日曜閑話60

今日のお題は「三草山」です。一の谷合戦の前哨戦としてサラっと流される事が多いですが、よくよく見直すと謎に富んだものです。どこが謎なのか、その謎をどう考えるのかのムックをしてみます。


平家物語延慶本

源平合戦を考える時に基本資料は平家物語になります。平家物語が成立したのは源平合戦後おおよそ100年後ぐらいではないかと見られています。一説には治承物語てなものがあり、ここから成立したとも言われてはいますが、それより治承物語も含めた幾多の伝承を集大成して出来上がったぐらいに解釈しています。その平家物語ですが、これもまた一つの本ではありません。幾種もの系統があります。

従来は琵琶法師が語る平曲に基づく語り本系が先に成立し、そこから読み本系が出来たとされていましたが、最近の研究では読み本系のうちの延慶本が成立が最も古く、ここから諸本が派生成立したのではないかの見方が強くなっています。つまりは伝承が一番正確に記録されている可能性です。ここで注意が必要なのは伝承の正確性と史実の正確さは必ずしも相関しない点です。そりゃ、伝承自体が間違って伝えられている事もあるからです。

それでは延慶本以外の諸本が史実に近いかと言えばこれまた難問で、延慶本から脚色された部分もまたあると考えられます。今どきの言葉で言えばリテラシーが求められるところですが、源平合戦の史実自体がこれまた謎が多いところです。それでも今日のメイン・ソースは延慶本と吾妻鏡を置きながら三草山合戦を見直してみます。


カレンダー

史実として良さそうなものは

  • 寿永3年1月20日に義仲が粟津で戦死
  • 寿永3年1月は「大の月」であり30日まであった
  • 2/7に一の谷合戦があった
これに加えて2/4の夜に三草山合戦は行われたです。これは吾妻鏡にも延慶本にもそうありますし、この日に三草山合戦がないと義経は一の谷に間に合いませんし、義経が2/7に一の谷に現れたのもまた史実して良いからです。


通説の謎

関東からの源氏遠征軍が京都を出陣したのは2/4と延慶本も諸本もなっています。範頼の大手軍は2/4に京都を出陣しても2/7の一の谷に十分間に合いますが、問題は義経です。義経

  1. 2/4京都出陣
  2. 同日中に三草山に到着
  3. 同日夜に三草山襲撃
京都から三草山まで約80kmあります。延慶本では

たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。

戌の刻とは午後8時ぐらいになり、卯の刻(午前6時)に京都を出陣したとすれば、14時間の強行軍を行った事になります。これが当時の人間なら可能であったとしても、そのまま夜襲を行い、さらに一の谷にさらに向かうのはかなり無理のあるスケジュールです。これも義経の目的が三草山のみを陥落させるだけならまだしもなんですが、本番は三草山ではなく一の谷です。どこに一番無理があるかと言えば、2/4の夜に三草山の平家軍を敗走させないと2/7の一の谷合戦に間に合わないからです。2/7に一の谷を攻撃する戦術は延慶本にも

さるほどに源氏ふたてにかまへて福原へよせむとしけるが、「よつかのひはぶつじをさまたげむ事つみふかかるべし。いつかのひ西ふたがる。むゆかのひあくにちなり」とて、「なぬかのひのうのときにとうざいのきどぐちのやあはせ」とさだむ。

これは延慶本だけではなく諸本もまた同じ日取りを書いています。これを信じれば義経搦手軍も2/7に一の谷攻撃に間に合うような戦術が採用される必要があります。その前提が2日の道程を1日で駆け抜け、なおかつその夜に平家軍を敗走させるのを前提として立てられるはずがないです。この時の義経は後世の天才戦術家義経ではありません。

確かに義経宇治川の合戦でも搦手の御大将を務めてはいますが、正直なところ宇治川の合戦は大軍で義仲勢を踏み潰したものであり、宇治川の勝利で義経が神秘的な名将としての名声と信頼を得たものとは到底思えません。一の谷戦略は京都の源氏遠征軍首脳部で決定されたと考えるのが妥当ですが、義経がこんな戦術を提案したところで誰も賛同しないであろうです。

どれほどの情報を当時の源氏遠征軍首脳が持っていたかは知る由もありませんが、おそらく源平の軍勢は互角ないし下手すると平家優勢と判断していてもおかしくありません。そこに義経の搦手軍が主力決戦に間に合わないと戦略的に都合が悪いです。もう少し確実に間に合うように戦略を立てるであろうです。


京都出陣

延慶本です。

廿九日、九郎義経いつしかへいけせいばつの為にさいこくへげかう。義経ゐんのごしよろくでうどのへめして、おほせの有けるは、「わがてうにかみよよりつたはりたるみつのおんたからあり。すなはち、しんし、ほうけん、ないしどころ、これなり。あひかまへてあひかまへてことゆゑなく都へかへしいれたてまつれ」とぞおほせられける。義経かしこまりてまかりいでぬ。

1/29に義経後白河法皇に平家征伐のために西国(一の谷)に向かう挨拶を行っています。つまりは1/29は京都に居た事になります。これは諸本でも同様です。この挨拶の後にすぐに出発した可能性はどうかです。吾妻鏡にも、

1月29日 己未

  関東の両将、平家を征せんが為、軍兵を卒い西国に赴く。悉く今日出京すと。

さらに吾妻鏡に記載されている玉葉には、

また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。

2/4に範頼、義経は京都を出陣しているとしても、2/4に全軍がそろって出陣したのではなく、それ以前の1/29さらには1/26には先発隊が出陣していたと取っても良いかと存じます。では範頼、義経は何をしていたかと言うと、朝廷の手続きのために待機していたんじゃないかです。源氏軍はこの時点で正式の官軍であり、官軍が正式に出陣するとなれば儀式は煩瑣であったとしても不思議ありません。またそういう承認儀式を経る事が政治的にも重要と考えられます。


搦手軍戦略

大手軍は京都から南下し生田の森の東の木戸で平家軍と戦う予定であったのは、それで良いかと考えます。一方の搦手軍はどうであったかです。これも通説では平家陣地の西の木戸を目指すとはなっています。東西挟撃作戦です。東西の木戸から同時に攻めるのは戦略として判りやすいですが、大手軍はともかく搦手軍はそうは簡単に西の木戸に進めそうにないと考えます。延慶本から、

平家ははりまのくににむろやま、びつちゆうのくににみづしま、りやうどのかつせんに打勝て、せんやうだう七かこく、南海だう六かこく、つがふ十三かこくのぢゆうにんらことごとくしたがへ、ぐんびやう十万余騎に及べり。木曽うたれぬときこえければ、平家さぬきやしまをこぎいでつつ、つのくにとはりまとのさかひなる、なにはいちのたにといふところにぞこもりける。さんぬるしやうぐわつより、ここはくつきやうのじやうなりとて、じやうくわくをかまへて、せんぢんはいくたのもり、みなとがは、ふくはらの都にぢんをとり、ごぢんはむろ、たかさご、あかしまでつづき、かいしやうにはすせんぞうの舟をうかべて、うらうらしまじまにじゆうまんしたり。

ここで注目したいのは

    ごぢんはむろ、たかさご、あかしまでつづき、かいしやうにはすせんぞうの舟をうかべて、うらうらしまじまにじゆうまんしたり。
後陣とは兵站拠点と解釈しても良さそうです。明石にも平坦拠点があっても不思議ないのですが、そうであれば搦手軍はこの平坦拠点を踏み潰して進む必要が出てきます。本当にそんな拠点があったかどうかですが、一の谷の敗戦後、平家の諸将で西に逃げたものは少なからずいます。東側は範頼大手軍に攻められている事情があったので西側に逃げただけとも見れますが、後陣をアテにして逃げた可能性も考えられます。


もう一つですが重大な謎があります。そもそも三草山の平家軍はどこから来たのであろうです。これについて吾妻鏡は2/5付で

酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む。大手の大将軍は蒲の冠者範頼なり。・・・(大将名の列挙略)・・・平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。三里の行程を隔て、源平東西に在り。爰に九郎主、信綱・實平が如き評定を加え、暁天を待たず、夜半に及び三品羽林を襲う。仍って平家周章分散しをはんぬ

これを素直に読むと京都の源氏軍の動きに連動して平家軍が三草山まで進出したと取れます。源氏軍の動きが活発化するのは1/26以降、とくに1/29以降と見て良さそうですから、そこから平家軍が三草山別働隊を編成して送り出したと見れる気がします。これを一の谷陣地内から新たに編成したもあるでしょうが、そうではないと私は見ます。

平家軍は一の谷の北方の六甲山系の北側に、山の手軍を置いていたのではないかと考えます。平家陣地にとって六甲山系は重要な要害ではありますが、一方で険しいとは言え古くからの道は存在するわけで、これを守るとなれば六甲山系の外郭陣地として山の手軍を置く戦術は常識的です。その山の手軍の主力が三草山に動いたと考えます。もし平家山の手軍が存在していれば源氏搦手軍の戦略目標は平家山の手軍攻撃になります。つうか、これを撃退しないと一の谷陣地に近づけません。

ここは飛躍しますが、源氏搦手軍の本来の戦略目標は平家山の手軍をまず撃退し、その後に搦手口から一の谷本営攻撃でなかったかと考えます。


三草山合戦の実相

もう一度吾妻鏡から

平家この事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中の守師盛・平内兵衛の尉清家・恵美の次郎盛方已下七千余騎、当国三草山の西に着す。源氏また同山の東に陣す。

延慶本では、

みくさのやまはやまなかさんりなり。へいけこれを聞て、みくさやまのにしのやまぐちを、たいしやうぐんはしんざんゐのちゆうじやうすけもり、おなじくせうしやうありもり、びつちゆうのかみもろもり、さぶらひにはへいないびやうゑきよいへ、えみのたらうきよひらをさきとして、しちせんよきにてみくさやまへぞむかひける。ひがしのやまぐちには九郎義経、とひのじらうさねひらを大将軍として、いちまんよきにてひかへたり。

どちらもほぼ同内容を伝えています。西から来た平家三草山別働隊が三草山の西側に陣を敷き、東から来た源氏搦手軍が三草山の東側に陣を敷いたとなっています。延慶本をもう少し注目すると、

    へいけこれを聞て・・・(中略)・・・しちせんよきにてみくさやまへぞむかひける
三草山には1月上旬から平家軍は進出していたわけではなく、源氏軍の1月後半の動きに連動して出撃してきたと取っても良さそうです。山の東西に源平両軍が陣を敷いた後、

さらばようちにすべしとて、そのよのうしのこくばかりに一万余騎にて、みくさのやまの西のやまぐちかためたる平家の陣へおしよせたり。

ごく素直に読んで三草山の合戦と言うより、三草山の麓の合戦とした方が良いと判断します。


三草山合戦の実相から考える事

京都を2/4に出陣する時の義経の動向として、

一万余騎、たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。九郎義経は、あかぢのにしきのひたたれに、きにかへしたるよろひきて、さびつきげなる馬の、ふとく尾がみあくまでたくましきが、名をばあまぐもといふにぞのりたりける。とうごくだいいちのめいばなり。ふつかぢをひとひにぞうちたりける。

ここなんですが、たしかに義経は、

    ふつかぢをひとひにぞうちたりける
義経は急行軍で三草山に駆けつけたとしても良いかもしれません。ただし源氏搦手軍が、三草山の平家軍目当てに全軍一丸となって駆けつけたとするのは無理があると考えます。義経は「とうごくだいいちのめいば」かもしれませんが、残りは必ずしもそうでないからです。そもそも徒歩兵の遥かに多いのは常識です。義経とその側近は急行軍したかもしれませんが、他は先発していて平家軍に遭遇もしくは、平家軍の動きに合わせて三草山に動いたと見る方が自然と考えます。


ここで一つの謎ですが、義経鵯越に進むのなら三草山に向かわずに有馬街道を進むほうが近いと言うのがあります。これを指摘する者ももちろんいます。三草山で戦ってもなおかつ有馬街道に戻るほうが近いの意見から、義経有馬街道を進んできたと主張する意見もあります。この指摘は重要と考えています。私は本来の搦手軍の進路は有馬街道ではなかったかと推測しています。

それが平家別働隊が三草山方面に動いたとの情報から急遽三草山に向かったと見ます。源氏搦手軍にとって平家山の手軍の動向は重要ですから、むしろ源氏搦手軍が平家別働隊を迎撃するために戦術変更を行ったと見ます。これが2/3ぐらいの時点で、急報がまだ京都にいる義経の元にもたらされたと考えています。義経は政治的な手続きで2/4出陣の変更が難しかったのと、大手軍との打ち合わせを行ったんじゃないかと推測しています。どういう戦術変更が行われたかですが、

  1. 源氏大手軍は予定通り出陣する
  2. 2/7の矢合せは三草山の結果次第に変更する
  3. 義経は三草山に急行する
2/7の矢合せが一旦保留となった傍証は2つで、まず延慶本から

九郎義経、とひのじらうにいひけるは、「けふのいくさ、ようちにやすべき、あけてやすべき」といひけるに

三草山の軍議で夜討にするか、明朝の攻撃にするかの選択枝を義経は示しています。2/5の朝になってからの戦いでは、2/7に間に合わない可能性があります。2/7が絶対ならば夜討一択のはずですが、2/5の朝の攻撃でも構わない、つまり2/7はずれても構わないの意図があると見れます。もう一つは吾妻鏡です。

    酉の刻、源氏の両将摂津の国に到る。七日卯の時を以て箭合わせの期に定む
2/5の記事ですが、酉の刻(午後6時)に2/7の矢合せの再確認をしています。これは2/4夜の三草山合戦の結果を受けた対応と考えます。三草山からの義経の急使が大手の範頼軍に送られ、三草山の平家軍は一夜にして追い散らしたので、もともとの予定通り2/7に一の谷の矢合せを行えるの確認を行ったと取ります。元の予定に戻ったと言うところでしょうか。範頼大手軍は予定通りで良いのですが、義経搦手軍は戦術変更が行われたと考えます。


軍勢分割の謎

戦術変更箇所は、

義経がせいの中に、あうしうのさとうさぶらうびやうゑつぎのぶ、おなじくしらうびやうゑただのぶ、えだのげんざう、くまゐのたらう、げんぱちひろつな、いせのさぶらうよしもり、むさしばうべんけい、くまがえのじらうなほざね、しそくこじらうなほいへ、ひらやまのむしやどころすゑしげ、かたをかのはちらうためはる、そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

ここだと考えていますが、ここも実はミステリアスな記述でして、

    そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし
これの解釈には兵庫歴史研究会も苦労されていまして、会下山の隣にある頓田山を「みくさのやま」に比定する論証を行われています。私は兵庫歴史研究会とは別の解釈を取ります。あくまでも「みくさのやま」は合戦が行われた三草山と考えます。ポイントはこの軍勢分割がいつ行われたかです。ここも当初は2/4の京都出陣時ではないかとまで考えましたが、三草山の軍議には明らかに土肥実平が参加しているので否定出来ます。諸本ではたとえば、

同じく六日の日の明け方、大将軍九郎御曹司義経は一万騎を二手に分けて、土肥次郎實平に七千騎をつけて一の谷の西の木戸口へ向かわせた。自身は三千余騎で、一の谷の背後の鵯越を落とそうとて、丹波路から裏手へと向かわれる。

2/6すなわち一の谷合戦の前日としています。しかし延慶本には日付は見当りません。話の流れから三草山合戦の後であろう事だけは推測できますが、「いつ」とは書かれていません。2/6時点では義経は三草山から南に進み、一の谷の矢合せが間に合う地点、たとえば藍那なり、白川方面に進出しているはずです。そこから三草山とか、丹波路も地名としては無理があります。

私はこの軍勢分割が2/5の朝なりに行われたと考えます。夜襲で平家軍を潰走させた後にどうするかの義経の新しい戦術を提示したものと見ます。三草山の勝利で義経が描いた新しい構想は、潰走させた平家別働隊を追撃するであったと見ます。これは追撃による戦果拡大もあるでしょうが、潰走した平家軍がどこかで踏み止まる事がないようにの戦術も含んでいると考えています。そんな事が起これば源氏搦手軍の新たな脅威になります。

義経は平家軍がたとえ踏み止まっても押し潰せるだけの主力七千余騎を率いて、そのまま三木方面から山田に進む事にしたんじゃないかです。義経が搦手主力軍を率いて追撃しながら南下する表現が「わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」で良いとしても、土肥・田代の「山の手をやぶりたまへ」の解釈がどうなるかです。


消えた行綱ピース

三草山合戦のさらなる謎は何故に平家別働隊が三草山まで進出してきたのだろうかがあります。延慶本では平家七千余騎、源氏一万余騎としていますが、源氏軍優勢の状況でなぜに決戦を行ったのかは私には大きな謎です。同じ決戦を行なうにしても確実に後詰が期待できる山の手でやる方が戦術的には固いと言えます。にも関らず平家軍は進出しています。これには理由があると考えます。戦術的に考えると2つで、

  1. 山の手(六甲山系の北側)で迎え撃つのは何らかの理由で不利となる
  2. 三草山方面で搦手軍と戦えば勝算が高かった(平家軍の方が多い)
さらにこの2つの理由は独立しているのではなく表裏一体の関係で、平家方にすれば待っていると山の手防衛の苦戦は必至なので、進んで弱勢の搦手軍を北方の三草山方面で叩き潰す事が得策と判断させるものがあったと考えます。つまり源氏搦手軍が有馬街道を進めば非常に強化される因子があったと見ます。消えた行綱ピースです。

行綱の本拠地は能勢の多田ですが、多田から搦手軍に合流するとなれば有馬街道と考えるのが妥当です。義経搦手軍の当初の戦略は有馬街道を進む事によって行綱軍と合流し山の手を攻めるのではなかったかです。この情報は平家軍も察知し、先手を打って三草山で源氏搦手軍と戦ったのだろうです。つまりは各個撃破を狙ったです。三草山の源氏軍が平家より小勢であった傍証もあえて挙げるならあります。

    九郎義経、とひのじらうにいひけるは、「けふのいくさ、ようちにやすべき、あけてやすべき」といひけるに
ここも読みようなのですが、義経が実平に尋ねた戦術の選択枝は
  • 「ようちにやすべき」・・・夜討ちを行う
  • 「あけてやすべき」・・・朝討ちを行う
こう読み取ればどっちも奇襲です。奇襲を選ぶのは対峙している軍勢の少ない方であり、兵力的な劣勢を補うために奇襲時期を夜にするか朝にするかを聞いていると読めます。ここに真昼間に正面切って戦う選択枝は提示されていません。つまりは三草山の源氏軍は劣勢であったです。

ではどれぐらいが源氏搦手軍の実勢であったかですが、これはかなり無理な推測が必要になります。延慶本では七千騎と三千騎に軍勢を分割した後、義経は七千騎で鵯越をやります。でもって吾妻鏡ですが、

源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け

「騎」とは正確には大将(小領主)の事を指し、その小領主が引き連れている小部隊の事を指します。つまり七十余騎とは約70小隊がいる事になります。1小隊は5〜20人程度であったとも言われていますから、七十余騎ならせいぜい1000人ぐらいとも数える事が可能です。土肥・田代の三千騎はこの比率で言えば500人ぐらいで、京都から出た源氏搦手軍は1500人ぐらいではなかったかと見る事も可能です。これに対して平家軍は2000〜3000人ぐらいを別働隊として派遣し必勝を期したぐらいです。

では行綱となると推測も良いところですが、1000人ぐらいはいたんじゃないでしょうか。下手すると源氏搦手軍に匹敵する1500人ぐらいいたのかもしれません。義経としては是非合流したい兵力ですし、平家にすれば合流して欲しくない兵力です。だから三草山合戦が起こったんじゃないかです。三草山合戦の後の戦術変更で義経丹波路を進む事にしましたが、貴重な援軍である行綱軍も迎えを行う必要もあり、軍監である実平に別働隊を与え有馬街道で行綱と合流させたんじゃなかろうかです。


幻の山の手合戦

土肥・田代の別働隊が行綱軍と無事合流したかどうかはどこにも記録は残っていませんが、土肥・田代の別働隊に義経が与えた指示が「山の手をやぶりたまへ」ですから合流は成功したのかもしれません。合流後に行う事は山の手の平家軍攻撃です。これは平家山の手軍主力が三草山で敗北した後で行われたので、案外容易に成功したとも考えられます。

なんか見てきたような山の手合戦の様子を書いてはいますが、本当にそんなものがあったかどうかです。行綱の源氏搦手軍合流説には山の手合戦の裏付けらしいものでもないと、空論過ぎると言うところです。まずは傍証ですが唐櫃(有馬街道沿いの地名)に多聞寺があります。ここは清盛がだいぶ肩入れしたようですが、行綱による焼き討ち伝承があります。伝承は一の谷合戦後に平家の落人を匿った云々で、それに対する焼き討ちですが、これを山の手合戦の伝承の変質に見れないだろうかです。

これだけでは弱いのでもっと有力なものとして玉葉を出します。

式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、この夜半ばかりに、梶原平三景時の許より飛脚を進し申して云く、平氏皆悉く伐ち取りをはんぬと。その後午の刻ばかりに、定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。

これも様々な議論があるのですが、

    多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると
行綱がどこの「山方」より寄せたのか、どこの「山手」を落としたのかがサッパリ特定する証拠がないのですが、山方を源氏搦手軍が京から来たのに区別するために能勢の山方から来たと解釈し、そして「山手」は六甲山系の北側の平家山の手陣地を落としたと受け取れないだろうかです。こういう解釈の補強として行綱の手柄の前に「最前」が付いている点を挙げておきます。

古語辞典で「最前」には「一番前」と意味が含まれます。「真っ先」でも良さそうな気がしますが、3番目の手柄に書いてあるのにわざわざ「最前」を付けている点です。この最前とはひょっとしたら2/7矢合せ以前の功績を意味しているんじゃなかろうかです。つまりは山の手合戦です。


山の手合戦の結果の影響

三草山に連動しているかもしれませんが、行綱の活躍により2/6時点では平家の山の手外郭陣地は撤収せざるを得なくなったと考えます。義経が山田に到着した時には平家軍は一の谷の浜側に防衛線を縮小してしまっていたです。そこで義経は最後の戦術変更を行ったと見ます。史跡に残る相談が辻で行われたかも知れません。三草山合戦から2/6の朝時点までの義経の戦術方針は、

    とひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし
注目して欲しいのはこの時点では実平が塩屋なり、西の木戸に向かうとは一言も書かれていない点です。あくまでも平家山の手軍に対する戦術が中心です。戦術的には大成功を収めたので、新たな戦術方針を立てたと考えます。平家軍が防衛線を縮小したので、藍那から多井畑を抜け塩屋に抜ける道が開かれた点を義経は重視したんじゃなかろうかです。つまり、
  • 義経は当初の予定通り鵯越に向かう
  • 実平は塩屋回りで平家陣地の浜寄りから西の木戸方面に飛び込ませる
挟撃作戦への変更です。ここでは軍勢編成はそのままで、行綱軍はそのまま実平と行動させたもあるかもしれません。と言うのも延慶本では相談が辻の話も、実平を塩屋に向かわせる話も出てきません。


消えた行綱ピースは悩ましい

行綱は2/8に大手の軍監梶原景時が朝廷に行った報告には3番目に数えられる手柄を立てている事になります。しかし頼朝は行綱を嫌い一の谷戦史から行綱の記録を抹殺したんじゃないかとも言われています。頼朝の記録抹殺は余ほど徹底していたようで、平家物語の一の谷に行綱はまったく登場しません。平家物語成立時には行綱の一の谷の活躍は完全に忘れ去られ、消し去られていたぐらいにしか考えようががありません。

義経の源氏搦手軍に行綱のピースが消えた結果、義経の行動を再現するのが難しいと言うか、断片的な事実の伝承をつなぎ合わせるのに平家物語の作者も苦労したんじゃなかろうかと思っています。想像ですが平家物語の作者に与えられた情報は、

  1. 2/4に京都を出陣している
  2. 2/5には三草山で勝っている
  3. 2/7には一の谷を落とす手柄を立てている
あえて付け加えれば土肥実平は塩屋の方に別働隊で動いていたらしいと、熊谷親子・平山季重の先駆けが行われたらしいぐらいで物語を組み立てた気がします。これを成立させるために約80kmを1日で駆け抜けて瞬時に三草山の平家軍を撃破する必要がありますし、三草山の後に平家軍は山の手方面(六甲山系の北側)を無防備・無関心にしなければなりません。そうじゃないと義経は一の谷にたどり着きません。延慶本とてどれだけ史実を反映しているかは誰にも判りませんが、伝承として
    そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし
この言葉は何らかの形で伝えられていた可能性を考えます。行綱ピースが消えてしまうと、三草山の時点で何故に「山の手」を攻めるために軍勢を分けたか理解不能になり、最終的に実平が塩屋に別働隊としていた事と、義経が実平とは別ルートで一の谷を攻めた事実から、合戦前日の2/6に軍勢を分割する方が「話が合う」に改変されていった気がしないでもありません。そりゃ、三草山で軍を分割する必然性がないからです。山の手もガラ空き設定ですし。


問題は一の谷の時点で行綱がそこまで有力な軍団を持ちえたかぐらいになります。行綱関連の資料は非常に乏しいのですが、wikipediaより、

なお、近年では古文書の検証から行綱が一ノ谷の戦い以前に初代摂津国惣追捕使に補任されており、有事の際には摂津国内の武士に動員をかける有力な立場にあったとする研究が提示されている

想像の翼を広げると、行綱は法住寺合戦に参戦したのは史実のようで、この時に後白河法皇の覚えが目出度くなったぐらいは考えられます。その延長線上の摂津国惣追捕使任命です。一の谷前の義経後白河法皇の関係は良くわかりませんが、少なくとも悪い関係ではありませんし、義経はどうやら頼朝と違って源氏の同族意識が強かった気配がありますから、後白河法皇の引きもあって行綱との連合が成立したぐらいは可能性としてあります。

後白河法皇の覚えと、関東遠征軍の御大将の信頼の裏書があれば、摂津だけではなく河内源氏も行綱に協力した可能性はあり、案外以上の軍団を一の谷に動員したぐらいはありえると見ます。さらに想像の翼を広げると、行綱が莫迦にならない動員力を示した点を頼朝が今度は忌避したのかもしれません。行綱はなんだかんだと言っても源氏の総本家筋の多田満仲嫡流であり、義仲同様に源氏の棟梁争いのライバルになりえるぐらいの懸念です。だから徹底的に行綱の業績を抹殺したんじゃないかです。


それにしても延慶本の「カナ混じり宣命体」の文章を読むのは苦労しました。とくに武将名を列挙している個所が多いのですが、これがまあ怒濤の平仮名列挙です。正直なところ眩暈がしそうになったと白状しておきます。