日曜閑話43

今日のお題は「関が原」です。私は言うても関西人ですから、関が原の「もし」をどうしても考えたくなります。歴史の流れから言えば、家康が江戸幕府を開き泰平を実現した事を評価せざるを得ないのですが、どうしても家康より秀吉を贔屓しますし、秀吉亡き後も豊臣家を贔屓するのは感情的に致し方ありません。閑話ですから、それぐらいのお遊びはヨシとします。

関が原については家康と三成の様々な政治的な駆け引きがありますが、事が大きく動くのは家康による上杉討伐になります。家康が上杉討伐軍を率いて大坂を留守にした隙に三成が動き、西軍を形成したのは御存知の通りです。

史実は上杉討伐から引き返した家康の東軍と、上方から進出してきた西軍が関が原で激突し、1日で西軍は壊滅し、天下は家康の手にほぼ落ちる状況になったのは説明の必要もないと思います。実際の関が原も小早川秀秋の動向一つでどうなったかはよく言われますが、秀秋の裏切りは今日は置いておきます。


兼続と如水

関が原を考える上で2つの要素を考えるべきと思っています。会津の兼続と九州の如水です。この二人はどういう戦略で関が原を見ていたかです。兼続は定説として三成と親交が深く、東西呼応も二人の極秘戦略であったともよくされます。しかし兼続がそこまで単純な男とは思えません。兼続も関が原を十分に利用しようと考えていたはずです。

兼続は言うまでもなく上杉家のダントツの重臣であり、当主の景勝に揺るぎない忠誠を誓っていたと考えています。景勝の信頼も厚いが、兼続の忠誠もまた強固と言う関係です。そうなれば兼続が行う戦略は景勝のため、上杉家のためと、シンプルに上杉幕府の樹立です。関が原当時も天下の形勢は家康に傾いていましたが、三成の動きを利用して、これをひっくり返し上杉の天下をもたらそうです。

兼続が三成との友情だけで上杉家を犠牲にするとは到底考えられないからです。


如水は兼続よりもっと動き方が鮮明です。関が原に天下が動き始めると如水は俊敏に動きます。東西両軍への参陣のために手薄になった九州の諸国を魔術の様に勢力下に置いておきます。伝説としては、九州を切り従え、さらに中国から近畿に進出し、三成に勝つであろう家康と関が原の第2ラウンドをやるです。兼続も如水と同じような戦略構想を持っていたと私は考えます。

もう少し言えば、兼続のいる会津は九州の如水より家康の本拠地である関東さらには江戸に近いと言うのがあります。兼続が会津で反徳川の旗幟を鮮明にしている限り、家康は上杉への抑えのための軍勢を割かざるを得ず、また東北の親徳川の大名の関が原の決戦への動員ができなくなります。空き家にすれば上杉が襲い掛かるというわけです。

兼続の計算のしたたかさは、家康の上杉討伐軍は決して上杉と戦わないだろうまで計算していたかと思います。戦場は生き物で一度戦いが始まってしまうと、そこからサッサと足抜けして西に向かうなんて芸当が困難になるからです。家康は上杉に近づきはするが、三成が動くまでひたすら待つであろうの計算です。家康が西に向った後に、兼続は周辺諸国を切り取り、肥大化させて三成に勝った家康と第2ラウンドを戦うです。


兼続と如水との違いは、如水は家康が勝つ事を前提にしていたのに対し、兼続は三成が勝つ、もしくは関が原がスコアレス・ドローのような形になり、上杉が第2ラウンドで戦う家康軍はかなり弱体化している計算だったかもしれません。兼続とて、家康が関が原で西軍に圧勝し、返す刀で上杉再討伐状態での第2ラウンドは避けたかったはずです。史実でも降参しています。

この兼続と如水の戦略の共通点は、東西両軍の決戦が容易には決さないであるとしても良いと見ます。大軍同士の野外決戦は得てしてにらみ合い状態から小競り合いに終始し、そうそう大決戦に発展しないです。たとえれば小牧・長久手のような膠着状態になる観測です。また関が原クラスの大軍の対陣となるとネックになるのが兵站線です。

家康も稀代の戦略家であり、戦術家でもありますが、秀吉に比べると兵站線の確保については得意とは言えません。これは家康が苦手と言うよりも秀吉が異常に得意としたと言っても良いかもしれません。家康は入念に準備したはずの大坂冬の陣でも兵站に苦しんでいますが、秀吉の小田原攻めは10年ぐらい包囲しても平気の兵站線を構築していたとも言えます。

これは家康の戦歴が兵站にそんなに苦労しない自国ないし近隣との合戦とか、遠征に出ても(姉川とか)短期決戦が多かったのに対し、秀吉はとくに中国攻めで長期戦での兵站確保の経験が豊富だったためかもしれません。


そこまで兼続と如水が家康の戦略の弱点を読んでいたというより、磐石の兵站線は秀吉ぐらいしか構築できないのが当時の常識であり、また家康の上杉攻めから西に転じる作戦行動では長期戦の維持は到底不可能の見通しとしても良いかもしれません。それこそ数ヶ月も膠着状態が続けば、家康は対陣を続けられなくなるとの計算です。

そういう状況では勝っても、負けても決定的な状況にはならず、東軍が勝っても西軍は大坂で再起を図る余力は残り、西軍が勝っても江戸まで家康を追い詰められないとの見通しです。どちらにしても最低でも月単位、状況によっては1年以上ぐらいは関が原が続くと兼続も如水も考え、そういう状況が長引けば長引くほど、自らの位置が第2ラウンドに対して有利になるとの計算と言えば良いでしょうか。


三成

三成は典型的な才子肌の人物であったと言われます。それこそ目から鼻に通るような俊敏な頭の働きをもっており、秀吉の秘書官としては抜群の才能を発揮したと考えて良いと思います。しかし余りに才が回りすぎるために、周囲がバカに見えて仕方がない一面もあったと言われています。秀吉の秘書官としてならまだしも、三成個人として同じ対応をされれば反感を抱くものが多かったともされます。

才子で倣岸である一方で、非常な理想家の一面もあったと言われています。倣岸で強欲であれば見も蓋もないのですが、理想家で無私と言う側面があったのが三成の特徴と言えそうです。そりゃ倣岸だけで実際の関が原まで漕ぎ着けられるわけがありません。実際の関が原は裏切り、日和見だらけになりましたが、それでも秀秋の動向一つで勝敗が揺れ動くところまで戦っています。


ここで関が原での西軍の基本戦略はどうだったのだろうと言うところです。あまりにも人間模様が複雑なので簡単に書ける様な代物ではないのですが、畿内を制して美濃尾張に進出し、それこそ小牧・長久手の再現を狙っていたような気がしています。どうも上杉の動きに期待している面が大きかったとも推測され、あわよくば家康が上杉に釘付けになっている間に駿河まで勢力圏に置いてしまう目論見があったようにも見えます。

上々は家康を江戸に封じ込んで、北の上杉、西の三成による挟撃作戦。家康が東海道に進撃してきたら小牧・長久手の再現です。小牧・長久手が再現しても、家康の背後には上杉が健在であり、粘れば最終的に家康は江戸に戻らざるを得なくなると言うところです。


この戦略が十分に機能しなかったのは上杉の動きが三成の構想より不活発であった事が大きかったと思います。家康も三成の戦略は見えていたと思いますから、上杉との戦端は可能な限り回避しようとしますし、現実にも回避しています。家康が回避するのはまだ三成の計算のうちだったかもしれませんが、東軍反転後に上杉が関東に乱入の動きを見せなかったのは計算外になったと見ます。

上杉が南下しなかった理由は、上述した様に第2ラウンド戦略のためと考えています。家康反転後に上杉が南下すれば、その留守を最上や伊達が狙うのが北の構図です。上杉が安全に南下するには最上や伊達を叩いておかないと危険だと言う事です。兼続は三成の戦略に協力していましたが、最終的に優先するのは上杉の利害であり、本国を捨ててのバクチまでは行う気がなかったと言えば良いでしょうか。

兼続は三成に個人的な友情は持っていたかもしれませんが、ここまでの戦いになると三成とて利用する駒に過ぎません。反転した家康軍主力との対決は三成に負わせ、上杉が安全に南下できる体制作りに進んだと見るのが良いかと思います。上杉が決戦するにしても、三成との戦いに消耗してからの家康である事が望ましく、無傷の家康と戦うのは三成の仕事みたいな感じです。


家康も上杉の意図は読んでいたように思っています。家康軍主力が健在のうちは上杉は南下しないです。上杉が動くとしたら、家康が三成との決戦で膠着状態で動けなくなるか、三成軍を撃破出来ずに江戸に帰らざるを得ない状態になるかです。家康が三成に快勝できずに、西軍主力が健在の状態で江戸に戻ると言う事態に陥れば、それだけで家康に加担する諸大名は雪崩を打って減っていきます。

そう考えると、家康が関が原で勝つための唯一の道は、史実の通り、短期決戦であの関が原をやる以外になかったのかもしれません。家康の内情として、元が上杉討伐のために編成した東軍であるため、これを延々と長期戦に投入できる状態でなかったと考えます。手早く西に引き返して三成を粉砕する事でのみ天下取りの活路が開くです。

史実も細かい駆け引きは別にして、家康は可能な限り西軍を挑発して決戦に誘導し、これに完勝しています。


三成が見えてなかったのは東軍の内情だったかもしれません。逆に良く見えていたのが西軍の内情であったと言っても良いかもしれません。西軍も内情は東軍以上に不安定で、三成の観察として長期の対峙は到底無理の判断が基本にあったように思います。結束がそれなりにでもあるうちに、家康と決戦して粉砕しないと西軍が自壊するとの焦燥感と言えばよいでしょうか。

東西両軍とも自軍の内部事情により短期決戦が必要となり、運命の関が原に臨まざるを得なくなったと考えます。


大坂城の戦略価値は、

  1. 要塞として桁外れなものであり、容易に落とせるものではない
  2. 秀頼が存在する
要塞としての堅固さは後年の大坂の陣が証明しています。家康も含めて当時の大名は大坂城の広大さ、堅固さ、さらに蓄えられている富の莫大さを十分知っています。大坂城の特異さは、堅固さももちろんですが、その広大なスケールにもあったと考えています。さらにいつでも膨大な兵力を雇い入れる事が出来る富力と、十分な兵糧の備蓄があります。

城攻めはどんな武将にも厄介なものです。攻撃側は守備側より大きな兵力が必要であり、また攻撃に際しての被害も甚大です。小城なら力攻めも通用しますが、大きくなれば包囲戦をやらざるを得なくなります。ところが大坂城は包囲戦をやるだけで巨大な兵力の動員を必要とします。また包囲戦をやっても数ヶ月単位では、兵糧攻めの意味をなしません。

何度か今日は触れていますが、合戦には大きな兵力を動員する事が勝利の基本ですが、兵力が大きくなれば大きくなるほど兵站線の問題がアキレス腱になります。大坂城を包囲するとなれば10万以上は動員が必要になりますが、包囲側はどこかから10万の軍勢を食わせるだけの兵糧補給を行わなければならないと言うことです。

大軍を飢えさせる事なく長期で活動させるのは卓越した兵站戦略が求められるのですが、さしもの家康もこの方面は得意とは言えないところがあります。秀吉の小田原攻めは、後方の安全を十分に固めた上で、それこそ三成以下の優秀な事務官僚がフル回転して完璧な兵站線を構築しています。関が原の時の家康には望むべくもない状態です。後年の準備万端のはずの大坂冬の陣でも兵站戦略は成功したとは言えません。


秀頼の存在も関が原の時期は大きいものです。まだまだ秀吉の威光が残っており、家康の実力は認めても、秀頼とは直接対決は避けたいの心情は濃厚にあったとしてもよいと思います。とくに豊臣恩顧系の大名は家康加担にあたり、敵は秀頼ではなく三成であるという点で感情を整理していた面もあります。実情は「豊臣 vs 徳川」ですが、あくまでも「三成 vs 家康」ととらえての東軍加担です。


後年の大坂の陣ですらそうでしたが、関が原の時に大坂城に立て篭もられたら家康とて非常に厄介と言うか、途方に暮れる状態にならざるを得なかったと考えます。


三成反転の策

現実の関が原は上杉攻めから反転してきた家康に三成が正面から決戦を挑む経緯になっています。そうならざるを得ない内情も東西両軍にあったとは思っています。ここでなんですが、上杉の動きが計算ハズレと悟った時点で三成もまた反転してしまうと言うのはどうでしょうか。

決戦を目の前にして反転すると言うのは大きなリスクはあります。西軍の内情も極めて不安定ですから、「反転 = 敗走」状態になり、反転しただけで西軍はチリヂリになるリスクはあります。実際の関が原はそのリスクを重く見たとも考えられます。ただ反転先が関が原の場合は特殊で、あの大坂城になります。ただの逃げ場所ではないと言う事です。

もちろん三成が反転するにしても非常の決意は求められます。大坂城の絶大な権力者である淀殿を体よく軟禁してしまうのは絶対条件です。淀殿を軟禁して権力を封じこめ、秀頼をしっかり握り締めて明らかな旗頭に仕立て上げる事が三成には求められます。これに成功すれば、反転時に少々逃げ散った諸大名もまた大阪城に集まる事は十分期待できます。

三成がそれなりの兵力を保って大坂籠城に成功すれば、今度は困るのは家康になります。京都ぐらいまではやすやすと進出できますが、大坂城を攻めるかどうかの決断が求められる事になります。大坂城を攻めれば嫌でも長期戦を覚悟しないとならなくなります。家康にとってこの時点の秀頼相手の長期戦はもっともやりたくない戦略になるからです。


大坂城包囲戦をやってしまうと、家康の関が原での綱渡り戦略がすべて裏目に回りだします。もっとも避けたい長期戦を余儀なくされるので、上杉の存在がドンドン大きくなります。上杉牽制のために家康に協力している最上や伊達だって状況が変われば、どうなるかはわかりません。常陸の佐竹も動き出す懸念が強くなります。包囲線が長引くと本拠の関東、江戸の危険が強くなります。

さらに九州の如水の動きも嫌でも耳に入ってくるかと思います。九州の諸大名も関が原に大きな兵力を動員していますから、如水の活動が活発化すれば動揺は激しくなっていきます。大坂城に籠っている西軍大名も動揺するでしょうが、籠城側は逃げ難いのに対して、攻撃側は容易に陣を引き払えます。如水も勝者は家康よりも三成の方が第2ラウンドの相手として好ましいわけですから、そこら辺は十分に計算して動くはずです。

大坂の陣の時と違い、落ちない大坂城を包囲している間に家康はドンドン苦しくなっていくと考えられます。


そうなると老獪の域に達している家康の事ですから、京都と大坂のにらみ合い状態の時に和睦をなんとか成立させ、結集している西軍をどんな条件を呑んでも解散させようとする外交を展開するでしょう。しかし上杉と如水の動きの情報は大坂城にも入るでしょうから、そうはやすやすと家康の思惑通りの和睦になるかは不明です。とりあえず三成は徹底抗戦を主張するでしょうし。

西軍が和睦を拒否したら江戸に帰る選択しか残されない事になります。江戸に帰るとなれば東軍は解散せざるを得なくなります。西国の東軍加担大名を江戸まで連れ帰るのは無理でしょう。東海道の拠点に兵力を配置しながらの江戸帰還もありそうですが、家康が江戸まで帰ると大坂城の西軍が蠢動して東に再進出します。

そうなると東海諸国はあきらめて江戸に帰り、家康軍だけで上杉討伐を行わざるを得ない状況になります。ここでも上杉が南下してくれれば関東平野での短期決戦が期待できますが、上杉が本国に籠られると厄介至極な存在になります。


それでも・・・

三成率いる西軍が反転して大坂籠城に成功してしまうと家康は非常な苦境に陥るとは予想できます。では江戸幕府が成立していなかったかと言えば疑問です。戦略的に有利な状況を西軍が作り出しても、結局のところ家康の江戸城を包囲殲滅するところまで西軍は出来ないであろうです。

それともっと重要な事は、既に家康ぐらいしか天下の求心力となり、天下政権を作れる人物が残っていないのも問題です。西軍の形式上の旗頭大名である毛利輝元に毛利幕府を作れたとは思い難いですし、上杉景勝が上杉幕府まで夢見ていたかも不明です。兼続は大才と言われていますが、幕府を創設し天下を治めるほどの器量があったかどうかは不明です。

三成も秀頼を擁してある程度の権力を揮う事は出来たかもしれませんが、三成には石田幕府を作る気など毛頭なく、あくまでも豊臣政権護持です。幼少の秀頼に三成の組み合わせで天下を運営できるかと言えば無理がテンコモリです。如水もまた然りと思っています。

西軍にはせいぜい覇者になれる程度の人材しかおらず、さらに決定的な求心力になるほどの人材はいません。そうなると江戸に苦悩の再反転をやった家康は、そこから西軍の切り崩し、勢力挽回を行っていくとするのが妥当でしょう。これに対抗できるのは如水ぐらいでしょうが、如水が西軍のすべてを握れる状態になるとは思えません。


時間はかかっても再びの関が原から、結局の大坂の陣に歴史は進んでいく様に思います。思うのですが、少し変わる点は出てくると思います。家康の持ち時間のタイムアウトです。勢力挽回には猛烈なパワーを必要としますから、再びの関が原まで寿命が持つか、さらには結局の大坂の陣まではどうかです。

天下取りは未完のままで二代秀忠に託されそうな気がします。秀忠は家康の影に隠れがちですが、凡庸な人物ではなかったと見ます。江戸幕府の内治の基礎は秀忠が作り上げたと考えています。ただし才能としては守成の器で、家康のように千軍万馬を率いての武将の才はかなり劣ると考えています。劣ると言っても家康に匹敵するほどの武将の才はレベルが高すぎるので致し方ないところです。

とくに東西決戦の様な大スケールの采配となれば、そもそも指揮を取れるほどの人材など稀とも言えます。秀忠に託されたのが結局の大坂の陣ならなんとかこなせるかもしれませんが、再びの関が原となると荷が重過ぎるだろうと言う事です。

もし秀忠が再びの関が原から担当したとしても、家康のような派手な決戦を選択しなかった様な気がします。真綿で首を締め付けるように大坂方の勢力を削いでいき、巧妙に秀頼を祀り上げ、平和裏に江戸幕藩体制に取り込んでしまう政略を取ったと思います。陰湿と言えば陰湿ですが、野外決戦よりそういう政略の方が秀忠は得意としたと思います。

ただ時間はかかるので、江戸幕藩体制の真の成立は秀忠からさらに三代の家光からさらに四代家綱ぐらいまでかかった事は予想されます。


今日のもともとの構想は、関が原の大逆転の方法はないかとあれこれ知恵を絞ったのですが、どうにも夢のない話になってしまいました。西軍と言うか大坂方はどんなに頑張っても延命ぐらいにしかなりません。こんな姑息な延命をするぐらいなら、史実の通り関が原で西軍は華々しく砕け散り、大坂の陣で豊臣家ごと大炎上する方が戦国絵巻の最終章として良いんじゃないかと思うぐらいです。

と言うところで今日は休題にさせて頂きます。