日曜閑話51

テーマは「三木城」です。私の地元であり天正三木合戦で秀吉相手に記録的な籠城戦をやったお城です。最近のネット情報の充実振りは感心するぐらいなので、周辺情報から掘りこしてみます。三木城に関しては


落城3回

まずはwikipediaです。

そもそも君ヶ峰城が三木城の初見で、後に現在の地に移築されたのではないか、という説もある。三木戦史「明応元年(1492年)九月三木ノ釜山城ヲ築キテ之二拠リ」とあるので、この地に三木城が築かれたのは、この明応元年(1492年)前後ではないかと推定される。

君ヶ峰にも城があったんだ・・・。後年秀吉が本陣置いた平井山は君ヶ峰に重複するところが多いので、ひょっとしてそういう地の利のところだったのかもしれません。そいでもって築城したのは、

この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。

もうどこに行ったのか判らなくなってしまいましたが、三木合戦の古文書(原本ではなく現代製本版)があり、則治は別所氏中興の祖となっています。赤松一族であるのはまちがいありませんが、wikipediaにあるように、

文明15年(1483年)冬、播磨国守護赤松政則が山名氏に大敗し堺に逃亡した。

この時に別所氏も滅亡の危機に瀕し、則治の活躍により赤松本家再興に功績を上げ東播八郡(この時は東播3郡であったの説もあり)の領主となったとしています。ここは三木落城の話がメインなのですが、まず則治の子就治の時代に落城しています。

享禄3年(1530年)夏、赤松義村柳本賢治に援軍を要請、依藤城を攻城していたが、柳本賢治が就寝中に暗殺されてしまった。それを皮切りに細川高国浦上村宗連合軍が、三木城をはじめ御着城 、有田城に攻撃を開始、落城させた。

その後は色々あったみたいですが、就治は三木に復活しさらなる勢力拡大に成功したとなっています。

細川晴元と対立していた三好長慶軍に天文23年(1554年)10月、三木城の支城7つを攻撃され、落城させされてしまった。ついで同年11月に、援軍として三好義賢を送りこみ枝吉城を攻囲、翌天文24年(1555年)に明石氏は三好長慶軍と和議を結び、別所就治も支えきれず和議を結んだ。

これは落城と言うより和睦ではありますが、劣勢の状況下の和睦ですから準落城ぐらいは言えそうです。でもって3回目が秀吉です。こういう経緯で三木を本拠地にし続けているので、最初の則治の時代より拡張と強化が続けられたんじゃないかと考えられます。とくに就治の時代は一度は完全に落城していますから、その弱点を補う大改造が施されたと考えたいところです。


城の縄張り

これが殆んど情報が残されていません。とくに別所氏時代の情報はほぼ皆無です。三木城は秀吉による1579年の攻略後も使われ、wikipediaより、

その後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。その後天正13年(1585年)8月中川秀政が入城するが朝鮮の役で没すると、弟の中川秀成が跡を継ぎ、天正14年(1586年)には入封する。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入るが、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)一国一城令によって破却された。

簡単な理解として1579年の最後の落城から1615年までは健在であったと言う事です。36年ほどの間ですが、三木落城後、秀吉は姫路に移り、三木は攻防の矢面に立つことなく、どちらかと言うと後方支援の拠点となっています。三木城の縄張り想像図は上の丸公園にも残されていますが、これは秀吉による落城後のものの可能性が高いはずです。

ただ秀吉後であっても城を拡張する必要がないのと同時に縮小する必要も出ていません。地形を利用した城ですから、別所時代とあんまり変わっていないだろうの推測は可能と考えます。幾種類かあるのですが、一つ提示しておきます。

何種類とは言いましたが、ほぼこの図と同じでたぶん同じ図から引用されたのではないかと考えています。でもって現在、曲がりなりにも城跡として残されているのは本丸と書いてある周辺のみです。ここも行った人ならわかるのですが、単なる広場でかつての城を偲ぶには相当の想像力が必要です。またそれ以外の二の丸なり、新城なり、曲輪となるとビッシリと宅地開発が行われており、歩いただけでは全くピンと来ない状態になっています。

地名はどうも現在の地名を使っていると考えられますが、地図にある雲竜寺、月輪寺八幡宮、正入寺は今でも存在しますし、とくに雲竜寺は合戦当時から場所は変わっていないはずです。

まず城域ですが、西側は美嚢川を天然の外堀にしています。現在も基本的に変わりません。北側は二位谷川を外堀にしているのが確認できます。二位谷川も現在はコンクリートで固められた通水路ですが、それでもかなりの深さはあり、さらに城があった当時は・・・てなところです。

西側の美嚢川沿いのさらに角(西南端)のところですが、川の様なものが描かれています。しかし現在はありません。これも川であったのか、それとも美嚢川から引き込んだ堀であったのかは判断はつきません。ただ地形的に川から水を引き込むのは相当大変で、どうなっていたのだろうぐらいのところです。このあたりがどこになるかですが、難しいのですが現在の農協会館、立石堂ビルあたりぐらいじゃないかと見ます。

堀と言えば本丸、新城などの主要城郭郡の北側にも内堀があります。これがどの辺になるのだろうなんですが、おおよそ現在の神戸電鉄線の南側に該当しそうです。そう言えば神戸電鉄線の南側はどちらかと言えば低湿地でですから、あそこが内堀だったのかもしれません。

東側は正入寺は小山となっています。現在も兵庫道と記された道路は存在するのですが、その西側は崖になっています。道があるぐらいで、城のある側と反対側は谷状の地形になってはいるのですが、登るに連れて城側の崖は低くなっています。二位谷川からも外れていきますから、この辺の防御はどうだったんだろうと思わないでもありません。


この推測図を頭に置いてGoogleの航空写真を見てみます。

推測図と合わせて可能な限り特定してみました。宅地開発が進んでいるために現地を歩いても実感し難いのですが、航空写真で見るとかつての城郭の外縁がボンヤリであっても推測できます。現在でも林と言うか森となっているところは急斜面地で、当時の要害であると見ても良いと考えます。現在だって要害でよじ登るのも大変なところです。

本丸、二の丸、新城あたりの主要城郭は現在でもおおよそたどれます。大手は現在でも地名で大手町になっており、二位谷川にかかっている大手橋付近が大手門であったとして良さそうです。ここから細い道が現在でも推測図に新城の東側の曲輪と正入寺を含む曲輪の間にあります。これも細い上に急な坂道ですが、かつての大手筋であったのかもしれません。

新城の南側の曲輪は現在は市役所の駐車場になっていますが、かつては市民グラウンドがあり、さらにその前は三木高の運動場であったところです。新城の西側は推測図では細い曲輪が三段ありますが、ここは上り坂にテラス状に家が建っているところで、その気で見ればかつての曲輪跡を推測する事は可能です。

二の丸は旧の三木高、その後は小野工業の三木分校、現在は市立図書館と堀光美術館がありますが、本丸との間に東側に下る道があり、これはかつての堀切であったと見られています。また二の丸とさらに雲竜寺も含む曲輪の間にも道があり、これも堀切があったのではないかと考えます。雲竜寺の東側も急斜面となっており、曲輪の南端は斜面の終わりぐらいに設けられていたのかもしれません。

ただそこから先は特定は困難です。特定が困難と言えば南側がそうで、宮の上の要塞は現在の水源地あたりだろうとは推測できますが、鷹の尾あたりは、市役所や文化会館ができたため、航空写真でも難しくなっています。おおよそで言うと鷹の尾要塞は雲竜寺の西側の山から文化会館辺りになるはずです。今は切り開いてしまって平地ですが、あそこらはかつては山だったからです。

ついでですから、本丸と新城の間にある道は今でもあります。ただ新城と東側の曲輪の間にある道は無くなっています。つうか私の記憶に残っている限りであんなところに道はなかったはずです。ついでといえば城郭の東南端あたりが搦手とされていますが、これの特定は本当に困難です。市役所の南側には昔からの墓地があるのですが、あえて言えばその端っこぐらいかとも思うのですが、私でもなんとも言えないところです。



城の弱点

まず水の手は問題なかったと考えられます。宮の上の要塞に現在の水源地が作られるぐらいですから、井戸を掘れば水の入手は容易です。実際に旧城内に実家もありましたが、井戸水を使っていました。

本丸などの主要城郭がある一帯は北側と西側については堅固です。切り立った崖で到底よじ登れるものではありません。一番良く分かるのは本丸の西側で、地名も滑原(「なめら」と現在は読みます)なのですが、崩れやすそうな本当に切り立った崖です。現在はコンクリートで固められてしまっていますが、あの絶壁はまず登れないでしょう。

ですから当初はこの絶壁の台地状のところに城を設けたと考えます。ただなんですが、地形として独立峰ではありません。どちらかと言うと山裾に広がる部分の城です。推測図の方を注意してみて欲しいのですが、城の東側に兵庫道と言うのがあります。これは現在では白川峠を越えて神戸に向かう街道に繋がっているのですが、当時もそうであったと考えるのが妥当です。

この兵庫道も子供の頃は未舗装の細い道でしたが、それでも道は道です。つまりは城の搦手の山々に容易に進出が可能であると言う事です。実際に秀吉は進出し、付城を幾つも築き包囲網を作っています。つまりは北側の山手に弱点を抱えていたです。秀吉の攻略も兵糧攻めの挙句ではありますが、まず宮の上の要塞を落とし、さらに鷹の尾に攻め込んだとされます。

大手の方も伝承では明智光秀が突破したとはなっていますが、北側から攻め込んでも主要城郭は地形を活かした要害であり、それ以上の進出は難しかったと考えます。


あくまでも想像ですが、最初の落城も南の山側からの攻撃に脆かったんじゃないかと推測します。そこで弱点補強のために山側に、山側にと城域を拡大したんじゃなかろうかです。地名の由来を良く知らないのですが、本丸・二の丸のあたりを今は上の丸町と言います。本丸跡が上の丸公園と言うのも上述しましたが、則治時代も実はそう呼んでいたんじゃないかと考えています。

則治時代の三木城は崖の上にある「上の丸」とその麓の曲輪の構造だったんじゃないかです。上の丸も推測図の本丸・二の丸から雲竜寺ぐらいの規模(もっと小さくて本丸だけ)であったです。もっと言えば元は崖の上の一つの曲輪であり、これを麓の曲輪に対し「上の丸」と呼んでいたです。敵の攻撃の想定は平地である西側、北側を想定し、これを美嚢川、二位谷川を第1防衛線とし、ここを突破されても崖の上の上の丸を最終防衛線にするです。

南側の山に回られる懸念はあったかもしれませんが、築城時にはそこまで大規模の敵が攻め寄せてくると想定し難く、城兵自体の数も限りがあるのでこれで十分との発想です。それが敵対する勢力が時代とともに大きくなり、弱点である南側の山からの攻撃を受け、さらに落城の憂き目まで見たので拡張補強に努めたです。

この時期がいつかですが、天文23年(1554年)に三好長慶が攻めて寄せた時には出来上がっていた可能性はあります。この時には劣勢下で和睦していますが、落城はしていません。享禄3年(1530年)の落城から24年後ではありますが、前回の落城の原因(弱点)を知って三好軍は攻めた可能性は十分にあり、同じ攻撃法が通用しなかった見ることも出来るからです。


南の山側への補強はかなり有効で、城兵が健在であれば突破は非常に難しい状態であったです。秀吉は戦術の選択として力攻めを避けたのは史実ですが、城の南側の山手に進出しただけでは補給ルートの遮断には有効でも、城の防御網を一挙に弱体化させるのには至らなかったです。

南側の山は興味のある方は航空写真で確認しえもらえれば良いのですが、城域にした地形と谷を隔てて現在は三木山自然公園となっているところが地形的に隔てられています。さらに南側には台地状の地形が広がっているのですが、そこを占拠され三木山に進出されても、城に攻め込むにはもう一つ谷を隔てていると言えば良いでしょうか。

ただここもまた微妙で、宮の上の要害のあった山とお隣の三木山の間には谷(現在の箕谷墓地の谷)はありますが、これは東に向かうに従い浅くなります。宮の上の要塞はむしろ三木山の裾野を守る様に存在し、鷹の尾の要塞も同様と見て良さそうな気がします。三木山に敵方が進出されれば見下ろされますが、それはやむなしの感じでしょうか。

城の拡大は鷹の尾から宮の上までは行われたと見ますが、さらに南側を要塞化するには城域が広すぎ、天険を頼みにした感じです。もっとも天険と言ってもたいした山ではないので、その気になれば登る事は可能であり、さらには秀吉が行ったように付城を作ることも可能であったと言う事です。それでも城兵が健在なうちは突破されなかったとも言えますから、防御としては十分であったと見ても良さそうです。

これ以上は開発が進みすぎて往時を偲ぶのが難しくなっています。


それと三木は「干殺し」なのですが、兵糧の備蓄もかなりあったと推測しています。補給ルートの攻防戦は激しく行われていますが、攻城戦の初期はともかく中期以降はルートはどんどん先細っています。落城までに22ヶ月かかっていますが、最初の備蓄だけで1年分ぐらいはあったとしてもおかしくありません。残り10ヶ月を支えたのが城攻め後の補給量みたいな感じです。

織田軍団はともかく、兵農分離が不十分な他の戦国大名の感覚として、敵地で1年も戦うなんて計算外の感覚があったようにも思っています。そのうち自領の死活産業である農業への影響を考えざるを得なくなり、落ちなければ撤収するです。秀吉がここまで腰を据えて食糧が干上がるのを執念深く待つと言うのは予想外、計算外であっても不思議ないでしょう。


秀吉の戦略・戦術のモデルは

秀吉は三木の干殺し戦術の成功をその後に活かし、鳥取城の渇殺し、備中高松城の水攻め、さらには集大成とも言える小田原攻めと城攻めの名手として歴史に名を残しています。ではこの戦術が秀吉オリジナルかと言われれば、やはりモデルはあったと思います。信長による小谷攻めです。姉川の合戦で勝利を収めた信長でしたが、浅井の本城である小谷城を力攻めにせず長期の包囲戦を行なっています。

この時に小谷城の包囲持久戦の指揮官が秀吉です。信長は多方面に戦線を抱えていたのもあり、小谷城の押さえとして横山城に秀吉を置き、小谷城の勢力が衰退するのをかなり気長に待っています。もちろん小谷城を包囲している間に北近江の浅井方の拠点を次々に落とし、小谷城の勢力衰退を促しながらです。

ただ小谷城の時には兵糧攻めには至ってなかったかと見ています。秀吉が率いる兵力では完全包囲に無理があり、むしろ籠城軍の脱落を促すような作戦が主体であった様に私は感じています。ただ城方に劣る勢力での包囲戦とか、城攻めにあたって付城を活用する戦術、さらには本城の支援拠点を落としていく戦術を秀吉は実地の司令官として遂行しています。

三木城攻略もこの小谷城モデルを応用したと考えても良さそうに思います。秀吉も当初三木城を直接攻めようとしましたが、城兵の士気の高さと、城の堅固さ、また率いる兵力も城方とチョボチョボである点から、早々に取り止め包囲戦に切り替えています。ここからが小谷方式で、本城を包囲しながら支城を次々に落としていきます。

戦略としては本城を城方に劣る兵力で包囲しながら、一方で支城に対しては優勢な兵力で力攻めです。支城を落とすのは別所方の勢力の削減の意味もありますが、本城包囲戦中に支城が連合して包囲戦の後方から攻撃してくるのを防ぐ意味もあると見ます。支城の活動が活発化すれば、本城包囲軍への攻撃だけではなく、秀吉の補給ルートの遮断や、さらには毛利の援軍を呼び込む事も懸念されるからです。

もう少し言えば兵糧の現地調達を可能にする意味と、城方への兵糧補給の遮断の効果もあります。これも三木の本城をトットと落とせれば、支城などは勝手に自滅するのですが、本城が容易に落とせないために必要な戦略です。


城攻めで兵糧攻め自体はポピュラーな戦術だと思うのですが、三木合戦初期は秀吉も補給ルートの完全遮断はできていません。これはもともと兵力不足だった上に、支城攻略に兵力を割かざるを得なかったからと見ます。これが支城を落とす事により、後方の安全確保と本城の包囲戦に使える兵力が増えたことにより、徐々に完成していったとするのが妥当でしょう。

付城作戦は大々的に採用されています。本城にも現在確認されているだけでも30箇所以上あるとなっていますが、支城である淡河城を攻めるだけでも3箇所ぐらいは築いていたようです。とくに三木城の場合は付城間もさらにつなぐような完全包囲網を設けたと見て良さそうです。

では秀吉が兵糧攻めだけを狙っていたかとなると、私には何とも言えません。むしろ兵糧攻めを徹底する事により、城方からの決戦を誘っていたのかもしれません。ただ秀吉及びそのブレインの土木技術は優れていたため、出来上がってしまうと、城方が決戦を考えても今度は付城群への城攻めの様相になり、決戦誘発にならなかった面もありそうに思っています。この辺は支城攻略戦の間の守備のために非常に堅固になっていたの見方も出来ます。


ここまでは秀吉の戦術・戦略ですが、注目しておきたいのは、そういう秀吉の長期戦の戦略・戦術を信長が認めていたことです。この点は信長の名将たる所以で、短期の攻略が難しい時に時間をかける事は殆んど問題視していないと見ています。これは信長自身がそうで、勝てる兵力差と時期を得れば決戦を挑みますが、まだ無理と思えば平然と卑屈外交まで行い時間をかけます。

そういう信長の戦略の好みと言うか呼吸も、秀吉は横山城での小谷城攻めで十分に学んでいたのだと考えます。準備不足で徒に兵力だけ消耗させるような戦略・戦術はかえって怒りを買うです。時間をかけても確実に勝てる戦略を遂行する方が遥かに評価が高いです。この信長と秀吉の戦略の呼吸が長期の攻城戦を可能にしたと考えています。


別所方の戦略

とりあえず2つあったと見ます。一つは秀吉軍は敵地にあり、長期の城攻めは難しいの見方です。とくに摂津で荒木村重が反旗を翻してからは、その期待は大きかったと見ます。三木城は当たり前ですが別所方の勢力の中心にあり、秀吉が三木城を包囲しても地元からの兵糧確保は困難になります。京都なりからの輸送ルートも敵地を通らざるを得ない状態になりますし、村重が毛利方に付けば摂津からのルートも途絶えます。

後方に不安のある秀吉軍は三木城を包囲しても、そのうちあきらめて退却するです。それと、これは頭でわかっていても自軍が基本的に兵農分離が不十分な軍勢でですから、そもそも長期の包囲戦なんて難しいと言うか無理と言う感覚も漠然とあったとも思っています。ひたすら守っていれば、悪い事は何もないです。

もう一つは言うまでもなく、毛利の援軍です。これは上記の条件にさらに加味されるもので、長期の包囲戦が難しい秀吉が、毛利の大軍が来ると聞けば、なおさら退却を早めるです。もし毛利が来援しても秀吉が粘るようなら、それこそ挟み撃ちで秀吉軍を壊滅できるです。


別所方の戦略は織田軍と言うか、秀吉以外ならある程度通用したかと思います。言い変えれば、毛利が播磨に進攻し、別所が織田方について籠城していればまずは成功した戦略としても良いかと思います。毛利軍なら長期に居座っての三木城攻略は難しいでしょうし、秀吉ほどの完全包囲網の構築も難しかったと考えます。また播磨の戦略的重要性を知っている信長は援軍を差し向ける可能性は大です。

別所方の戦略構想を悉く打ち破った秀吉の勝利だと言えます。


毛利の戦略

毛利は結局のと上月城ぐらいまでは出張りましたが、それ以上は兵を進めませんでした。これは岡山の宇喜田の動向が不安視されたのもあるでしょうが、富強とも呼ばれ大国とも呼ばれた毛利の限界かもしれません。毛利は巨大ではありましたが、内実は旧来の豪族連合軍です。織田のように信長が一騎で出陣しても、常備軍が命令一下で出撃するような軍制ではありません。

まず配下の豪族に出陣を要請し、その協力を得ないと身動きが取れないです。そういう点で播磨出陣は毛利軍にとって魅力の少ない戦場だったような気がします。播磨に出陣して勝ったところで、毛利勢力と播磨の間には宇喜田がおり、恩賞として播磨の地をもらったところで飛び地になります。また播磨の毛利方は多いために、そもそも取れる領地が限られています。

わざわざ播磨くんだりまで出陣するのは抵抗が多いと言う事です。もちろん毛利とて織田の西進は熟知し、播磨の戦略上の重要性を知ってはいましたが、軍勢を動員するに当たって困難が多かったです。毛利首脳部の本音はともかく、結果的に「来る来る詐欺」で播磨の豪族や、摂津の村重を騙した結果になったと見ることが出来ます。

この辺は毛利も英雄元就の後継者が孫の輝元であり、積極攻勢を控える遺訓があったので外交戦略は活発であっても、実際の軍事的行動は鈍る側面もあったと思っています。もし元就が健在であればどうであったかの歴史のイフのみが残ります。


ただ歴史的な結果論で言えば、三木の22ヶ月が毛利にもたらした成果は巨大です。戦国史はある意味本能寺に収束するところがあります。三木の抵抗が半分程度で終っていれば、本能寺が早まった可能性もある一方で、備中高松城が落城していた可能性もまたあるです。備中高松城が信長健在で落城していれば、秀吉軍は怒涛のように毛利の中枢に攻め込んだと言う事です。

備中高松城には包囲する秀吉軍と、これの救援の毛利主力軍が対峙していましたが、兵力的にも織田軍優位で、地形的にも織田軍優位です。決戦を行なえば毛利に分がなかっただろうとも言われています。ここで毛利が決戦を回避して退却すれば、今度はあれだけ頑張った清水宗治を見殺しにしたの評価と、雪崩れ込む織田軍の前に毛利軍の再結集は難しかったんじゃないかとも言われています。

つまり備中高松では戦うも不利、退却してももっと不利の状況に追い込まれていたと言う事です。歴史は本能寺から秀吉の中国大返しがおきますが、三木の落城が早まっていれば、大返しの代わりに中国乱入があったかもしれないです。

滅亡の危機にあった毛利氏ですが、本能寺により息を吹き返します。これも結果論ですが、秀吉との和睦を義理堅く守った事により、秀吉政権下でも大大名の地位を守る事に成功します。秀吉に恩を売った形になり、秀吉も売られた恩をしっかり買い取り、中国の毛利を自分の味方としてしっかり取り込んだと言う事です。


蛇足編・その後の毛利の戦略

毛利に取っての次の存続の分かれ目が関が原で訪れます。当主は相変わらず輝元ですが、実に中途半端な対応を取る事になります。西軍に全面加担し、大坂城西の丸に入り、秀頼の後見役の地位にまで付きながら、土壇場で腰が砕けます。これも歴史のイフですが、関が原の勝敗を決したのは小早川秀秋の裏切りです。

ただその前に関が原の毛利軍も動いていません。これは吉川広家の働きによるものですが、それこそ輝元自ら出陣し攻撃を加えていたら、小早川秀秋とて裏切りを考える余地なく、東軍に攻撃をかけていたとも考えられ、関が原の勝敗は容易に逆転していたはずです。

また関が原敗北後も、その気と統率力があれば本国からさらなる援軍を要請し、大坂城に籠るという手もあったとは思っています。毛利が大坂城に籠って抵抗するとなれば、家康とて関が原から大坂に安易に進めなかったんじゃないでしょうか。もちろん大坂城に輝元が籠ったからと言って、家康に勝てたかどうかは別のお話になりますが、実に龍頭蛇尾の行動に終始しています。


それでも物は考えようで、輝元は織田軍西進に対しても中途半端、関が原でも中途半端な行動に終始しましたが、それでも徳川期に36万石の大名として生き残っています。

輝元の器として天下を治めるまでの器量はなかったとしてよいでしょう。織田軍西進に対し、播磨に出陣して秀吉と対決したところで勝ち目は薄かったと思います。下手するとコテンパンに叩かれて、秀吉時代に36万石になっていたかもしれません。秀吉の毛利攻めは本能寺と言うタイムリミットがありますから、滅ぼされはしなかったでしょうが、120万石での棲息は無理でしょう。

関が原で西軍総大将として家康に全面対決を挑んだところで、これも局所戦の勝利はあっても、最終的にはこれまた勝ち目が薄いです。ほいじゃ、開き直って東軍に最初から味方していたらどうかです。これもまた徳川期での生き残りはシンドイと思います。関が原後でさえ家康に警戒された毛利ですから、あの大きさでの存続は難しいです。36万石に縮小していたから存続できましたが、120万石では根こそぎ滅ぼされた可能性も残るです。


元就が作った毛利は巨大でしたが、天下統一が進む中で、巨大な毛利は存在自体が邪魔な存在となったとしても良いかと思います。毛利があの規模で生き残るのは地理的にも基本的に無理があり、やはり天下を目指さないと大毛利を維持できなかったと私は考えます。大毛利が無理なら中毛利か小毛利にならざるを得ないです。元就の遺言はwikipediaより、

天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ

たぶんですが元就が頭に描いた天下は、室町期のものだったような気がします。室町期は大大名が天下さえ狙わなければ存在できましたら、そういう存在に毛利を置こうとしたのだと考えます。この元就の構想は信長構想の前では大きいだけに絶対潰さなければ存在に化します。本能寺で天下は秀吉の物になり、秀吉は室町期に近い政権を築きました。味方がとにかく欲しい秀吉であったから毛利は120万石で生き残れたです。

しかし家康は信長に近い構想を持ちます。120万石なんて大国を中国の地に絶対に許したくないです。加賀の前田家も危なかったですが、前田家は機敏に対応したのと、場所が北陸の加賀であった事が生き残れた原因と見ています。島津も似たようなところがあります。そうでなく家康の天下政権の拠点に近い会津の上杉や、中国の毛利はあの規模での存在は許されないです。


家康も本音では会津の上杉も中国の毛利も消滅させたかったと思います。もちろん加賀の前田も、薩摩の島津も、仙台の伊達もです。時間と情勢が許せば滅ぼしていたでしょうが、関が原で勝った家康は既に57歳。また関が原で勝ったとは言え大坂城には秀頼が健在です。家康は手にした天下を信長式の完全平定路線にするのを断念し、小さくする事で反抗勢力の旗頭にならない事で満足せざるを得なかったと見ています。

秀頼を担がれて大坂城に反徳川勢力が結集するのを何より怖れたです。結果的に大坂の陣まで家康は健在ではありましたが、信長も秀吉も失敗した後継者への天下の相続に腐心したとしても良さそうです。教科書的には関が原で勝った家康の天下は磐石そうですが、家康の内心では何かあれば引っくり返る懸念を捨てきれなかったのかもしれません。


英雄元就でさえ予想できない難しい時代を輝元は生きた事にはなります。そういう中でも37万石を残せたのは業績と評価できるのかもしれません。ではでは今日はこの辺で休題にします。