日曜閑話56

今日のお題は「明治維新」です。自分で御題にしながら身震いするほど難解なテーマです。数知れない研究書もあると思いますが、いつもの閑話の様に独断と偏見で話を進めていきます。


維新の語源

まずは維新の時期ですがお手軽にwkipediaから、

開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争終結明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

読めば判るように諸説があります。今日は後の話の関係で始まりは目一杯古い説で採らせて頂きます。そいでもって「維新」自体の由来もwikipediaから、

維新(いしん)は、「変革」の意味を持つ語句である。和訓では「これあらた」と読む。

日本では天保元年(1830年)、水戸藩藤田東湖が藩政改革への決意を述べる際に、『詩経』「大雅・文王篇」の一節である「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」を引用して用いたのが最古とされている。それより少し遡る安永8年(1779年)、平戸藩主の松浦清松浦静山)が藩校を設立した際、校名を「維新館」と名付けたことに対し、幕府から「維新とは不穏当である(倒幕の意思ありか)」と問責されているが、その後も校名に変更はなかった。これもまた『詩経』より採られたものであった。

詩経由来は同じでも、松浦静山の維新より藤田東湖の維新が明治維新に使われた気がします。なんと言っても藤田東湖は後期水戸学の象徴みたいな人物ですし、幕末動乱の基になった尊皇攘夷思想の初期の親分みたいな人物だからです。ちなみに幕末の尊皇攘夷の言葉も藤田東湖が初出する説があるぐらいです。今日のところは維新は藤田東湖詩経から採った維新が明治維新の語源だろうぐらいにさせて頂きます。

維新の英語訳は、

    the Meiji restoration
これがどこから出てきたか確認できませんでした。とりあえず「restoration」の動詞形である「restore」はレストアとして日本語化されています。復旧とか回復の意味で宜しいかと思います。ところが名詞形で「restoration drama」とされると王政復古劇となるそうです。どうもですが名詞形の「restoration」には王政復古の意味合いがかなり含まれるようです。

王政復古の言葉は大政奉還の後に政治用語として登場し、鳥羽伏見から始まる戊辰戦争のスローガンになったと解釈していますから、revolution(革命)ではなく restorationが使われたと見ます。ただこれが明治政府がつけたものなのか、イギリスを始めとする外国公使がつけたのか、横浜の英字新聞あたりが名づけたのかについてはわかりませんでした。


維新の語源が藤田東湖らしいは判ったのですが、いつからある程度公式に「維新」が使われたのかも見つかりませんでした。これもまたwikipediで申し訳ないのですが、

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権)を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。

明治期を舞台にした小説はある程度読んだ事があるのですが、あんまり維新の言葉が出てきた記憶に乏しいところがあります。とは言え明治維新は政治体制だけではなく、社会体制も劇的に変わった時代ですから、歴史の節目として作品中には出てきます。今の感覚であえて言えば第二次大戦ぐらいの重みでしょうか。当然それを指す用語があるのですが、維新でなく「御一新」です。

維新と御一新は字にすればかなり違うのですが音にすれば非常に似ています。かなにすれば判りやすいですが「いしん」と「ごいっしん」になります。なおかつですが御一新はかなり広く使われている形跡はあります。推測ですが明治の大改革の政治フレーズとして頻用されたんじゃないかと思っています。

これは仮説ですが、御一新フレーズは広く周知される一方で政府自体も明治政府とか新政府と呼ばれるより「御一新政府」と呼ばれた時期もあったんじゃないかと思っています。政治フレーズと政府のニックネームが同じになるのは不思議な現象とは思えません。そこで政府側が「御一新政府」はあんまり宜しくないの意見が出たんじゃないでしょうか。とは言え定着しかけていますから、似た音の維新が当て字として使われたんじゃないかと。

これは逆も成立する仮説で、明治の改革を維新と呼号する事が先に決定したのですが、当時は維新の言葉自体に馴染みがなく、民衆にフレーズとして用いるには難解すぎたです。そこで維新をもう少し俗に言い下した「御一新」を民衆には多用したです。

もう少し言えば、当時の政府の言葉には「御」が付けられます。維新も「御維新」とされてもおかしくないと思います。でもって「ごいしん」と言われてもピンと来ない民衆に「意味は、御一新だ」として説明したのかもしれません。御維新じゃピンと来なくとも「御一新」なら理解が可能で、民衆には維新ではなく御一新として広まったのかもしれません。


維新は政治闘争ではなく思想闘争

今回考え直すまで幕末の抗争は政治闘争と考えていました。基本的には間違いでないと今でも思っていますが、政治闘争だけで説明しようとすればかなり無理があります。幕末の政治闘争は単純化すれば「幕府 vs 薩長」です。薩長と言うより長州とした方が良いかもしれませんが、かなりの時期まで「開国 vs 攘夷」の政治構図がありました。開国を目指す幕府と、あくまでも攘夷貫徹の長州です。

ところが明治政府が出来上がると攘夷どころか文明開化の世が来るで、バリバリ開国路線になります。どこで何が起こったのかみたいな状況になるわけです。これを政治闘争のみの視点で見て行くと話がひたすら複雑になります。ですから視点を少し広げて、政治闘争でも思想闘争の要素が濃いと見た方が分かりやすくなると思います。

どんな思想闘争であったかですが、比較として1960年代に炸裂した学生運動を置けば類似部分が多そうに思います。


流行思想

理由とか原因は雲をつかむような話ですが、黒船来航の少し前から尊皇攘夷思想が江戸で大流行したと見ます。尊皇攘夷思想の当時の卸元は水戸学ですが、これが流行思想としてなぜか急激に広まったです。とくに知識人の間では猫も杓子も状態になったとまず考えます。

これがさらに広まったのは剣術道場からと言う説が昔からあります。当時日本一とも言われた千葉道場は周作が水戸藩の扶持を受けており、水戸学の尊皇攘夷思想が濃かったと言われます。ここに全国の藩から剣術修行に訪れ、尊皇攘夷思想が広まったです。これは一面として間違いでは無いと思うのですが、千葉道場だけではなく斎藤道場も、桃井道場も似たような状況であったとも言われます。

私は剣術道場だけではなく、学塾もまた競って尊皇攘夷思想をエッセンスとして取り入れたのではないかと考えています。流行と言うのは加熱すればそういう状態にすぐになります。流行の尊皇攘夷思想が入ってなければ思想にあらず見たいな感じです。花のお江戸の最新流行思想ですから、権威を持って流行したとしても不思議無いでしょう。


江戸留学生

さてなんですが、剣術にしろ学術にしろ江戸に留学なり遊学するのは大変です。簡単に言えばカネがかかるです。現在の下宿にくらべてどうかはわかりませんが、道場の学費は必要ですし、生活費も必要です。ですから留学でも藩費で来ている者はまだしも、自費で来ている者は自然に制約されるです。そういうカネが出せる連中しか江戸には来れないです。

江戸期の藩財政は殆んどのところが火の車であったのは有名です。藩財政が火の車になると藩士の給料もカットされます。つまり藩士も貧乏になるです。そういう財政に余裕の無い藩からはそうそう江戸留学生は派遣できません。カネがないからです。また藩の方針として、江戸留学に不熱心なところもあったと思います。

参勤交代を利用しての江戸留学はあるだろうと思われますが、江戸在府中の行動も案外不便なものであったの記録を読んだ事があります。江戸在府中でも勤務を自由に休んで学塾や剣術道場に通えたわけではなさそうです。見方として、江戸留学を許可されたものが参勤交代の人数の中に加えてもらったと見る方が正しそうなところがあります。


何が言いたいかですが、江戸に出て留学できるような人間はある程度富裕な層に限定されたです。さらに留学に熱心な藩にさらに限定されたです。そういう限られた人間が江戸の流行思想である尊皇攘夷思想に被れたです。幕末の時代小説を読んでいると、日本中の武士が尊皇攘夷思想に熱狂しているように感じてしまいますが、実際のところ幕末の混乱に積極的に参加した武士や藩は限られており、それ以外は結構無関心であったとみています。

もう一つ、江戸は巨大都市ではありますが、剣術にしろ学塾にしろ人気があるところは一握りです。同じようなところに留学生は集まりますから、同門とか知人のネットワークがかなり濃密に出来たと考えています。幕末のいわゆる志士連中の横の結束はそういう意識が大きかったのではないかと見ています。今でも似たようなところで、同期とか同門の結束は色んなところで顔を出します。


思想のヒートアップ

尊皇攘夷思想と言っても、本来は机上の理論です。鎖国下の日本では攘夷と行っても夷人が濶歩している訳ではなく、尊皇と言ってもたかだか将軍とは別に京都に天皇がいて、これは将軍とは別に尊ぶぐらいのレベルであったと考えています。別に尊皇攘夷思想自体が革命哲学として生み出されたわけではないからです。

そこに黒船が来航します。ペリー以前にも黒船来航はありましたが、やはり江戸湾に直接乗り入れるパフォーマンスは強烈であったと言う事です。黒船来航は机上の思想理論であった尊皇攘夷が一挙に具体化した効果をもたらしたと見ています。話は単純で、黒船で日本に攻め寄せてくる夷人を打ち払えです。

尊王攘夷論も本来そんなに単純な理論ではないのですが、思想を学ぶのと思想に触れるのでは反応がかなり違います。多くの志士といわれる連中は、又聞きか又聞きの又聞き程度で尊皇攘夷思想に触れているだけですから、黒船が来航したら思想に則り攘夷しか反応が起こらないわけです。


さて現実に政権を運営し、黒船に直接対応した幕府ですが、これは現実的な対応に終始します。幕府要人にも尊皇攘夷思想の浸透はあったと思いますが、黒船とまともに戦っても勝ち目がないの判断です。そのためアメリカの要求を受け入れる方針を取ります。これ自体は間違った方針とは思えないのですが、思想がこれを許しません。

尊皇攘夷思想の尊皇思想が台頭したと見ています。思想の核である攘夷を行えないような幕府は無用の長物であり、天皇の下に新たな政権を作り攘夷を断行すべしです。えらい単純な見方ですが、それぐらいの単純さで実際に歴史は進行しているように私は見えます。


思想の変遷・変質

明治維新を担った連中は「若い」という特徴があるのはしばしば指摘されています。これは上記したように尊皇攘夷思想を学んだというより触れたところで、黒船来航により先鋭化した江戸留学世代が中核をなしたためと考えます。尊皇攘夷思想は

  1. 黒船来航により攘夷思想が爆発
  2. 幕府の現実的対応に尊王論(倒幕論)が台頭
思想による正義に熱中した連中は怖ろしいものです。思想の大義のためには旧来の秩序が邪魔ならば排除するのが正義になります。攘夷の大義を断行できないのなら幕府は不要となり、不要な幕府を倒すのに藩の上層部が邪魔ならこれも排除するのが正義になります。さらに排除の正義のためには殺人さえ美徳になり、反対派の粛清、つまりは内ゲバが沸騰します。

これが典型的に爆発したのが長州藩で、激しい内ゲバを繰り返した挙句、穏健派が排斥され若手過激派が主導権を握る自体にまで発展します。ただ長州藩が典型としましたが、よくよく考えると長州藩だけが過激派革命に成功したと見る方が正確かもしれません。薩摩は統制主義を崩していませんし、土佐も容堂は佐幕主義者で、クーデターを起した武市半平太以下を弾圧抹殺しています。肥前となると薩摩以上に統制を崩していません。


結局のところ過激派が政権を握った長州藩が幕末の闘争をリードしていきます。リードはしたのは間違いないのですが、手法は正直なところ幼稚です。思想に酔う者は、しばしば自分以外も同じ思想に酔っていると思い込みます。ですから何か事を起こせば、天下に溢れる同志が一斉に決起し、一挙に事(倒幕)が成功するみたいな妄想に生きる事になります。

有名な池田屋騒動にしても、元は京都焼き討ちです。京都を焼野原にするような騒ぎを起せば、それを聞きつけた志士がドット決起し、そのまま倒幕に時勢が突き進むみたいな発想です。相当雑な計画ですが、これを企画推進したのが二流・三流の人物ではなく、志士でも一流いや超一流とされる人物ですから、発想の程度がわかるというものです。

蛤御門だってそうです。とにかく暴発すれば、満天下の尊皇攘夷思想の志士に火がつき燃え広がり、その勢いに乗れば事がなるです。


どうしても昭和の学生運動の暴発を思い出してしまうのですが、思想に酔う過激派が思うほど支持は厚くも広くも無く、また幕府は衰えたりとは言え、その程度のチャチな暴発では潰れようもない事態が繰り返されます。思想に酔う過激派とて、実際に同志の流血がこれだけ積み重なれば少しは学習します。この手の暴発だけでは無理だです。

そのあたりで攘夷のための手段としての倒幕が目的化したと思っています。長州征伐で滅亡の淵まで近づいたのですから、さすがに現実が見え始めたです。さらに言えば、暴発とか内ゲバのために、過激な攘夷派の有力者が死に絶えたというのもあると思っています。そういう連中が元気な限り、攘夷思想を引っ込めると一言口走れば内ゲバの血祭りにあうからです。

この時点で思想はさらに変質・変化したと見ます。もう一度まとめると、

  1. 黒船来航により攘夷思想が爆発
  2. 幕府の現実的対応に尊王論(倒幕論)が台頭
  3. 攘夷のための討幕運動(暴発)が莫大な損害を出す
  4. 攘夷を引っ込めた倒幕路線に転換
これは思想転換と言うより、思想からの脱却と見る方が正しいかもしれません。攘夷思想のために幕府を倒すのではなく、幕府を倒すために現実的に動くです。尊皇思想も倒幕のための政治的な大義名分(道具)になった。ここまで長州が現実主義に変わったので、政治的に倒幕を目指す薩摩と手を握る事が漸く可能になったです。


思想の退潮

指導者層の尊皇攘夷過激派層が死に絶えたと言っても、その下に単純かつ盲目的な攘夷主義者はゴロゴロいるわけです。現実論として攘夷を引っ込めたと言っても、建前としては攘夷は出しておかないと結束が崩れるだけではなく内ゲバの暗殺の血祭りにされます。ですから建前は攘夷は残しています。それが新政府成立後にほぼ跡形も無く消えうせたのはなぜかになります。

これが難しいのですが、熱狂から醒めちゃったのではないでしょうか。人を酔わせるだけの神通力が急速に失われたです。思想による熱狂は、渦中にある時にはこの世のすべてですが、醒めてしまうと、なぜにあれだけ熱狂していたのか自分でも説明できなくなる時があります。昭和の学生運動もあれだけ学生を中心に熱狂させたのに、過ぎてしまえば理解不能になるのと似ている気がします。


維新の本態は

歴史はマクロとミクロの流れがあるのですが、マクロ的には当時の江戸幕府には国際環境(列強進出)に対応する能力を既に失っていたと見ても良いと思います。幕府による封建体制のままではどうしようもなく、新体制に切り替える必要な時期が歴史的には到来していたです。

幕府に変わる新体制を作るためには、とにもかくにも幕府を倒さないと出来ません。幕府の力は室町末期と言うより、鎌倉末期ぐらいの力は残っており、新体制を作ると言っても、下手すると南北朝をもう1回やるぐらいの混乱と時間が必要であったかもしれません。南北朝の頃は外患は気にしなくて良い時代でしたが、幕末は列強と言う因子が存在しています。

維新運動により、ある程度幕府も力を残したまま倒れ、さらに受け継いだ明治政府も危ういながら全国統治権を速やかに確保しています。つまり権力の空白期をほとんど作らなかったのが偉大な成果と評価すべきかもしれません。


では手法はどうかです。ほぼ観念的な思い込みからの暴発運動のタマタマの成功です。そんな暴発が奇蹟のような成功を収めたのは、

    天の時・・・幕府の命運が尽きる時期であった
    地の利・・・列強とて日本征服の為の大艦隊を送る余裕がなかった
    人の和・・・革命家からテクノラートへの引渡しが比較的スムーズに進んだ
同じような思想運動であった昭和の学生運動が頓挫したのは、とりあえず天の時に恵まれていなかったと私は見ます。地の利も左翼思想の政治体制が日本に誕生するのをアメリカが好まなかったも小さくはないでしょう。人の和までは昭和の学生運動は進まなかったので、これは良いでしょう。

維新型の暴発式は、非常にリスキーな政治手法と私は感じます。どこをどう見たって穏和な政治手段とは思えないからです。幕末期にはタマタマこの手法が取られ、結果として成功していましたが、成功するにはそてこそ「天の時、地の利、人の和」に存分に恵まれる必要があります。そうでない時に維新型の暴発をやっても単なる暴動に過ぎなくなるです。


現在の政治体制・社会体制に閉塞感があるのは否定しません。ただこれが現在の政治体制の命運が尽きる時期になっているのかと言われれば、チト首を捻ります。政治体制・社会体制が時代に合わなくなった時に必要な政治手法は、維新型の根こそぎ潰して作り直すか、そうですねぇ、緩んだタガを締めなおし、現実に即して調整する吉宗型の選択はあると思っています。

幕末期に吉宗型が通用しないと思いますが、享保の時代に維新型も不適切だと感じます。時宜に合わせた手法があると言う事です。問題は現在がどちらであるかです。


政治家は維新の言葉も好きですし、「我こそは現代の坂本龍馬」のフレーズも大好きです。個人的には今現在の世の中に維新型の無計画な暴発をされるのは迷惑だとしか感じませんが、そこまで考えて維新の言葉を使っていないような気もします。この辺は、維新の解釈が私と相当異なっているのかもしれません。私の今日の解釈とて一般論とは言えず、もっと違う解釈もたくさんあると思うからです。

それより何より、もっともっと軽い意味で政治家は使っているようにも思います。単なる改革の言い換えぐらいのレベルです。ちょっと強めの改革イメージでしょうか。それも悪いとは言いませんが、政治家がフレーズに使ってしまうと、往々にして非常に悪いイメージが後に残る事が多いので、今の維新ブームの後に維新の言葉のニュアンスがどう変質するかは気になるところです。

ではではこの辺で今日は休題にさせて頂きます。