恐るべき病跡学

「独裁」入門 (集英社新書)香山リカ著から引用します。


読解1

 率直に言って、私は橋下氏を「精神疾患だ」と診断したことはない。ではなぜこんな発言が投稿されたかについて、私は次のように考えた。

 「おそらく橋下氏は、ブックレットに載った私の発言をちらっと目にして、「病気だと診断された」と”早とちり”したのではないか。もしかしたら、活字で見たのでなくて、側近か誰かかから、「病気だと言ってましたよ」と聞いて、誤解しただけかもしれない」。

 私の発言については、具体的に紹介したい。そのブックレットとは、市長選が告示されてから出版された「橋下主義(ハシズム)を許すな!」(内田樹香山リカ山口二郎薬師院仁志著。ビジネス社、2011)だ。私の発言箇所を引用してみよう。

 「そういうためらいの部分が、私たちが生きて行く中にはありますけども、橋下さんはそれを切って捨てて、さあどっち、長か半か、みたいなことを迫ってくる。そういうやり方に対して、迷ったすえにやっぱりそっちが正しいんじゃないか、みたいなためらいを含んだ曖昧さではなく、バトルの構図の中でどっちをとるのかと迫ってくる方が、魅力的に見える。そういうふるまい方というのは、私たち精神科医からすると、ある種の危機や不安を抱いている病理のひとつの証拠だと思えてしまいます。

 というのは、私たち精神科医からみると、患者さんと呼ばれる人たちの中にも、往々にして黒か白かというような選択しかできないという状況においやられてしまう人たちがいる。その人たちの多くは非常に不安な状況だったり、自分の価値観が一定しない。たとえばひとつの病名をあげますと、ボーダーライン・パーソナリティー障害といわれる状況の人たちは、自分の周りのすべてのことを白か黒かで判断してしまう。あるいはうつ病の中でもそういう傾向を持ってしまう人たちがいます。つまり黒か白かという判断しかできない人たちを見ると、私たちは、ああこの人自分が今かなり不安に心を占拠されてるんだなと、精神医学的な病理を感じてしまいます。」

 これ以外、選挙の前後で、私が橋下氏に言及した出版物はないので、ツイッターでの「病気だと診断してた」というのはこの文章を指してのものではないか、と推測される。

太字部分が橋下氏に直接会わずに精神疾患と診断したとされた部分です。恥ずかしながら初めて読みましたが、私にもそう読めます。ところがそうは読まないそうです。香山氏はこの文章に続いて正しい読解を示してくれています。

 ただ、先に引用した文章の中には「橋下さんって○○病ですよね」などと診断を下す箇所はないのは明らかだ。繰り返すことになるが、私が橋下氏について指摘したかったのは、橋下氏がどんなイシューに関してもまず「対立の構図」を作るということ、そこで「さあ、どっち」とばかりに二者択一を有権者に迫るというやり方を取るということ、そのふたつの姿勢だ。たしかにそれに続く箇所に「(そういったリーダーが)魅力的に見える。そういうふるまい方というのは、私たち精神科医からすると、ある種の危機や不安を抱いている病理のひとつの証拠だと思えてしまいます」と述べているが、これは主に「黒か白か」と迫るリーダーを「魅力的だ」ととらえてしまう有権者のそのふるまい方が「危機や不安を抱いている病理のひとつの証拠だ」と言っているのであり、橋下氏を病気だと断定してるわけではない。

 もしかすると橋下氏はこの「病理」という単語に反応し、そしてさらに続く箇所、その「不安」があるとなぜ二者択一にとびつきたくなるのかを、「ボーダーライン・パーソナリティ障害」という精神医学用語を使って解説した部分を読んで、「自分は病気だと診断された」と理解したのではないだろうか。この部分にしても、橋下氏個人の診断のために、あえて精神医学用語を持ち出したわけではないのだ。

読解のポイントは太字部分の

    魅力的に見える
ここにあるようです。文中に主語は無いのですが、ここの主語は「大阪の有権者」になるとしています。正しい読み方は、橋下氏がシロかクロかの二択を迫る政治手法に魅力を感じてしまう大阪の有権者を「ボーダーライン・パーソナリティー障害」ないし「うつ病」であると精神医学的に分析し診断を下したものであると言う事のようです。

筆者がそう言っているのですから、正しい読解はそうなんでしょうが、その読解も結構なもののように感じます。だって橋下氏を支持した大阪の有権者は「ボーダーライン・パーソナリティー障害」ないし「うつ病」であり、そういう精神状態に異常を来たした支持者に橋下氏は支持されている事になります。つまり、

    橋下支持者:「ボーダーライン・パーソナリティー障害」ないし「うつ病」あり
    橋下不支持者:正常
こうしているようにも読めるからです。多くの者が「誤読」した方は橋下氏への個人攻撃に留まりますが、筆者が示す正しい読解では大阪で橋下氏を支持した有権者を根こそぎ精神疾患状態とし、返す刀でそういう有権者に支持された橋下氏はどうなんだになるからです。


読解2

読解1を読んでそもそも論の疑問が出てきます。精神科医が橋下氏なり大阪の有権者精神分析し、これを広く公言する事が許されるんだろうかです。誰であれ他者を精神疾患状態であると指摘するのは安易に行って良いとは私には思えないからです。これについて是とする理由を香山氏は述べられています。

 あるいは、たとえ橋下氏を診断したのではないにしても、彼を支持する有権者やその人たちを生んだ社会に病理を見出そうとすることじたい、「会ってもいないのに診断名をつけた」と言いたかったのであろうか。実は、精神医学の応用領域には「歴史精神医学」や「病跡学」と呼ばれる分野がある。これは、歴史上にみられる特徴的な社会や過程、あるいはそこでキーパーソン的な役割を果たした人物について、精神医学的に分析を加えたり、ときには「この疾患におけるこういう病理があったと認められる」と踏み込んだ解釈を行ったりするものである。ここで分析される対象となりうるのは、「指導者」と「政治に参加する民衆」ということになる。

 たとえ「指導者」が分析の対象となった場合でも、この研究では時の為政者に精神医学的なレッテルを貼ることが目的なのではない。時代や社会を象徴する突出した人物に精神医学的な光をあてることで、人間や社会を多角的に理解したり、人間の歩みの秘密を読み解くひとつの鍵にしたりするというのが、この研究領域の目指すところなのだ。

 ただ、こういった方法論を用いた場合でも、守らなければならない倫理はもちろんある。たとえば、いくら指導者的な素質がある人でも、市井の一般人をいきなり取り上げて、そこに精神医学から光をあてるのは控えるべきだ。正常心理を読み解くことが多い心理学とは違い、精神医学的な発想はどうしても「病理」や「異常心理」に偏りがちだからだ(ただし、私たちは「病理」が「正常心理」に比して劣るとか欠けるとは、考えていない。むしろ、多くの人たちの芸術的な活動がその創作の源泉である意味での病理性に得ていることなどは、よくしられているだろう)。

 しかし、橋下氏は大阪府知事から転じて市長選への立候補を表明した時点で、「日本でもっとも注目される政治家」であった。公人である橋下氏や氏を取り巻く現象に精神医学的な光をあてたからといって、それは「医師としての倫理違反」にはならないと考える。

 もちろん、そういった分析、解釈は事態が現在進行形で動いているときではなくて、すべてが終わった後に行うべきだ、という考えもあるかもしれない。しかし、これは私の個人的な価値観なのだが、世の中がきわめて重要な転換点にあると考えられるときには、現在進行形の時点で、事態に精神医学的分析、解釈を加えることも許されるのではないか、と考えている。政治評論家が橋下氏の政治手法をこれまでの政治家と比較して解説し、ファッション評論家が橋下氏のファッションセンスを採点する、といった具合でいろいろな方面からひとつの現象に光をあてようとする中に、「精神医学的な視点から」という分析、批判も当然ありうるだろう。

 実際に私は、これまでも社会で大きなできごとが起きたり、社会的注目度が高い指導者が現れたときには、それが歴史になる前にリアルタイムでの分析を積極的に行ってきた。たとえば「郵政選挙」のときの小泉純一郎氏や、ブッシュ大統領時代のアメリカのイラク戦争などにたいしてがそれだ。

まず患者と言うか分析対象者に会わずに精神分析を行う事は歴史精神医学ないし病跡学として正当であるとしています。たしかに歴史上の人物の事績を辿り、その精神分析を行う研究は耳にした事はあります。またその研究を引用した人物評伝も読んだ事はあります。私の知識が足りないので「歴史精神医学 ≒ 病跡学」と解釈して話を進めますが、日本病跡学会より、

 病跡学とは、宮本忠雄氏によれば「精神的に傑出した歴史的人物の精神医学的伝記やその系統的研究をさす」、福島章氏によれば「簡単にいうと、精神医学や心理学の知識をつかって、天才の個性と創造性を研究しようというもの」です。病跡学という用語は、ドイツの精神科医メービウスが20世紀初頭に造語したパトグラフィー(Pathographie)の翻訳で、他に、病誌・病蹟などとも訳されますが、こうした研究領域は古代からの天才研究にその源流をみる向きもあります。加藤敏氏は「学際的領域に位置して、創造性と精神的逸脱の関係を探ろうとする病跡学の独自性は、精神医学が築き上げた疾病概念や病態把握、および癒しといった観点から、人間の創造性に光を当てるという問題枠に求められる」と述べています。

 何らかの精神障害を病んだ天才の病理と創造性を論じるのが狭義の病跡学研究といえるでしょうが、現在、それに留まらず、病跡学の範囲は広がっています。対象となる「天才」も、従来、好んで取り上げられた小説家や画家のほかに、音楽家や写真家、さらには科学や政治あるいは哲学の分野の天才も俎上に載せられています。また、狭義の精神障害のない天才の生涯と創造を心理学的あるいは精神分析的に辿っていく研究、近親者の精神疾患が創作者に及ぼす影響の研究など、その裾野は広がっています。

 中谷陽二氏は天才研究のほかに、病理としての表現、精神分析的な作品分析にも病跡学の主要な端緒を認めています。特に傑出したとされるわけではない「普通の」患者の描いた作品において、その病理と創造性の関係を論じるのが表現病理であり、こうした方向の関心はアウトサイダー・アートアール・ブリュット)への注目と結びついています。他方、芸術活動の治療的側面に関しては、芸術療法の実践とも関連を持った分野です。また、精神分析的な作品分析はフロイト自身が手を染めており、病跡学ともかかわりの深い分野といえましょう。

これを読む限り病跡学の精神分析対象者は「歴史的人物」となっています。おそらくですが、既に故人となり歴史的評価が定まった人物を対象に行うのが基本であると見ます。そりゃ、現役の人物を対象にすれば問題が起こりそうだからです。誰だって精神疾患である、ないしは精神疾患の傾向があると公然と言われて喜ばしいはずがないからです。ただなんですが日本病跡学会の定義にも、

    裾野は広がっている
こうなっています。どう広がっているかは門外漢には把握し難いのですが、香山氏は病跡学の名の下で「指導者」と「政治に参加する民衆」を精神分析を行うのを正当とした後、
    もちろん、そういった分析、解釈は事態が現在進行形で動いているときではなくて、すべてが終わった後に行うべきだ、という考えもあるかもしれない。しかし、これは私の個人的な価値観なのだが、世の中がきわめて重要な転換点にあると考えられるときには、現在進行形の時点で、事態に精神医学的分析、解釈を加えることも許されるのではないか、と考えている。
香山氏は本来の病跡学としては「現在進行形」の人物(今回であれば橋下氏及び大阪の有権者になりますが)は分析対象にするのは「どうか」の部分はあるとする一方、「世の中がきわめて重要な転換点」にあるのであればOKであるとしています。さて、これは病跡学として正しい手法になるのでしょうか。ここについては私より香山氏が専門家であり「裾野は広がっている」範疇に含まれているとされれば根拠のある反論が行なえません。

ただちょっと怖いのは、病跡学の名の下であれば、「指導者」なり「政治に参加する民衆」に精神医学的分析を加え、精神疾患であるまいしは精神疾患の傾向があると公言しても、

    この研究では時の為政者に精神医学的なレッテルを貼ることが目的なのではない
あくまでも研究であるのでレッテル貼りから免責されるとしています。その理由はファッション評論家が指導者なりのファッションセンスを評論するのと同等であるともしています。私は凄い違和感を感じざるを得ないのですが、精神科医がそう言うのですから、きっとそうなんだろうぐらいしか言い様がありません。病跡学がこんなに適用範囲の広い学問である事を初めて知りました。


政治と精神医学

香山氏の主張に違和感を感じていますが、本職の精神科医が「そうである」と主張するものを根拠無く否定できません。論点を変えてみます。現在進行形の「指導者」や「政治に参加する民衆」を病跡学の名の下に精神医学的分析を加えるのが医師の倫理にも反しない正当行為であるとしても、あくまでも学問分野に留めるべき話ではないかと言う点です。

政治と精神医学の関係について、前に香山氏の原発発言が問題になった時に、Haruki kazano氏がツイッターで、

意見の違う人を精神病者扱いするというのは、かつて全体主義国家とそれに荷担した精神科医がやってきたことで、その反省を踏まえれば精神科医は絶対に口にしてはいけないことなのに。

こうされています。ここの解釈の一つとして精神医学を政治に利用するのも好ましくないも含まれるかと存じます。ここについてはHaruki kazano氏も精神科医であり根拠はあると考えます。たとえば政敵を精神科医を利用して「あいつは精神疾患である」と追い落とすような行為は宜しくないであろうです。香山氏の大阪市長選挙時に出版された題名は、

ハシズムとはファシズムをもじったものであり非常に悪意を込めた表現であるのは誰でもわかります。もちろん橋下氏を政治的に好まない相手として「ハシズム」の表現を使う事自体は、品は良くないですが許容範囲と考えます。許容範囲はあくまでも政治的批判の範囲においてです。この本が出版されたのは、
  • 市長選が告示されてから出版された
  • 橋下氏は大阪府知事から転じて市長選への立候補を表明した時点で、「日本でもっとも注目される政治家」であった

大阪市長選への話題性を狙った出版である事がわかります。そういう時期に「指導者」や「政治に参加する民衆」に精神医学的分析を加え「パーソナル人格障害」とか「うつ病」の病理があると公言するのは果たして病跡学の研究の範疇に留まるのであろうかです。またそういう批判が「指導者のファッションセンスがダサイ」と同列の影響しかないと言って良いのであろうかの疑問です。

私は違和感を感じざるを得ないのですが、香山氏はそのすべてを明快に肯定されています。そうなると橋下氏だけでなく、香山氏が気に入らない政治的指導者が出現するたびに同様の手法を取っても、香山氏は病跡学の名の下に精神医学的分析を行っても免責され続けるになります。まさに「恐るべき病跡学」です。