,越前,加賀,能登越中,越後,佐渡)の在庁官人等に対して辰戌歳の両年は6カ年に1度正月の八省御斎会,太元真言法米,修法長日延命,如意輪,不動三壇御修法,大臣節会,恒例臨時料に使用するために貢蘇料を納める要請が出されている.しかし蘇を現物で貢納するのではなく金銭納に替わってしまう.この通牒を最後に貢蘇に関する記載はみられなくなる

日本では蘇は完全に滅び忘れ去られ、牛乳の飲用も定着しなかったのは史実です。1334年の記録は蘇自体の生産が既に無くなっていた可能性を考えます。9世紀には貢蘇に対する罰則まで定められる程の需要があり、その後も商品としての地位を築いていた蘇が14世紀には消滅したぐらいに考えても良いと思います。消滅した理由として考えられるのは

    蘇の需要の衰退
当たり前だと言われそうですが、商品価値は需要と供給で決まりますから需要が無くなれば蘇の商品価値は低下し、低下すれば作るものがいなくなったぐらいです。平安期の蘇の最大の購買者は貴族であったとして良いと考えます。地方豪族にしろ、国司にしろ蘇で利益を求めるためには購買者が必要で、蘇を珍重し、金に糸目をつけずに買い求める貴族の存在が蘇の供給を支えたとまず見ます。では平安期から14世紀の建武の新政までの間に何が起こったかです。

たいして難しい話ではなく、公家の世から武家の世に代わっています。頼朝による鎌倉幕府の設立です。以後、武家の世は明治維新まで続きます。公家から武家の世に移れば権力だけでなく富もまた移行します。鎌倉幕府の初期では公家の力と武家の力はまだ拮抗していましたが、とくに承久の乱後は武家に権力も富力も傾いていきます。蘇を好む貴族の購買力は低下するのは誰でもわかりますが、一方で新たに富を得た武家は蘇を好まなかったぐらいが理由としてまず考えられます。

ここら辺まではすぐに思いつくのですが、個人的にそれだけでないような気がしています。私は武家が必ずしも蘇の味を忌避したとは思いにくいのです。鎌倉幕府の成立は武家の世を幕を開けましたし、公家から武家への権力だけではなく富の移動も行われていったはずです。しかしそれでも鎌倉期の武家は蘇を買うほどの富は手に出来なかった可能性はあると見ています。鎌倉期の武家相続は兄弟の分家相続が行われていましたから、時代が下るほど細分化して生活にも困るようになったの記録があります。そのため長子相続(つうか一括相続)制が出てきて南北朝の動乱に突っ込んでいきます。

もう一つですが、公家と武家の違いは軍事力の保有の差があります。軍事力の保持はバカにならない費用が必要であり、武家であればこれは必要条件として保持に努めます。とても食事を贅沢するほどの余力が出てこなかったのもありそうな気はしています。結果として、

  1. 従来の購買者である公家は購買力が徐々に低下する
  2. 新たな購買者になるはずの武家に公家ほどの購買力はなかった
平安期から蘇の生産は非公式のものが多くなっており、公家からも武家からも需要が減少すれば生産もまた低下したぐらいを考えています。最後に残る謎は嗜好品もしくは薬としての需要です。蘇は薬としての効能も認められています。

地方豪族にも蘇の効能に対する知識が広まり,蔓延している瘡瘍等の皮膚病の治癒に有効な蘇を利用するため需要が高まってきたと考えられる.

この需要があれば細々でも生き残っても良さそうなものです。ただこれもまた需要と供給の関係で説明できそうな気がします。蘇は平安期を通じて非常に高価な商品として扱われています。そんな時代が百年単位で続いたので、高価な需要に対する生産体制が出来上がってしまった可能性はあると見ています。つまりは採算分岐点が高い生産体制であったぐらいです。需要の減少は商品価値を低下させますから、赤字にしかならない商品の生産は停止されていったぐらいです。現在的な感覚なら大量生産による薄利多売で、公家や武家以外の購買層を喚起する手法もありますが、鎌倉期でも公家と武家以外に新たな購買者を見つけるのは事実上無理であったと解釈したいところです。


それでもの蘇と牛乳

蘇の生産はかなり広範囲に行われています。蘇の需要が武家の台頭により衰えたとしても、蘇なんて牛乳さえあれば作成可能ですから、ごくありきたりの食品として残っても良さそうな気はしています。また蘇以前の牛乳の飲用も、常用は無理としても雌牛さえ飼っていれば入手の機会はあるわけで、食糧はいつの時代も不足気味ですから飲用の習慣が残っても不思議はなさそうなものです。飢饉の時ももちろんですが、農民は江戸期になっても「食えるものはなんでも食う」がサイバイバルの基本ですから、牛乳をあえて忌避したのは謎です。仏教だけで本当に説明して良いのだろうかと思っています。

無理やりの理由を考えておくと、乳牛の繁殖が結果的に上手くいかなかったと言うか定着しなかったのはありそうです。雌牛が出産すれば牛乳の入手は可能ですが、量的に人が飲むほどの量が確保しにくかった可能性はあります。それと蘇なんですが、出来てすぐに食べるのならともかく、保存食として見れば製作は結構なノウハウが必要そうにも思います。単に煮詰めただけではすぐにカビが生えてしまいます。再現実験でも保存食として使うにはギリギリまで煮詰める必要がありそうです。つまり失敗作も少なからずあっただろうです。

農業技術として牛も馬も耕運機としての使用が時代を下るほど重視されたので、牛も繁殖のための乳以上の物を出せなくなった可能性もあるかもしれません。人間が牛乳として利用しようとしたら子牛の生育に支障が生じるとかです。そこを無理してまで牛乳を飲む習慣が薄れ、さらには蘇を作っても売れなくなったなら滅んでしまったぐらいでしょうか。

まあ、最後の理由はわかりません。わかっているのは、やがて「牛乳を飲むと牛になる」の迷信が定着し、これが固く信じられたらしいぐらいしか私にはわかりません。