助産師の本道

まずなんですが、菊池誠先生はツイッターで、

助産院でホメオパシーが流行る理由は、あれが医療と認められていないから。法律により、医師のいない助産院では医療はできない。しかし、医療と認められていないホメオパシーならできるというわけだけど、この話がいかに本末転倒かは誰にだってわかるはずなのにね

これも見方として必ずしも間違っているとは思いませんが、ちょっとニュアンスが違う可能性も残ると思っています。前も取り上げましたが2011年の日本母性衛生学会誌(号数は遺憾ながら不明です)に帝京大学医療技術学部看護学科特任教授の青木康子氏の話が掲載されています。

日本における助産師教育は、戦争の影響で多少の廻り道はしたものの、明治時代から着実なあゆみをしてきている。平成22年の保健師助産師看護師法の一部改正によって、廻り道や多様化という迷い道から解放され、日本の助産師教育は本道にもどりつつある。

この言葉をもう一度よくよく読み直していたのですが、青木特任教授の言う助産師の「本道」とは明治時代の産婆の延長線上であるしか読みようがありません。この部分への補足説明として、

しかしながら、開業産婆の実践を支える基盤となっていた、明治、大正、昭和にわたる産婆学校のカリキュラムの内容に加えて、より学問的な発展を飛躍させたとは言い難い。

ここから言える事は、助産師の本道とは産婆であり、産婆は現在の開業助産師に当たるとしても良さそうです。開業助産師のための助産師学が本道であり、それは明治から昭和に伝えられた産婆学こそが助産師学の本道になります。なおかつその助産師学は、

    廻り道や多様化という迷い道から解放され、日本の助産師教育は本道にもどりつつある
この本道とは明治以来の産婆になるのですが、明治時代に勤務産婆がどれほどいたかは存じません。少なくともポピュラーなものであったとは想像し難いところです。やはり開業産婆(てな言い方があるかどうか知りません)が殆んどであったとするのが妥当かと思います。それぐらい産婆による分娩は需要があったからです。つまり現在の勤務助産師形態は助産師の本道からすると邪道なのかもしれません。


ここで明治からの産婆術なんですが、当然ですが江戸期以前の産婆術の継承発展であると見るのが自然です。明治以降になってからもそうですが、そこには現代医学は殆んど存在しなかったとしても良いと思います。すべて経験による伝承術の世界です。言い換えると、現代医学から派生して発展したのではなく、別体系として継承発展されてきたものとするのが良いと思います。

もちろん現代産科学の知見は時代と共にある程度は取り入れているとは思いますが、取り入れてもそちらには傾斜したくないです。そのあたりの表現としても、

    廻り道や多様化という迷い道から解放され、日本の助産師教育は本道にもどりつつある
取り様なんですが、現代医学とは出来るだけ距離を置きたいと私は受け取ります。それこそが明治以来の伝統の産婆術・助産師学の本道であるとの考え方です。


さてなんですが、冒頭の菊池先生の発言に戻りますが、菊池先生は現代医学の使用が資格として使えないからホメパチなどの代替医療に走るとしています。助産師も使えるのなら使うでしょうが、これは医師法の壁で使えません。そこで「やむなく」的なニュアンスを菊池先生のツイートからは感じますが、そうではなく本道に戻って「喜んで」取り入れているのが本態ではないかと考えています。

助産師学も発展のためには現代医学と同様に新しい知識・技術・治療法を取り入れる必要があります。とはいえ現代産科学の手法や技術はある程度以上は取り入れる事が資格の関係上出来ません。こちらの方面も範囲拡大に努力はされていますが、産科医同様にまでは遠すぎるところはあります。そうなれば現代医学以外の医師法に抵触しない領域の代替医療の取り込みに向かうのは、ある意味自然の流れかもしれません。

これだけなら菊池先生の説と同様なんですが、どうも外野から見ているとどうしても「やむなく」に思えないところがあります。代替医療の取り込みの方が助産師学の本態として親和性が高そうに見えてしまうのです。その理由が明治以来、いや有史以来の産婆術の伝統のような気がしてならないのです。どうにも理で裏付けを取ろうとする現代医学と根本的なところで相性が悪いです。

親和性が高いのは「摩訶不思議」系です。理で説明するものではなく摩訶不思議なものに魅かれるです。これは産婆が生命の誕生を司るという神秘な仕事に従事する選民意識に由来している様な気がします。この神秘性を本能的に守りたいという意識が、現代医療よりも代替医療に強い親和性を持つ原因ではないかと考えています。

もう一度青木特任教授の言葉である、

    廻り道や多様化という迷い道から解放され、日本の助産師教育は本道にもどりつつある
これは理に基づく現代医学からの決別こそが助産師学の本道であると言っているのではないでしょうか。現代医学を取り入れられないのが悔しいのではなく、サッパリと現代医学と縁を切り、伝統的な神秘の産婆術に回帰する事を宣言している気がします。そうなると「廻り道や多様化」とは、産婆の本道から外れ、中途半端に現代医学の知識を取り入れたり、産科医の監督下で働く勤務助産師の事を指している様な気がしてなりません。


まあ開業助産師がどう考え、それに共鳴する妊産婦がどうしようがある意味本人の自由です。それでどうなろうとそれこそ自己責任です。本当に困るのは、最後の最後のところで危なくなれば現代医学に放り投げる点です。これは大変困るです。自由を享受したいのなら、責任も最後まで取るべきではないかです。

現代産科学は開業助産師側から「非人間的」「機械みたいな扱い」とか酷評はされていますが、なんのためにそれをしているかです。すべてはリスク低減のためです。「自然」のままでは一定確率で発生するリスクを可能な限り未然に予防し、それでも防ぎきれずに起こってしまうリスクに対しても、事前の準備を整える事でリスクを減らしているのです。簡単には妊娠中、周産期、産後をトータルに管理する事により重大リスクの低減を可能な限り行う医療です。

これを「自然」のままのリスクで放置され、漫然と起こったリスクに対応できずに放り投げられると、受け止めるのに迷惑するになります。妊娠出産以外でも危険な冒険にチャレンジする者がいますが、危険であるほど起きたリスクは自分の責任で受け止めるのがある種のルールです。そういう場合でも救援に出動はしますが、あまり宜しいものと通常は受け取られません。

冒険家は危険を冒しはしますが、一流であるほどリスク計算はシビアです。一般人からはリスクであっても、自分の経験と技術では安全の範囲の見切りを厳格に行います。そういう冒険を冒険家が出来たから「同じ人間」とばかりにチャレンジするのは無謀と言われます。無謀な冒険の尻拭い(救援)にも出動はしますが、誰も喜んでやりたくはありません。「あのアホウが・・・」と毒づきながらのものになると言う事です。

救援に向かった者だけではなく、社会からも非難を受けます。そういう非難が次の無謀なチャレンジを抑制すると言うわけです。


開業助産師も国家認定の専門資格を持つプロであり、プロがリスクを見切って妊娠出産と言うリスクを請け負ったのなら、最後まで責任は持つべきだと考えます。さらに本道に向かって邁進し、現代医学の助力を借りたくないのであれば借りるなです。もし土壇場の救援をアテにするのであれば、救援者の言葉に従うべきだになるはずです。

救援者が開業助産師に要求するのは、助産師も現代産科学の体系に組み込まれる事です。それを忌避して最後だけ放り投げる行為は批判しか呼ばないです。これは助産師だけではなく、現代医学を忌避させ、独自の代替医療で病気を悪化させて手に負えなくなった時点で放り投げる者にも同じ態度になります。尻拭いを当然の事としてアテにしながら、救援者の方針・忠告を積極的に非難する態度はどう考えても好ましいものとは思えません。

救援者の批判が「ウルサイ」とするのなら、救援者をアテにしない助産をするべきと言う事です。これは明治やそれ以前の産婆術であるならまさに「本道」であるはずだからです。