スポーツ指導の体罰

源流を少しだけ考える

エエ格好しても仕方がないので、私の世代では「スポーツ強豪校 = 体罰横行」が常識の時代でした。源泉はいくらでも遡れるとは思いますが、パッと思いつくのは東洋の魔女。そりゃ凄まじい練習だったのは語り草ですが、大袈裟でなく全国民が注目する中で見事に金メダルを獲得したのですから、完璧に美談となっています。たしかその壮絶な練習風景が映画になって全国の指導者のお手本とされたと記憶しています。

もっと源流となれば旧軍でしょうか。ここが体罰の楽園つうか体罰そのものの世界であったのを否定する人間は少ないかと思います。そりゃ、競争させて必然的に遅れる奴は「遅い」の理由で平然とぶん殴るのが日常の世界です。戦前は言うまでもなく徴兵制であり、スポーツをやっているような人間はほぼ間違い無く軍隊を経験していますから、体罰による指導は非常に身近であったのは間違いありません。

ほぼ問答無用で頻繁に体罰を与える事によって人を思考停止状態に追い込み、絶対的な服従を叩き込むのが旧軍隊教育の一つの側面です。それを経験した人間がスポーツ指導にこれを持ち込むのは自然なものです。軍隊における体罰の是非は違う側面の評価もあるかもしれませんので今日はあえて置いときます。問題はスポーツ指導に持ち込まれた点かと思っています。


見聞談

私の中学は当時男子バレー部が非常に強い時代でした。私の入学前には全国大会で準優勝していますし、私の学年も全国大会出場を果たしています。同級生は今でも「栄光の6人」と呼びます。外野の同級生にすれば同期の誇りですが、その「栄光の6人」の1人に旧友がいます。旧友から聞いた話ですが、どれだけ凄まじい練習であったかは身の毛もよだつほどです。

ビンタなんて日常茶飯事なのは言うまでもありません。これは私も何回か見た事があります。ただ殴られる部員はあまりに殴られすぎて、ビンタ程度では「痛くて辛い」とは思わなかったそうです。これじゃ判り難いのですが、練習が余りに過酷なので、殴られている間は練習の休憩時間としか感じなかったそうです。休めるのなら5発でも10発でも好きなだけ殴り続けて欲しかったそうです。

あくまでも類推ですが、当時の体育会系クラブでは、こういう風景が日常であったような気がします。これも白状しておきますが、当時的な感覚なら「勝つにはこれぐらい必要だ」ぐらいにしか感じなかったと思っています。


勉強と運動の違い・基礎扁

文化会、体育会の対比にすると話がやや煩雑になるので、運動に対比させて勉強を出してみたいと思います。勉強に体罰を持ち込む世界は多くなさそうな気がします。理由としては、勉強のためには感情の安定が必要だからです。うちの子供でもしばしばあるのですが、余りにも不真面目な勉強態度を注意して、これに反発されたり、すねて泣かれてしまうと、もう勉強になりません。

そういう心理状態になってしまうと、問題集なり、参考書を前に座っていても「見ているだけ」になります。勉強をさせるには、それが可能な心理状態があり、その心理状態は体罰で作るのは非常に難しいと思っています。ある種の本人自身によるモチベーションが持てる状態にならないと勉強は無理と思っています。体罰でなく言葉で「叱る」はありますが、言葉の叱りさえ体罰並みに強度が上れば勉強をさせる事は実質的に無理になると感じています。


運動も心理状態は大切なのですが、あるレベルの練習までは感情を無視して強行できる特徴はあると思っています。それこそ泣こうが、反感をもたれようが、一定の距離を一定の時間で走れば、感情に関係なく体力は付きます。いやいや強制でやらされようが、喜んでやろうが結果はさして変わらないぐらいの考え方です。ピントが外れる喩えですが、ベスト・キッドでダニエル少年がクルマにワックスかけたり、ペンキを塗らされているようなものです。

運動にも勉強と同様に基礎トレーニング期間があります。この間は実に面白くないのが実感でしょう。面白く無いものにモチベーションをもち続けるのは難しいものです。そこで出てくるのが運動では体罰と思います。体罰で脅かされてトレーニングしても、基礎体力の向上は得られるからです。この基礎体力をつけないと次の段階に進めないのも鉄則です。


そう考えると勉強に較べると運動の体罰を用いる指導法は実に安易である事がわかります。勉強に体罰を持ち込んでも非常に効率が悪いと思います。やる気もなしに机に座っていても時間の浪費にしかならないからです。なんとか勉強してくれる精神状態を作り出せるように周囲が努力しないと、成果は到底望めないであろうです。

なおかつ勉強であっても基礎段階を通り抜けないと次の段階へ進む事はできません。進めない者はその段階で脱落になります。勉強をさせるテクニックの方が体罰を安易に使える運動よりも優れている論法も成立するかと思います。


勉強と運動の違い・応用扁

基礎段階を通り抜けると応用編になります。基礎が出来たので技術面を伸ばす段階ぐらいとすれば良いでしょうか。勉強の方はますます個人のモチベーションの比重が高まります。勉強の場合は基礎がやたらと幅広いので一概に比べ難いのですが、応用編に至れば他者による強制なんて余地が乏しくなり、そこに体罰なんて持ち込むの違和感の強いものがあります。

ちょっと注釈しておきますが、勉強の基礎と応用は一直線の関係ではありません。たとえば医学部ですが、小中で基礎を学んだ後に、高校で医学部入試のための応用編を学ぶぐらいの感じです。無事医学部に入学すれば、そこから医学の基礎を6年かけて学びます。今は少しは様相が変わっているかもしれませんが、晴れて国試に合格して医師になれば、そこから臨床の実戦基礎技術を学びます。


さて運動ですが、応用編になれば個人のモチベーションに傾くのでしょうか。基礎編よりも比重は高まるかもしれませんが、どうも体罰による強制力が幅を利かせている気がします。そういう状態が横行するのは、勉強と違って指導者があんまり代わり映えしないのもあると考えています。勉強の場合は、段階に応じて指導者は基本的に変わります。また段階に応じて指導法が違うのも心得ています。

ところが運動の場合は下手すると、ジュニア・クラスからオリンピック・レベルまで基本発想がさして変わらない指導者が多そうな気がしています。基礎段階で体罰による練習効果で味をしめたなら、その方法を応用編になっても絶対のメソドとして使い続けるです。ですから日本代表の女子柔道であっても、指導と言えば体罰しか思いつかない状態に至るです。


指導法の循環

指導者はその分野の経験者がなります。体罰を受け続けた経験者が思いつく指導法は体罰しか出てこないです。指導者になるぐらいですから体罰式の成功体験者だからです。さらにそういう指導者が横並び状態になれば、成績が上らないのは自分の行なった体罰が緩かったの結論に達しやすくなります。そりゃ、右を見ても左を見ても体罰式の指導者しかおらず、より横行しているところが強そうに感じてしまうぐらいのところでしょうか。

つうか体罰を用いない指導を行ない、それで成績を残せなければ、必然的に「指導が甘い」の烙印を押され、指導者の地位を失うというのもあります。体罰を使っていても成績が悪ければ地位を失いますが、ある程度の期間は「ついて来れない部員が悪い」の釈明が可能になるぐらいのところでしょうか。


私は根本的なところで勘違いがあるような気がしています。運動での成果の単純な法則は、

    練習量 = 実力
ここでの前提として、天分の差が少ないは入れておきます。練習量も内容とかありますが、今日は置かせて頂きます。体罰は基礎体力の養成レベルならまだしも有効な可能性がありますが、もっと高いレベルの実力を求めるのであれば、体罰では限界があると考えます。勉強と同じで、本人のモチベーションがないと、体罰だけではこなせる練習量の上限が自ずからあるんじゃないかと思っています。

相手をしのぐ練習量をこなすには、選手自身がそれをやり抜いて勝ちたいと思わせる指導が絶対に必要と考えます。やる気と言うのは物凄いもので、しばしば限界と思わせる線を超えて行きます。つうか、そういう状態にならないと自分の限界を越えられず、自分で設定した上限の枠に実力が留まってしまうです。体罰による強制練習は、与えられる練習をこなすのが目的化してしまい、それ以上は伸びない指導法とも言えるかと思っています。

トップアスリートの練習量の上限は甘いものでは無いと思っています。上限とは体が壊れるかどうかになります。それ以下の練習量では一流と戦う事は出来ないです。選手の故障は、一流に手を伸ばそうとする練習量をやってみれば、体が支えきれない状態の一つです。それを支えられる強靭な体を持っているかどうかは、これもまた天分と言う事です。


厳しさのレベルの違い

欧米のスポーツ・クラブでは日本流の体罰は少ないと聞いています。確証はないので、今日は仮定として欧米では無いとしておきます。ではそういう国々が日本よりスポーツで弱いかと言えば、そうでないのは確かです。では日本より指導が甘いかと言えばそうではないと考えています。「練習量 = 実力」の法則は同じですから、練習しない者はドライに切り捨てられるのだと思っています。

本人の意志によりそこそこの練習量で、そこそこの実力しか欲しないのであれば、その実力に応じた地位を提供するです。上りたければ、自分で努力しろです。トップに近づくほど練習は厳しくなりますから、その練習をこなせるモチベーションのない者はサッサと切り捨てられていく世界なのだろうです。やる気のない者に体罰を使ってまで引き上げるような事は考えもしないです。落ちる者は落ちるにまかせていく指導方針です。

冷たそうな世界ですが、そういう世界である事を承知して選手も参加しているわけです。またコーチもモチベーションを誘導する指導は行なっても、体罰を使ってまでの強制は考えもしないです。そういう環境では、上に進みたければ自分が努力する以外はない事を嫌でも自覚させるとぐらいのところです。ついていけないと思えば自ら脱落しますし、スポーツ以外の他の道を探すのも良しです。向こうは幅広いシステムも持っていますから、自分の実力に応じたレベルで趣味として楽しむのも自己選択と言う事です。

そうやってふるい落とされた末に残った連中は強力です。それこそ自分の体の限界に挑むような練習量を、自分の意志で出来る連中になります。体罰に強制されて、それなりの練習量しかこなせない選手とは練習量のレベルが自ずから違い、実力もまたそうなるぐらいの世界です。


体罰式の限界

体罰式と言うか旧軍式の練習法はある一定レベルの選手を多数養成するのにはまだ適しているのかもしれません。体はイヤイヤであっても動かせば体力も技術もある水準までは身に付けられます。ただし、そこに突出したレベルの者は期待しにくくなります。旧軍式ではしょせんは与えられる練習量しか行わないからです。

東洋の魔女がそれでも成功したのは、たまたま体罰による強制練習量が人間の限界に達していたからだとも解釈できます。そこまで付いていけた選手と監督の関係は特殊で、後に追随するのは難しく、以後に成功例は少なくなっていったと思っています。最近の指導者の愚痴である、

    最近の子はついて来れない
これも半分ぐらいは嘘だと思っています。この言葉が本当なら、体罰式が常識であった1970年代とか1980年代の方が日本のスポーツは強かったはずです。スポーツは結果で語る一面がありますから、五輪成績で見てみます。

Year City
1964 東京 16 5 8 29
1968 メキシコシティ 11 7 7 25
1972 ミュンヘン 13 8 8 29
1976 モントリオール 9 6 10 25
1980 モスクワ - - - -
1984 ロサンゼルス 10 8 14 32
1988 ソウル 4 3 7 14
1992 バルセロナ 3 8 11 22
1996 アトランタ 3 6 5 14
2000 シドニー 5 8 5 18
2004 アテネ 16 9 12 37
2008 北京 9 6 10 25
2012 ロンドン 7 14 17 38
オリンピックの価値をメダルで語るのはよくありませんが、2000年代になっても日本の競技力が衰退している訳ではありません。むしろ上っていると言う評価も容易かと思います。またメダル獲得種目も、かつては柔道、レスリング、体操で終わりみたいなところがありましたが、陸上や水泳と言うメジャーな種目でのメダル獲得が可能になっています。

私の見方としては、かつての東洋の魔女式の体罰指導法が衰退し、選手個々のモチベーションを引き出す指導法に変わったのが確実にあると思っています。五輪種目の中でも体罰式に寄りかかっていた種目は、過去の栄光はどこに行ってしまったかみたいな状況になっているとも見れます。傍証は柔道の旧態依然の旧軍式の体罰天国の指導法です。だから勝てなくなったと。


体罰式の伝説

体罰式で鍛え上げられた人間の精神面は強いと言う無邪気な信仰がありますが、ちょっと違うと思っています。旧軍式の体罰の究極目標は敵より上官を恐れる状態を作るとさえ言われています。死の危険より上官の命令の方が怖い状態とでもすれば良いでしょうか。つまり死の恐怖よりさらに強い恐怖を植えつける事によって見た目の勇敢さを養うと言うわけです。ただなんですが、上官の恐怖と言うタガがはずれると実にモロいという側面もあったとされます。わかりやすいところでは捕虜になった後の統率の弱さです。

精神面で指導者に寄りかかる事が多く、なおかつそれは恐怖の対象です。あからさまに言えば、対戦相手と戦う事より、指導者の鼻息が気になって仕方がない状態とすれば良いのでしょうか。自分の実力を示すというより、指導者の御機嫌を損ねないようにするのに重点が置かれてしまい、ちょっとしたミスでも出れば崩れてしまう感じです。そりゃミスの報酬は体罰である事は体に叩き込まれています。

忍耐力が養われるもかなり疑問です。あれはなんであれ指令が下れば逆らったら体罰を喰らうの刷り込みが無意識の領域まで蝕んだ結果だと思っています。つまりは精神力にしろ、忍耐力にしろ、自分の意志で確立されたものではなく、すべては暴力の陰に怯える事により成立していると見れるからです。


それでも体罰式で、精神力や忍耐力だけではなく、立派な人格も形成されている人間もいるとの反論もあるかもしれません。しかしそれは体罰式の教育指導効果とは私には到底思えません。精神力や忍耐力は、理不尽な暴力世界の中で、理性を失わずこれを本当の意味で耐えたから得られたものと思っています。人格形成に至っては、暴力環境をアンチテーゼとして「ああはなるまい」と精進した結果と考えます。

格好良く言えば自我の確立であり、指導者の御機嫌のため、体罰を免れるために行動するのではなく、あくまでも自分のために努力する事を暴力の嵐の中で確立できた人間であると思います。体罰式の本質はまるで逆で、そういう自我の発達を極力押さえ込んで服従させるものと見ます。

まあ、そういう反発心を呼び起こし、自我を確立させる手法が体罰式と強弁できない事もありませんが、あんまり効率的な方法とは思いにくいところがあります。反発を呼ばなければ、そのまま単純な体罰信奉指導者になり、支配の抑圧がなくなればかなりの暴走をやらかします。女子部員とハーレム状態を作ってみたり、バカの一つ覚えみたいに問答無用の暴力を振るい続けたりです。

まっさか、そういう連中を精神力も、忍耐力も兼ね備えた人格者として、体罰式は育て上げたと言うのでしょうか。凡百の体罰式指導者は、ついに精神的な自立が出来なかった幼稚な連中としてよいかと思います。


そもそも些細なミスを執拗に責め上げられ、頻繁に暴力(体罰)を揮われて成長した人間がマトモな精神状態になると発想する方が狂っています。それなら幼児からテンコモリの虐待を受け続けた人間は、神の様な人格者になるはずです。教育や躾けのために「叱る」と「体罰」は次元の違うものであるのを理解できない人間は多いようです。

そう言えば日本代表レベルでも平然と体罰が横行し、それを「大した事でない」ともみ消そうと必死になる体罰指導の集大成のような柔道を必修科目にしたんだっけ。世の中は体罰教育で修正不能の精神状態にさせられた人間がいかに多いか痛感させれます。最後にもう一度書いときます。

    暴力は無能者の最後の拠り所である