『のぼうの城』に思う・・・に思う

1/26付MRICより、

このメルマガの筆者が「とにかく医学部新設」論者なのは存じてますから、その点はもう触れようとも思いません。興味を持ったのは結論に持って行くために使った喩えの方です。こういう時に故実や史実を持ち出すのはありふれた手法で私も頻用します。上手く用いれば主張の品格があがるからです。ただしそれは上手く使えた時で、下手糞な使い方をすれば逆効果になります。

このメルマガは医師にも多く向けられていますが、医師にも歴史オタクは結構います。プロまで行かなくてもセミプロ、もう少し下でもかなり詳しい程度は割と多い印象があります。またこのメルマガは医師だけでなくその他の方々にも広く公開していますから、もっとウルサ型もおられ安易に史実や故実を使えば突っ込まれます。私も使う時には、出来るだけ確認して使うように心がけています。

つう事で歴史閑話風に話を展開させます。


説明するまでも無く豊臣政権を支えた切れ者官僚であり、関が原で家康に敗れています。三成の評価は一定のものがあります。おおよそは非常な切れ者であったが、才が過ぎ、人望に欠ける点が多々あったぐらいです。ここで注意が必要なのは、後世の三成の評価は誰が行ったのであろうです。家康の天下取りの最大の障壁となった人物ですから、家康及び徳川政権によって為されたと考えるべきかと思います。ここは簡単に家康政権としておきます。

家康政権にとって三成は最大の敵役ですから、可能な限り貶めたいところです。さすがに持ち上げるほどの度量はないかと考えます。そういう家康政権の評価でも残さざるを得なかったのが「切れ者」です。そうなれば三成の才は余ほど巨大であったと考える余地が生じます。

信望に欠ける面はあったとは思います。三成は秀吉政権の文官派の筆頭と言える位置にあり、いわゆる武官派とは対立関係にありました。これが豊臣恩顧とされる福島正則以下を家康に走らせた原因であるのは史実しても良いでしょう。ただなんですが歴史の流れを考えると微妙なところがあります。

私たちは後世の結果を知っているので誤解しやすいですが、秀吉はとにもかくにも天下統一を果たしています。天下統一には武力が必要であり、そこでは武官派が重用されます。戦いに勝ち抜かないと天下統一は不可能だからです。では天下統一後には何が必要かです。たいして難しい話ではありませんが、法による秩序をもった文官が主導権を握る統治です。戦にしか能が無いような武官派は無用の長物になります。

関が原で武官派が家康に走った原因は三成への反感もあったでしょうが、天下統一後の泰平に不要とされかけている空気も感じていた可能性を考えます。三成の秀吉及び豊臣家に対する忠誠は家康政権でも貶める事が出来なかったぐらいのものです。つまり三成は秀吉の意向を受けて、武官派の権力縮小の矢面に立っていたんじゃないかと見ます。こういう武官派の抑制は家康政権でも行われているのは説明の必要もありません。家康政権で喩えれば本多正信みたいな地位に三成はいたとするのが妥当です。


三成の人望ですが、武官派には嫌われていますが、ある意味家康に匹敵するのもがあったと見る事も出来ます。これも大した傍証ではありませんが、あの関が原も小早川秀秋の腹一つまで漕ぎ着けています。それと三成を支持した人間も超一流です。直江兼続安国寺恵瓊真田昌幸と一筋縄でいかないような人物が三成を支持し、積極的に加担しています。

家康は言うまでもなく日本史の英雄であり、三成を凌ぐ部分は大であったのは言うまでもありませんが、三成が後世の評価で言われるように、才だけあって狭量の人間とするのは考え直す余地は十分にあると思っています。


忍城攻防戦

私は映画を見ていません。忍城のことも小田原征伐の一環として存在したぐらいにしか知りません。そこでググって調べてみます。まずは小田原征伐のごく簡単な年表です。

Date 事柄
1590.3.27 秀吉、沼津到着
1590.3.29 秀吉、進撃開始
1590.4.3 秀吉軍先鋒隊、小田原城に到達
1590.7.5 北条氏直、降伏を伝える


実質3ヶ月程度で終っている事がわかります。小田原城だけではなく支城でも攻防戦は行われているのですが、主なものをまとめておくと、

城名 攻撃開始 落城・開城
山中城 1590.3.29 同日
韮山城 1590.3.29 1590.6.24
松井田城 1590.3.28 1590.4.20
岩槻城 1590.5.19 1590.5.22
鉢形城 1590.5.14 1590.6.14
忍城 1590.6.5 1590.7.17


確かに忍城のみが小田原開城後まで合戦を続けています。でもってこの方面を担当したのが三成です。三成は水攻めを行ってはいますが、結果的に失敗したと一般的にはなっています。この三成の水攻めですが、忍城攻め−戦国の中間管理職・三成の悲劇から経緯を拾ってみます。まずですが、6/5から城攻めを始めて7日後の6/12に秀吉に書状を送っています。

「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、(中略)然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」(忍城攻めのことについては、大体準備はできました。しかし諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。)

水攻めを戦術として用いる理由として考えられるのはある種の兵糧攻めです。城の周囲を水で満たす事によって、城方からの攻撃を封じます。つまりは安全な包囲戦を行えるです。しかしそれだけでは城方からみれば、わざわざ寄せ手が城方のために外堀を作ってくれたようなものです。城方から討って出るの戦術は封じられますが、寄せ手も攻めにくくなります。

本当の狙いは城内を水浸しにする事だと考えます。武器や兵糧への影響もあるでしょうが、それよりも城兵の居場所を城内に無くしてしまう効果です。人は水の中では寝る事はできず、水に浸かっていない場所に追い立てられてしまうです。そういう場所も人が密集し、精神的にも、肉体的にも消耗させるのが狙いと見ます。秀吉の備中高松ではそういう状況になっています。

城攻めと言うのは寄せ手の損害が多くなるのが常識であり、また忍城を囲む秀吉軍の実態はタダの援軍の性質が濃いところがあります。損害を省みず力攻めを行うのは出来たら避けたいです。そこに安全な包囲戦である水攻め戦術を使う事が明らかになれば、サッサと高みの見物の態度になってしまった事を三成は嘆いていると読めます。

忍城の水攻めは堤を作ったものの、当初はなかなか水が貯まらなかったとなっています。貯まらないのなら普通に城を攻める事が出来るのですが、おそらく参軍している諸将は「水が貯まるまで待つのが上策」として三成の攻撃命令に異論を立てる状況が出現したと考えます。水攻めを行うのに、なぜに損害が多い直接攻撃を行なう必要があるのかの反論です。

これも史実として良いでしょうが、忍城の回りは低湿地帯でしたが、忍城そのものはやや小高いところに位置しています。水攻めを行うには、堤の高さは城より高くないと城内水浸し戦術が取れません。堤を作る技術は当時ももちろんありましたが、高い堤となれば技術難度、工事の規模は一挙に拡大します。一種のダム建設みたいになってしまうです。さらにですが、秀吉からの書簡が来ます。

水攻めが始まったのは六月十日であるが、十二日付けの書状において、すでに秀吉は三成に対し、水攻めの方法、戦後処理などについて細かく指示を出している。また二十日付けの書状では、三成に水攻めの絵図を提出させ、「築堤が進んだら使者をだして自分の承認を受けるように(普請大形でき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候の条)」と述べている。

忍城の水攻めは城が高台にあり、水が城内に至らず、まるで苦労して外堀を作ったような状態になりますが、それでも秀吉は、

忍城を水攻めにすることに固執する秀吉の姿は、七月三日の浅野長吉あての書状にも現れる。この時は、浅野長吉が忍城攻めで武功をあげたことを誉めたのち、こう付け加えている。「忍城攻めで首三十とったのは結構なことだが、忍城はともかく水攻めにする。このことしっかり申しつける。(とかく水責仰せ付けらる事候間、其の段申し付くべく候也)。)」

7/3と言えば小田原が降伏の使者を出す2日前です。忍城攻めでは、水攻めのための堤が崩れた事も有名ですが、崩れてもなお秀吉は三成に水攻めを指示しています。ここでの問題点は、秀吉は備中高松と違い、忍城に出向いていません。伝聞だけで実際に地形を水に三成に水攻めを強要している事が確認できます。つまりと言うほどではありませんが、忍城の水攻めは三成でなく秀吉の指示であり、ある種の政治パフォーマンスであったです。


これも秀吉が陣頭指揮していれば、ひょっとして壮大な規模の堤を作り上げて忍城を本当の意味の水攻めに出来たのかもしれませんが、小田原攻めは忍城を落とすのが主目的でなく、忍城などは小田原城が落ちれば自然に落城します。ここら辺りに秀吉と三成の意図の相違が出ているような気がします。

引用したネタモトは、地形を考慮しなかった秀吉の無理な命令に苦しむ三成との解釈を立てていますが、もう少し捻っても良いと思っています。小田原攻めは秀吉の天下統一の仕上げみたいな戦いです。単に北条氏に勝つだけでなく、秀吉をよく知らない関東の豪族にその圧倒的な力を見せ付けるのと同時に、秀吉軍に参加している諸将にも力を誇示する政治的パフォーマンスも濃厚に含んでいるだろうです。

小田原城包囲戦では物凄いパフォーマンスを秀吉は行なっています。秀吉は小田原だけではなく、もう1ヵ所、関東の中心部とも言える忍城でもパフォーマンスをやりたかったんじゃないかです。秀吉にとって忍城は落とせば良いだけの城ではなく、派手な演出を行った上での落城を見せたかったのであろうです。だから執拗に水攻めにこだわっていると見ます。

三成は才に優れていますが秀吉の政治感覚についていけなかったと考えます。秀吉の感覚は堤が低くて城を水浸しに出来ないのであれば、もっと壮大な堤を作り直せばOKです。それこそが真の狙いです。一方で三成は、地形的に無理があり、たかが支城のためにそこまでの労力を注ぎ込むのは割に合わないの考え方です。三成には忍城は政治パフォーマンスの場ではなく、無理せず落とせる城にしか見えなかったんじゃないかです。

そういう中で頑張った城方はもちろん称賛されるのは異論はありませんが、攻防戦は実質のところさほど激しくなかったとも考える事も可能です。もともと忍城の周囲は低湿地で、攻め寄せ様にも難渋する地形であったのに、攻めて側がわざわざ外堀状態にしてくれれば、城方もまた高みの見物状態期間が結構あったとも推測します。言うても籠城期間は1ヶ月ほどですからね。

寄せ手と言うか三成にとっては城を直接激しく攻めると言うより、「なんでそんな事をやらなきゃならんのか」ぐらいしか理解できない秀吉の厳命に困惑した城攻めであったように考えます。厳命を断るわけにもいかず、厳命に対する形を整えるための築堤作業に終始した攻防戦の様に感じます。まあ、この差が秀吉・家康クラスの英雄と三成の決定的な差であったかもしれません。


行田

これは忍の城下町である行田について知る者のお話の又聞きです。行田は忍城の地形でわかるように水に恵まれた地理です。もう少し言えば水運に恵まれた地理になるそうです。江戸時代の河川を使った輸送は大きな役割があり、水利を活かして栄えていたとされます。ところが明治になると、河川を使った水運はどことも衰えを見せる事になります。

江戸時代に水運が有利であったのは、これに対抗すべき陸運が貧弱であった関係があります。陸路を使うにもせいぜい馬を使った荷駄とか、大八車程度です。馬車は実質的に存在しなかったはずです。この程度の陸運に較べると、河川利用でも水運は有利であったです。ところが汽車が導入されると水運をはるかに凌駕してしまいます。

汽車の路線は低湿地を好みません。高台の乾燥地の方が好まれます。それ以前に汽車を忌避した土地もありますが、そういう土地は結局のところ衰えます。明治以降は汽車路線が輸送の大動脈になり、大動脈が通ったところが栄える事になります。そういう例は日本各地にあります。行田もまたそうなったと考えるのが妥当です。

都市の繁栄の要因は様々にありますが、基本的に時代に適合する条件を備えた時に繁栄します。しかしその条件が失われた時には没落の道を辿らざるを得なくなります。そういう例は幾らでも挙げられます。行田も申し訳ありませんが、幾多の例の一つに過ぎないと私は見ます。


幕末動乱から明治新政府

幕末動乱は非常に複雑な時代ですが、維新と言う一種の革命への積極的参加者が少ないのは一つの特徴です。西欧のような市民革命と見れば間違います。1割弱の武士階級のさらに少数が参加しているだけの革命です。天朝側でも薩摩、長州、土佐ぐらいを除けば積極的な参加者は数えるほどです。300諸侯と言われた大名家の殆んどは寝ていたのです。

西日本の諸藩は京都の新政府がまだしも地理的に近いので少しは反応していますが、東日本、とくに関東は幕府のお膝元であり「一体何があったんだ」状態の混乱を来たす事になります。そういう状態の多くの藩が取った行動原理は、勝ち馬らしい新政府にとりあえず加担するです。江戸300年でも、そういう判断原理だけは武士階級に残っていたと思います。

そういうドタバタは忍藩だけでなく、たとえば加賀の前田家ですらそうです。気がつけば幕府の代わりに新政府が出来ていたぐらいの状態とすれば良いでしょうか。忍藩とてそんな状態の一つに過ぎません。


さてですが、明治政府を構成したのはいわゆる薩長を中心とする西国大名出身の有力者です。彼らは幕末から戊辰戦争にかけて執拗に抵抗した奥羽の地をある程度冷遇したかもしれません。しかしだからといって、出身の西日本を凄い優遇したかと言えば正直なところ疑問です。たとえば鹿児島にしろ、山口にしろ、高知にしろ、佐賀にしろ格別優遇されたとは思いにくいところがあるからです。

人材登用面での優遇はあったのは否定しませんが、投資とか産業育成、地域振興については「さほど」の格差を行わなかったと見ています。理由も割りと簡単に思いつくところで、そんな地域優遇政策をやっている余裕が日本にない事をよく知っていたからだと考えています。欧米列強の力を現実として認識し、これに追いつく事だけで精一杯で、出身地の贔屓をやっている余裕は乏しかったのだろうぐらいのところです。

関東についての国としての投資も見方によっては単純で、新たに首都とした東京の開発がすべてとして良いでしょう。江戸は世界有数の大都市ではありましたが、産業都市と言うより政治都市であり、消費都市です。江戸時代も江戸の背景地も江戸の消費を賄うだけの物品を製造できず、それこそ経済先進地の上方からの供給に依存します。この需要が回船業の発展を促したのは史実と言えます。そんな東京を消費都市であるだけでなく、産業都市にも仕立てようとしたのが明治以来の国策と見ても良いと思っています。

これは明治政府が決めた枠組みではありますが、日本の地政を考え、東京に首都を置いた時点で誰でも考える国策としても言いすぎとは思いません。それと言うまでもありませんが、日本全体の地政を考えると東京に首都を置くと言う選択は、決して偏向したものでもないとしても良いとも思っています。関西人の私が言うのですから確かです。


学校

戦前の最高学府といえば帝国大学が思い浮かびますがwikipediaより、

設立年 大学名 旧藩
1886年明治19年 東京帝国大学 幕府お膝元
1897年(明治30年 京都帝国大学 朝廷所在地
1907年(明治40年 東北帝国大学 仙台藩(伊達家)
1911年(明治44年 九州帝国大学 黒田家
1918年(大正7年) 北海道帝国大学 松前藩松前家)
1924年大正13年 京城帝国大学
1928年(昭和3年 台北帝国大学
1931年(昭和6年 大阪帝国大学 天領
1939年(昭和14年 名古屋帝国大学 御三家尾張藩(徳川家)


明治新政府の官軍側である薩長土肥は綺麗に入っていません。帝国大学に継ぐものとして旧制高校が思い浮かびますが、

設立年 校名 旧藩
1886 一高(東京) 幕府お膝元
1886 二高(仙台) 伊達家
1894 三高(京都) 朝廷所在地
1887 四高(金沢) 前田家
1887 五高(熊本) 細川家
1900 六高(岡山) 池田家
1901 七高(鹿児島) 島津家
1908 八高(名古屋) 尾張徳川家
1919 新潟高等学校 天領
1919 松本高等学校 戸田松平家
1919 山口高等学校 毛利家
1919 松山高等学校 久松家
1920 水戸高等学校 水戸徳川家
1920 山形高等学校 大給松平家
1920 佐賀高等学校 鍋島家
1920 弘前高等学校 津軽
1920 松江高等学校 越前系松平氏
1921 大阪高等学校 天領
1921 浦和高等学校 天領
1921 福岡高等学校 黒田家
1922 静岡高等学校 天領
1922 高知高等学校 山内家
1923 姫路高等学校 酒井家
1923 広島高等学校 浅野家
1940 旅順高等学校
1943 富山高等学校 前田家


三高は前身が複雑なので高校として成立した時期にしていますので宜しくお願いします。旧制高校になるとさすがに薩長土肥が並びますが、設立数、設立順位から言って、やや優遇されている程度でしょうか。行田ではありませんが、埼玉県と言うエリアで考えれば旧制浦和高校も存在しています。またこれ以外に早稲田や慶応などの私立学校がありますが、多くは東京にあり、埼玉は他の道府県に対し距離的に優位にあります。そりゃ勝者が少しは地元を優遇するのはあるでしょうが、極端な偏りになっているの主張は無理がありそうに感じます。


・・・歴史を踏まえるなら、これぐらいツッコミを私でもやりたくなるので、注意が必要と思っています。