昭和40年代

歳がバレバレですがちょうど中盤から後半が小学校時代になります。オイルショック前の高度成長期といわれている時代とでもすれば良いでしょうか。個人的には懐かしい時代です。懐かしいとは時代が懐かしいというより、小学校であった頃が懐かしいとする方が適切です。まだ郊外型大型店舗なんてものが進出する直前であり、故郷も田舎町ながら商店街が健在の時代です。

思い出としてはセピア色なんですが、今から思えば貧しくて不便な時代です。不便と言っても、それから後に便利なものができて驚いただけなんですが、今では当たり前と言うか、無いのが不思議なものが「ない」もしくは「不便」な時代です。


うちは亡父が開業医で、亡祖父が薬局経営でしたから当時的には裕福な家庭に入るはずです。とくに亡祖父はケチなわりには、あたらし物好きの一面があり、結構先端の電化製品がありました。たとえばカラーテレビ。これはかなり早い時代から存在していたはずです。インチ1万円(昭和40年頃の公務員の初任給が2万円ぐらいだそうです)なんて言われた時代で20インチ級の「超大型」であったと記憶しています。ブラウン管方式でしたからそりゃデカかった。

それと覚えている方は覚えていると思いますが、当時のテレビは真空管方式です。今とどこが違うかと言えば、スイッチを入れてもすぐには画面は映りません。真空管が温まるまでの時間が必要で、まず音声が聞こえ始め、おもむろに画面が現れてくるです。画面が安定するまで3分ぐらいかかったんじゃないでしょうか。そんなにはかからかったかなぁ。さすがに記憶の彼方です。

洗濯機は1槽式の絞り機付きのがありました。絞り機と言うのが懐かしいメカニズムで、洗濯機の横にローラーみたいなものがあり、ここに洗い終わった洗濯物を通すと水が絞れると言うものです。この後に2槽式の脱水機付きのものが出現するのですが、その前の簡易式の脱水機みたいなものでしょうか。この辺は当時でも時代の進歩は早く、祖父宅が洗濯機を買った頃は最先端でしたが、買い換える頃には全自動洗濯機の初期型が登場していました。


電話も凄かった。一番最初に使った電話(たぶん昭和40年代初頭)は横にハンドルが付いていました。電話をかける前に横のハンドルを何回か回すのです。たぶん発電していたんじゃないかと思っていますが、受話器を取ると電話局の交換手が出るスタイルです。そこで「こちら○○○○番ですが、○○○○番お願いします」とする方式です。所謂交換手時代です。

電話も急速に発達し、昭和40年代の終わりごろにはプッシュホンになっていたかと記憶しています。ただしコードレスはさらに10年後、携帯なんてまだまだSF小説の中の代物です。


エアコンも凄い初期型の家庭用のものを知っています。これがまた馬鹿でかいもので、前面は今の大型テレビぐらいで、奥行きは優に1メートル超えていたと思います。室外機も同じぐらいのものがあり、まさに轟音をたてて稼動していました。それだけの大きさと轟音でしたが、10畳ほどの部屋を冷やすのに四苦八苦していました。業務用なんてなるとさらに物凄くて、それこそ大型ロッカーサイズが鎮座していました。

当時のクーラーは贅沢品で、自家用車もクーラー無しが当たり前でした。クーラーなんか付いているのは超高級車かタクシーぐらいのもので、麗々しく「冷房車」のシールが窓に貼ってあったものです。亡父が昭和40年代の終わりに購入したクルマにクーラーが入っていて感動したものです。当時のクルマ用のクーラーは後付のもので、ちょうどグローブボックスの下ぐらいにドデカイのが付いていました。

街中で喫茶店に入るのは、クーラーのある部屋に入るという意味もまたありました。今でもそういう面はありますが、当時は冷房率が今より低かったですから、より切実な要求としてありました。クーラーもまた昭和40年代の後半から50年代の前半に広く普及したと記憶しています。


アポロが月に行ったぐらいですから当時からコンピューターはありましたが、当然の事ですが大型ロッカーのような代物です。パーソナル・ユースには程遠く、当時のSF小説でさえあんまり想像できなかったんじゃないかと思っています。昭和40年代に普及したこの手のグッズの最先端は電卓です。これも凄い初期型を見たことがあります。

とりあえずデカイ。新聞紙半分ぐらいあったんじゃないでしょうか。それでもって数字の表示が光電管方式。想像するのが難しいかもしれませんが、たぶん数字の表示部分に10枚ぐらいのパネルを重ね、必要な数字のパネルが光る方式であったと思っています。これも間もなく液晶式が登場し、さらにカシオのビッグミニが登場して時代を変えますが、昭和60年代なると二束三文で売っていたのは感慨深いところです。そうそう関数電卓が登場した時は欲しかったものです。


風呂の現代化は遅かった様に思います。風呂言うより給湯システムにした方が話が簡潔かもしれません。瞬間湯沸かし器の時代が長かったと思います。これも基本的に今のシステムとそんなに変わらないのですが、一番違うのは着火が手動であったことです。いわゆる「種火をつける」作業です。これが実に着き難かった。かなりのコツが必要であったです。

うちはリッチな方の家庭で、瞬間湯沸かし器から台所の給湯、風呂の給湯、洗面所の給湯、シャワー(これがリッチの象徴)をカバーしていましたが、瞬間湯沸かし器が置かれているところが寒々しいところで、冬場に種火をつけるために何分も頑張らないといけかったのは今でも覚えています。それと給湯能力が低くて、多方面に給湯可能であっても使用は1ヵ所限定みたいな感じです。温度調節も季節により変化させる必要がありました。

ちなみに風呂本体も湯沸かし器です。まず水を入れて、それからカチャン、カチャンと着火させて(これがまたなかなか着火しなかった)沸かすです。自動温度調節みたいなものは夢の代物で、ゼンマイ式のタイマーで給水時間を計り、沸かす時間を計るです。タイマーを聞き逃して風呂から水を溢れさせたり、風呂をそれこそ沸騰状態にした事もあります。


当たり前ですが今に続く便利な製品の草創期であり、基本的に似たものはありました。ただしかなり裕福な家庭レベルでこれで、上記したような製品がどこの家庭でもそこそこ当たり前になるのはやはり昭和50年代になってからだと思っています。

自動車はありましたし、亡父が好きだったので自動車旅行も良くしましたが、今から思えばかなりの根性旅行です。クーラーがないわけですから夏の旅行なら窓全開で走るわけです。晴れてたらまだ良いのですが、雨でも降れば大変で、蒸し風呂のようになっていました。道もどこでも舗装されているのが当たり前なんて状態からは遠く、未舗装道路がたくさんありました。

当時のドライブの一つの経験則で、道に迷いそうになったら「舗装道路を選べ」なんてものさえありました。高速道路も名神はありましたが、中国道もましてや山陽道北陸道もなく、今の感覚ならちょっとした冒険旅行的な雰囲気もあったような気がします。


いちおう本職ですから医療(田舎の小児科開業医レベル、昭和40年代半ば)も書いておくと、血液検査は血沈と血算ぐらいしかなかった様な気がします。血算はもちろん顕微鏡で医師が数えます。レントゲンはありましたが、自動現像機はもちろんなく、診察終了後に現像室で、現像→定着→水洗→乾燥と行い、やっと見れると言う状態です。患者は当然翌日も受診します。

消毒はなぜか覚えていますが、オートクレープはまだなく(いつ入ったか忘れた)、基本はジンメルと呼ばれた煮沸消毒器です。注射器もガラス製で、針もまたディスポじゃなかったはずです。煮沸消毒が主体なのですが問題はカストで、これはなんと乾熱消毒でした。具体的にはアルコールを入れて火をつけるです。燃やして消毒するだったです。

内服抗生剤はある程度出ていまして、マクロライド系とペニシリン系に加えて、セフェムの元祖みたいなL-ケフレックスはあったはずです。ただ小児用のDS製剤のラインナップはまだまだで、乳鉢で錠剤を擂り潰して使うは結構やっていました。それと解熱剤としての座薬はまだだったはずで、私は使われた事がありません。どうしてたかと言えば筋注の解熱剤をよく使っていました。ザルソカインだったかな、あれは痛かった。

点滴は翼状針が出始めた頃でしたが、あれは高いとこぼしていたのを覚えています。そういえば点滴ボトルもガラスだったっけ。点滴はされた事はありませんが、風邪で寝込むたびにでっかいガラスの注射器で静注されたのを良く覚えています。あれは何が入っていたのでしょうか。やっぱりブドウ糖かな?


ほいじゃ自然環境は良かったかと言うと疑問です。高度成長期の負の側面は公害です。大気汚染、水質汚染が表面化し大問題になっていた頃です。須磨に海水浴に行ったら廃油みたいなものが浮かんでおり、黒いシミが取れなくて困った記憶はなぜか明瞭に残っています。あれで海水浴が長い間嫌いになった気がしています。光化学スモッグなんて言葉が登場し、現実に光化学スモッグ注意報が出されていました。

今でも問題になる農薬ですが、誤解を怖れず言えば、当時はバンバン使っていた時代としても良いかと思います。当時ぐらいから規制が本格化し今に至るの感じです。核実験もそうで、大気中でバンスカ行われていた時代です。自動車の排気ガスが大問題視されたのはもう少し後で、核実験はともかく、公害による環境汚染で人類は滅亡するなんていうストーリーはSFの一つの定番だった様に思います。

ゴジラ・シリーズにヘドラと言う公害の産物みたいな怪獣が登場して話題になったりも覚えています。


個人的な郷愁は昭和40年代にはあります。ただこの郷愁は自分が小学生であっただけの様に思わないでもありません。あえて言えば、時代が高度成長期の熱気に包まれていて「誰もが努力すれば幸福になれる」を無邪気に信じていた良さはあったかもしれません。ほいでもって戻りたいかと言えばあんまり戻りたくありません。

当時はとりあえずモノの種類が乏しかった。さらに選択枝の乏しいモノが高かったのだけは間違いありません。商店街が健在だった時代としましたが、商品は今や死後になりかけている定価販売の時代です。だから個人商店が元気であったと思いますし、ダイエーの故中内功氏が価格破壊で全国を席捲したのだと思っています。この価格破壊の前の時代に戻らないと昭和40年代の基本パーツは成立しません。

ある時代と言うのは良い面もあり、悪い面もありで構成されており、過去の良い面と今の良い面を抽出して再構成するのは幻想に過ぎないと思っています。過去の時代に戻ると言うのは良い面だけではなく悪い面も含めて戻るになります。良い面も悪い面も時代を作る重要なパーツであり、パーツ欠いたままで戻るのは不可能です。そんな面倒な事をするより、現在の悪い面を改善して未来を見る方が余程現実的と思っています。

もっとも悪い面を改善し続けた過去からの結果が今とも言えますから、人間の営みなんてそんなもののような気がします。「昔は良かった」は美化された記憶の中にのみあり、たとえ昭和40年代とは言え戻って生活するのは半端どころじゃない根性がいるのだけは経験者として言える気がします。便利さは知ってしまうと手放すのは大変ですからねぇ。