救急医療の医師数の制度設計の源流

「源流」なんて大層なタイトルをつけましたが、私如きの年齢で実際に見聞きした訳ではありません。私なんか医師会に行けば若手かせいぜい中堅の一番若い層ぐらいだからです。源流を書くのに相応しい年齢の医師は他にもゴマンとおられると言う事です。ただなんですが、書くのに相応しい医師はゴマンとおられても、書いてくれる医師は案外少なそうに思っています。仕方が無いので力不足ながら私が書いてみます。


研修医時代の記憶

まだまだ私が若かった時のお話です。当時は某県立病院に勤務していました。そこの医局で他科の研修医と雑談していた時です。話題はタマタマですが当直バイト料の話になっていました。他愛も無い話で、「あそこは高いけどシンドイ」とか、「あそこは安いけど寝当直」とか、「あそこのメシは不味い」とかです。いつしか当直バイトに較べて院内当直は安いなんてところにも広がっていましたっけ。もちろん旧研修医制度時代のお話ですからバイト自体は何の問題もありません。

いつからその席と言うか、医局にいたのか記憶の彼方ですが、当時で部長クラスの医師がヒョイと口を出され、

    院内当直が安い言うけど、この病院が出来た頃はタダやってんで・・・
その県立病院は1970年に出来ていますが、当時は設立以来の医師が結構おられました。なぜに結構おられたのかは理由があるのですが、それは今日の本筋では無いので置かせて頂いて、1例報告ですがある時代には当直料がタダの時代がどうもあったらしいのソースにさせて頂きたいと思います。1例報告で全部の病院の院内当直料がタダであったは言い過ぎですが、タダないし非常に安かった「ようだ」ぐらいにしても良いと判断します。ちなみにその県立病院でタダの時代の次は、
    タダの次は500円・・・
たとえ1970年代でも500円は安くて、そうですねぇ、ラーメン一杯が300円ぐらいだったと思います。コーヒーが200円ぐらいだったでしょうか。それぐらいの安さだったと言う事です。


救急告示病院

これは前に調べた事があるので、

げっ、6年も前の記事だ・・・それは置いといて、ちと長いですが当時調べた経緯を引用しておくと、

  1. 救急隊の始まりは火事や自然災害などに消防隊が出動した時に、そこで発生している傷病者を搬送するために生まれたらしい。
  2. 救急隊は相当早期から災害による事故以外での急病人の搬送も行なっていたらしい。
  3. 1960年代になり交通事故が激増し「交通戦争」として社会問題化し、救急隊の必要性、需要は非常に高まったようです。
  4. 当時の法律では救急隊の定義に明確なものは無く、現状を追認し、整備拡張を行うために法令の整備が行われたのが1963年です。具体的には、


    • 消防法第2条9項


        救急業務とは、災害により生じた事故若しくは屋外若しくは公衆の出入する場所において生じた事故(以下この項において「災害による事故等」という。)又は政令で定める場合における災害による事故等に準ずる事故その他の事由で政令で定めるものによる傷病者のうち、医療機関その他の場所へ緊急に搬送する必要があるものを、救急隊によつて、医療機関厚生労働省令で定める医療機関をいう。)その他の場所に搬送すること(傷病者が医師の管理下に置かれるまでの間において、緊急やむを得ないものとして、応急の手当を行うことを含む。)をいう。


    • 消防施行令第42条


        法第二条第九項の災害による事故等に準ずる事故その他の事由で政令で定めるものは、屋内において生じた事故又は生命に危険を及ぼし、若しくは著しく悪化するおそれがあると認められる症状を示す疾病とし、同項の政令で定める場合は、当該事故その他の事由による傷病者を医療機関その他の場所に迅速に搬送するための適当な手段がない場合とする。


  5. 1964年には救急隊が搬送する病院の整備が必要として厚生省令第八号が発せられています、


    • 救急病院等を定める省令


        消防法 (昭和二十三年法律第百八十六号)第二条第九項 の規定に基づき、救急病院等を定める省令を次のように定める。

        医療機関

        第一条  消防法 (昭和二十三年法律第百八十六号)第二条第九項 に規定する救急隊により搬送される傷病者に関する医療を担当する医療機関は、次の基準に該当する病院又は診療所であつて、その開設者から都道府県知事に対して救急業務に関し協力する旨の申出のあつたもののうち、都道府県知事が、医療法 (昭和二十三年法律第二百五号)第三十条の三第一項 に規定する医療計画の内容(以下「医療計画の内容」という。)、当該病院又は診療所の所在する地域における救急業務の対象となる傷病者の発生状況等を勘案して必要と認定したもの(以下「救急病院」又は「救急診療所」という。)とする。ただし、疾病又は負傷の程度が軽易であると診断された傷病者及び直ちに応急的な診療を受ける必要があると認められた傷病者に関する医療を担当する医療機関は、病院又は診療所とする。

        1. 救急医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること。
        2. エツクス線装置、心電計、輸血及び輸液のための設備その他救急医療を行うために必要な施設及び設備を有すること。
        3. 救急隊による傷病者の搬送に容易な場所に所在し、かつ、傷病者の搬入に適した構造設備を有すること。
        4. 救急医療を要する傷病者のための専用病床又は当該傷病者のために優先的に使用される病床を有すること。


        2  前項の認定は、当該認定の日から起算して三年を経過した日に、その効力を失う。

        (告示)

        第二条  都道府県知事は、前条第一項の申出のあつた病院又は診療所であつて、同項各号に該当し、かつ、医療計画の内容、当該病院又は診療所の所在する地域における救急業務の対象となる傷病者の発生状況等を勘案して必要と認定したものについて、救急病院又は救急診療所である旨、その名称及び所在地並びに当該認定が効力を有する期限を告示するものとする。



        2  都道府県知事は、救急病院又は救急診療所が前条第一項各号に該当しなくなつたとき又は同項の申出が撤回されたときは、その旨並びにその名称及び所在地を告示するものとする。

1963年に消防法の改正がまず行われ、1964年に厚生省令が出ています。これが出た背景は引用にも書いていますが、交通戦争とも評された交通事故の激増と、おそらく1964年開催の東京五輪に対してのものであろうと推測しています。救急病院の医師の資格条件ですがここも正確には、

救急医療に従事する医師の条件
1964 救急医療に関し必要な知識及び経験を修得するのに適した医療機関において、免許取得後相当期間外科診療に従事した経歴を有する者またはこれと同程度以上の知識及び経験を有する者
1967 救急医療について相当の知識及び経験を有する医師が常時診療に従事していること
1987 救急医療について相当の知識及び経験を有する医師とは、救急蘇生法、呼吸循環管理、意識障害の鑑別、緊急手術要否の判断、緊急検査データの評価、救急医薬品の使用等についての相当の知識及び経験を有する医師をいうものであること


この救急告示病院の条件が質よりも数合わせに終始した経緯はリンク先にありますので、お暇な方は御参照下さい。


医師の扱い

話を単純化しますが、1960年代から基幹病院から公式の救急病院化していっているのですが、担当する医師の条件は文面上厳しくともなし崩しで「医師であれば誰でも良い」状態になって現在に至っています。それはそれで多々の問題点を含むのですが、国策として広げられた医師の確保は病院に丸投げ状態となっています。たぶんですが、当時も病院には医療法上の当直医がいたはずですが、丸投げされた病院側はその当直医を救急担当にしたと考えます。おそらくですが、

  1. 条件に適合する医師を連日確保するのは不可能
  2. 救急担当の医師を当直医とは別に確保する財源的処置を厚生省は渋った
カネもヒトもいない状態で救急病院の短期間での整備が最優先課題となれば妥協が出てきたと言うところでしょうか。妥協の内容は、
  1. 救急担当の医師は医師免許さえあれば誰でも良いとなった
  2. 病院当直医を救急担当に転用するのも認められた
他にも病床確保についても「必ず確保」が空床があれば受け入れOKになったです。でもって病院当直医の転用ですが、当時の当直代は上記しているように極めて安価であり病院に新たな負担が発生するのを抑制したと言うところでしょうか。つまりと言うほどではありませんが、病院が救急告示病院になると言っても、看板だけ付け替えれば可能になったと解釈しても良いと存じます。

実はと言うほどではありませんが、開業前に勤務していた病院が救急告示病院を取得するてな話が出て、どんだけハードルが高いんだろうと調べたら、殆んど何もしなくても取得できる事が判明した経験を持っています。認可対策をなんにもしなくとも、手を挙げれば認可が下りたと言う事です。これも50年前は設備条件が大変だった面はあるともされていますが、ほぼ同じ条件のままですから今ならそんなものと言う事です。


1960年代後半の労働法規がどうなっていたかは私の手では調べようがありませんが、病院が労働法規に無頓着なのは昔の方が酷かったのは間違いないところです。これに輪をかけて無頓着だったのは医師で、これもたぶん、

    そんなもんか!
こんな感じで当直勤務での実質的な夜間勤務に従事したと考えられます。これを今となっては責めるのは容易ですが、時代背景的なものも十二分にあったと思っています。当時は高度成長期で、モーレツ社員なる言葉がもてはやされた時代でもあります。長時間勤務は常識であり、むしろいかに長時間働いていたかを競っていた時代とすれば言いすぎでしょうか。過労死とかサービス残業なんて言葉の片鱗すらない時代です。そこまで働く事が疑いも無い美徳の時代であったぐらいです。


1960年代にあったであろうモーレツ社員の気風は医師世界ではそのまま長く保持されています。他業種では温度差はあっても時代と共にかなり変わっていると見ていますが、医師世界では殆んど変化無く保持され続けたです。同じ医療職でも看護職は素早く対応していますが、医師はむしろそういう気風を誇りにさえしていたぐらいです。私の研修医時代でも労働法規にそれなりに詳しい医師はいましたが、

    医師は労基法の枠外の人種である
こう朗らかに仰っておられました。私だって勤務医時代はそうやって働いていましたし、そうするのが当然以外の疑問さえなかったと白状しておきます。その昔、関西医大の研修医が過労死した事件が話題になりましたが、私も含めて周囲の医師の反応は「なんとひ弱な・・・」が圧倒的な意見でした。

こうやって保持された医師の気風は医療政策の基本にされます。医療費とか、医師数の考え方の基本がそうなったと言えば良いのでしょうか。長時間労働にビクともしない医師が標準でしたから、そんなに医師を増やす必要がないと言う考えが生まれ医師数抑制政策が取られたと見て良いと思っています。医療崩壊の話題の初期の頃に、小児科医が3人集まれば24時間救急が可能になると鳴り物入りで記事になったりもありました。


Last straw

医療は時代と共に進歩しています。進歩は現在のところ進歩するほど仕事がラクになるというより、進歩するほど仕事が忙しくなる傾向があると感じています。これを医療の進歩と言うかどうかの評価は微妙ですが、私が医師になった頃に較べても書類仕事は飛躍的に増えています。それらを補助する進歩もありますが、軽減効果以上に新たな仕事が増えてくる感じです。

国民皆保険制度が導入されのは1961年です。当然それ以前は自由診療だったのですが、あくまでも「たぶん」ですが、1960年代の後半に救急告示病院制度が導入された当時は自由診療時代の空気が残っていたんじゃないかと思っています。つまり余ほどの事が無い限り医療機関など受診せず、時間外診療も限られていたんじゃないかです。その後に老人医療の無料化政策などが行われ、保険医療がどんなものかが周知されるにつれ時間外受診も増えていったと考えています。

たとえば救急車の出動回数も平成23年版「救急・救助の概要」からですが、

グラフからの粗い見方になりますが、現在では550万人ぐらいですが、1960年代は100万人以下、1970年代でも150万人程度です。救急告示病院が出来た1964年頃なんて20万人以下だったと見て良さそうです。これは救急車による搬送人員ですが、おそらく救急車以外の時間外受診数もある程度比例していると推測します。

もう一つ傍証を挙げておくと亡父は小児科開業医でした。殆んど時間外受診を断らず、連日4〜5人程度は診ていたと記憶しています。多い時には10人を越え、20人ぐらいの日もあったはずです。それはそれで大変でしたが、当時のその地域で時間外受診をそれだけ診ていたのは実質亡父だけでした。そのためにえらい遠方からも時間外受診がありました。この激務で寿命を削ったのですが、見様によってはその程度で需要を満たしていたとも言えます。どうも救急告示病院制度が出来た頃は現在の1/10程度の規模の救急需要を想定した可能性があります。ですから当直医の片手間でもOKの側面です。


現在は制度が出来た頃の20倍程度の救急需要が発生しています。増え続ける需要に対し、厚生省(厚労省)が行ってきた対策は、文面上の制度強化に終始していたと考えて良いかと存じます。肝腎の実質の戦力強化は放置されていたぐらいです。医師の負担の増え方は徐々にであったので40年以上に渡って「モーレツ医師」の精神でカバーしていたと私は考えます。この精神力でのカバーが限界に達していたのが、ちょうど現研修医制度導入頃だったと結果的には言えそうです。そりゃ20倍にもなれば限界は来るでしょう。

よく現研修医制度が医療崩壊の引き金になったとされます。時期は確かにそうですが本質的にはそれまでの藁の積み重ねが延々としてあり、現研修医制度導入は単なる

    Last straw
これに過ぎなかったと見る方が正しいと言う事です。まあ、藁よりもう少し重かったかもしれませんが、現研修医制度導入が無くとも時間の問題であったであろうぐらいです。お蔭で長年封じ込められていたパンドラの箱がついに開かれてしまったぐらいです。医師は混乱の中でパンドラの箱の底にある希望を手にしましたが、一方で医療崩壊現象は不可逆性のものになり、たった10年足らずでモーレツ精神は大きく変質しています。


感想

医療行政が常に後手に回るのは周知の事ですが、パンドラの箱が開かれる以前の基本の枠組みは医療行政的にも不可逆性の事態を起しています。

  1. モーレツ医師が前提の必要数の試算が崩壊し、実は全然足らない現状をどうしようもなくなっている
  2. 24時間365日コンビニ救急政策もモーレツ医師が減少すれば行き詰る
  3. モーレツ医師でなくなった医師が労基法を訴える対策にもカネもヒトも出せない
そりゃ医師を3人も集めれば24時間体制が可能と試算していたものが、ごく普通の感覚で「そんなものは狂気の沙汰だ!」と言われれば、それを「根性が足りん」で押し切れなくなるからです。時間外手当をちゃんと払えに対しても「医師たるものがなんとミミッチイ」と頑張っても、最高裁まで行って玉砕するわけです。もう少し言えば、まとも(労基法で規定されている)な金額を払えば病院経営が破綻するのが標準としての制度設計です。

これも他の業界が50年かけて徐々に対応していたものを、たった10年足らずで変化が起こればお手上げになるのも当然と言うところです。これまでの焼き直しの話に過ぎませんが、たまにはまとめておいても良いぐらいのところでした。