足の回復がまだまだかかりそうなので、相も変らぬ歴史閑話です。今日のお題は「源平合戦の兵站線」です。前回は頼朝の奥州平定戦の28万騎が机上では可能であっても兵站線問題で無理だろうに議論が収束しました。そりゃそうだろうの結論なんですが、もう少し考えて見たいと思います。
朝日将軍木曽義仲洛中日記と言うページがかなり詳しく調べてくれてますので参考にします。義仲が上洛した年は西国は飢饉であったとされますが、その状況は
年月日 | ソース | 記述 |
治承5年2月8日 | 玉葉 | 京中の在家を点検調査し記録させた |
治承5年2月20日 | 玉葉 | 天下飢饉により富を割き貧者に与えるという |
治承5年閏2月1日 | 玉葉 | 軍の兵粮米が尽きた |
治承5年閏2月3日 | 玉葉 | 美濃の追討使は粮料無く餓死に及ぶべし |
治承5年閏2月6日 | 玉葉 | 兵粮すでに尽き、運上物を点検し徴収し兵粮米にした |
治承5年3月6日 | 玉葉 | 官兵の兵粮尽きた |
治承5年3月28日 | 玉葉 | 官軍兵粮無し |
養和2年2月22日 | 吉記 | 人食童の風聞あり |
養和2年3月17日 | 吉記 | 兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託した |
養和2年3月19日 | 吉記 | 道路に死骸充満 |
寿永2年4月13日 | 玉葉 | 武士等乱暴 |
寿永2年4月14日 | 玉葉 | 武士等乱暴。平宗盛に訴えるも止まず |
寿永2年4月 | 平家物語 | 平家軍は進軍途中で片道分を路次追捕(現地調達) |
ちなみにですが頼朝の伊豆挙兵が治承4年8月、富士川が治承4年10月、清盛の死は治承5年閏2月4日です。断片的ではありますが、京都の食糧事情がかなり逼迫し、頼朝や義仲に対する討伐軍の編成が兵糧不足で難儀していた様子が窺えます。平家物語ソースですが倶利伽羅峠の決戦に臨んだ平家軍は京都では兵糧調達が十分に行えず、路次追捕(現地調達)で行ったとなっています。そのあたりの様子として、
寿永二年四月の北陸道への義仲追討軍の派遣の場合は、兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を許可された。これを「路次追捕」という。平家軍は京都を出発する時は京都市内や近郊でも路次追捕をした。追捕(ついぶ、現地調達)との名目とはいえ厳しい取り立てのため実態は略奪に等しく見られ、民間人の略奪も「ついぶ」というようになった。
素直に解釈すると対義仲戦のために京都近郊の食糧を根こそぎ持っていったぐらいの理解でも良さそうな気がします。これは推測ですが、京都近郊だけではなく倶利伽羅峠への道すがらも兵糧の現地調達は行われたんじゃないかと考えます。でもって義仲上洛後ですが、
年月日 | ソース | 記述 |
寿永2年7月28日 | 玉葉 | 「義仲・行家入京した」「京中の乱暴を停止せよ」 |
寿永2年7月30日 | 吉記 | 京中所々に追捕あり |
寿永2年8月6日 | 玉葉 | 京中の物取り追捕は逐日倍増した |
寿永2年8月10日 | 玉葉 | 源氏等の悪行止まらず |
寿永2年8月28日 | 玉葉 | 武士十余人の首を切る |
寿永2年9月3日 | 玉葉 | 人々の災難は法皇の乱政と源氏の悪行より生じた |
寿永2年9月5日 | 玉葉 | 京中の万人存命不能、一切存命出来ない |
* | 愚管抄 | 義仲軍等の入京後は「かくてひしめきてありける程に」 |
寿永2年10月9日 | 玉葉 | 頼朝が数万の勢を率い、入京したら京中は堪えられない |
義仲が上洛する前に平家の都落ちがあるのですが、この時にも平家は兵糧を可能な限りかき集めたと推測します。もともと飢饉で食糧不足だったところに、少なくともこの3回の兵糧調達が行われたと考えられ、義仲は倶利伽羅峠で平家の兵糧を幾分かは入手していたかもしれませんが、食糧が底を突いた京都に入ったと考えて良さそうです。義仲に対し朝廷が下した命令は、
法皇からは「軍勢が多過ぎるから減らせ。京都市内の治安を回復せよ。平氏の追討もせよ。食糧の支給はしない」と無理難題が要求された。
記録の上では義仲が殊更に略奪を悪化させたとはないそうで、
義仲軍などの「ものとり(略奪)」や「ついぶ(強制取り立て)」の記述は無い。
こうとはなっていますが、食わなければなりませんから、義仲もまた京都で兵糧調達を行ったと考えます。義仲軍は山陽道にも進出し、水島で大敗を喫していますが、水島まで進出するのにも兵糧が必要だからです。もちろん軍勢は戦闘や行軍を行わなくとも絶えず兵糧は必要です。
二月には平家軍や義仲軍残党の追討の宣旨(せんじ、天皇の命令)が下された。これに続き「武士押妨(おうぼう)の停止」と「公田(くでん)庄園(しょうえん)への兵粮米を徴集停止」の宣旨が記述される。ただし、「武士押妨停止」については、頼朝が申請し、院宣(いんぜん、法皇の命令書)があれば許可された。また「公田庄園への兵粮米」については、「まして源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。」となっているので、義仲は路次追捕(武士の押妨)は取り締まったようだが、公田庄園への兵粮米の徴集は続けたようである。鎌倉軍はそれ以後路次追捕や兵粮米を徴集などを完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けた。元暦(げんりゃく)二年、平家滅亡後、義経以下の武士の自由勝手な任官を非難する頼朝の有名な文書に武士達の追捕を非難する記述がある。
ちょっと用語が難しいのですが、二つの言葉が出ています。
- 武士押妨
- 公田庄園への兵粮米を徴集
京都にすればたまったもんじゃない状況ですが、
-
鎌倉軍はそれ以後路次追捕や兵粮米を徴集などを完全に停止したかというと、そうはいかず兵粮米不足に悩み追捕を続けた。
年月日 | ソース | 記述 |
寿永3年2月23日 | 玉葉 | 「武士押妨停止」「公田庄園への兵粮米を徴集停止」の宣旨 |
元暦2年1月6日 | 吾妻鏡 | 「船無く粮絶え、」「乗馬を所望、馬は送らぬ」 |
元暦2年2月5日 | 吾妻鏡 | 散在の武士が事を兵粮に寄せ乱暴を致した |
元暦2年4月15日 | 吾妻鏡 | 庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り |
文治元年11月28日 | 吾妻鏡 | 兵粮米(段別五升)を課税した |
文治2年3月21日 | 吾妻鏡 | 諸国の兵粮米の徴収を停止した |
一の谷が寿永3年2月、屋島が寿永4年2月、壇ノ浦が寿永4年3月なんですが、源平で元号使用に混乱(治承もそう)があり、寿永3年は元暦元年になり、寿永4年は元暦2年になります。ちなみに奥州合戦は文治5年の7月からです。
鎌倉軍の上洛は京都の食糧事情を一時的好転させたの記述があります(え〜ん、見つからないよ)。これは鎌倉遠征軍が大量の兵糧を持参して上洛したとの解釈も可能ですが、どうもそうではなく源平対立で東国からの食糧の輸入が途絶えていたのが再開したためと解釈した方が良さそうな気がします。あえて推測を加えれば、頼朝は京都への政治アピールのためにあえてそうしたです。
ここも「あえて」と言うより、そうしなければ西国遠征軍の食糧がないと言う切羽詰った状況もあるような気がします。しかし一時的には好転したものの、京都の食糧事情は深刻で、その後も対平家戦のために食糧の現地調達は続けられていたと見て良さそうです。東国からの税金分の米の搬入だけでは遠征軍の維持は難しかったと言うところです。
これだけの情報ですべてが語れる訳ではないのですが、どうも当時の兵糧調達の基本は、
- 自前の腰兵糧+α
- 現地調達
平家軍は都落ちの後は基本的に自分の勢力圏で戦い、冬季であっても瀬戸内海ですからある程度使用は可能であったと見ます。現地調達であっても輸送路は短いですし、海賊となって各地の襲撃による現地調達も機動性が期待できます。都落ち後の拠点であった屋島と一の谷も海路で考えるとさほどの距離とは言えません。
問題は源氏遠征軍です。京都は飢饉であった上に、富士川、倶利伽羅谷、平家都落ち、義仲上洛と兵糧は近辺も含めて狩り尽くされていたの見方もできます。京都でさえ食糧に困窮していたのは記録にもあります。ここでJSJ様からの問題提起ですが、
寿永3年1月木曽義仲滅亡
寿永3年2月一の谷
寿永4年2月屋島
寿永4年3月壇ノ浦
義仲滅亡と一の谷の戦い、屋島と壇ノ浦の間が一両月なのに対し、一の谷と屋島の間が一年あいているのは、やはり当時の戦が、携行した兵糧がある間は侵攻し、それが残り少なくなったら現地で新たな収穫を待つ、というものだったのではないかという推測を補強するように思います。
一の谷と屋島の1年の間は源氏軍が動けなかったのではないかです。理由は兵糧不足です。ただこの仮説の最大の問題点は、軍勢は戦闘や行軍をしていなくとも「食う」です。滞陣中でも食糧消費は止まらないです。そこで一の谷後の源氏軍とくに範頼の動きを確認してみます。
年月 | 範頼の動き |
寿永3年1月 | 宇治川 |
寿永3年2月 | 一の谷 |
寿永3年3月 | 頼朝より上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎 |
寿永3年6月 | 戦功により三河守に任じられる |
寿永3年8月 | 九州進軍の任を受ける |
寿永3年12月 | 周防に達する |
寿永4年1月 | 九州に渡海 |
寿永4年2月 | 壇ノ浦 |
実質的に軍事行動を停止してたのは2月から8月の半年間になります。この期間は京都での占領地確保や朝廷工作もあったと思いますが、一番注目したいのは九州進軍の前のwikipediaの記述です。
8月、範頼は九州進軍の任を受ける。出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る。
知る限り頼朝がこの時期に京都に出てきたの記録はなかったはずですから、範頼やその他の大将は鎌倉にいた事になります。どうもなんですが、一の谷の後に源氏軍のそれなりが一度関東に戻ったのではないかと見れます。ここで気になるのは日付で一の谷が2月7日で、九州進攻が8月である事です。これは旧暦表示ですから現在の暦(グレゴリオ暦)に換算すると、
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寿永3年2月7日 → 1184年3月27日
寿永3年8月1日 → 1184年9月14日
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出陣の前日に範頼軍の将達は頼朝から酒宴に招かれ、馬を賜る
元暦元年8月27日に範頼が上洛し、2日後に平家追討の太政官符を受け取ると翌日には西国に出発している。これについて、九条兼実は藤原定能からの情報として、範頼は頼朝から「一日たりとも京都に逗留せずに四国に向かうように」という指示を受けているという話を記している(『玉葉』元暦元年8月21日条)
範頼の京都到着は8月27日だった事がわかります。ちょっと苦しめではありますが日程的には、
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一の谷 → 帰国して田植えから刈り取りまで → 九州出陣
一の谷後なんですが、どうもどうもですが範頼率いる主力は関東に帰ったんじゃないでしょうか。京都に残っていたのは義経勢のみであったです。具体的には軍記物1/3説で考えて、一の谷の範頼は1万8000、義経が3000であり、一の谷後には範頼の1万8000が関東に帰り、義経の3000が京都を守ったです。九州進攻時には範頼は鎌倉から1万を率いて出陣したは如何でしょうか。
つまり京都と言うか畿内の食糧事情は大軍の存在を許さないぐらいシビアであったです。辻褄はそれにりに合うのですが、真相はどうであろうです。実際のところ一の谷の源氏軍を、一の谷から範頼の九州進攻まで食わすのは猛烈に大変です。寿永3年・4年の収穫状況の情報が無いのですが、飢饉の解消は翌年の収穫時まで待つしかなく、現地調達を期待するにしても翌年の収穫を待たないと動けなかったのにも筋が通ります。
一の谷の時より範頼軍が減っているのも食糧事情を反映したもので、一の谷並の軍勢では現地調達も難しいの判断があったのかもしれません。現実に周防まで進出した範頼は兵糧確保に非常に難渋したと伝えられています。wikipediaからですが、
範頼は防長から、11・12月にかけて兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。
まあ、難渋したのは京都での問題で頼朝に叱責されたせいも影響している可能性もあります。農繁期の自然休戦は戦国期でも珍しい状態ではありませんから、この仮説の根拠はその程度はあるぐらいで考えています。