日曜閑話50

源平シリーズのさらに続きです。一の谷が寿永3年2月ですが、そこからの範頼の動きを再掲しておくと、

年月 範頼の動き
寿永3年1月 宇治川
寿永3年2月 一の谷
寿永3年3月 頼朝より上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎
寿永3年6月 戦功により三河守に任じられる
寿永3年8月 九州進軍の任を受ける
寿永3年12月 周防に達する
寿永4年1月 九州に渡海
寿永4年2月 壇ノ浦


範頼は一の谷後に鎌倉に帰っています。そいでもって一の谷から半年後の寿永3年8月に鎌倉から九州進攻のために出陣しています。ほんじゃ、範頼が主力(これが前回の推測)を率いて鎌倉に帰った後の畿内はどうであったかです。wikipediaにありました。

梶原景時土肥実平らが山陽道に乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家の勢力が再び山陽道に及び始め、その地の鎌倉御家人たちが平家に度々襲撃されるようになる(『玉葉』)。 そのため西国への大規模な出兵が必要となった。その山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初義経が予定されていたが、7月に入ると今度は畿内で三日平氏の乱が勃発し、その畿内の反乱を鎮圧するのに義経は専念せざるを得なくなる。 そのため頼朝は山陽道への出兵の総指揮者を範頼に変更した。同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。

まず一の谷後に源氏軍は山陽道進出を試みたようです。しかし平家軍の反撃が強く寿永3年6月には、

    そのため西国への大規模な出兵が必要となった
ここは推測が必要になりますが、一の谷の源氏軍は戦勝後に
  1. 関東帰還組
  2. 畿内残留組
  3. 山陽道進出組
こうなったと考えられます。もちろん関東帰還組がなかった可能性もありますが、そうなると一の谷の源氏軍でも寿永3年6月時点では苦戦を強いられていた事になります。私はやはり農作業のためにかなりの源氏軍が関東に帰ったと見たいところです。源氏軍の兵力がかなり小さくなったので、平家軍の反撃を許したです。この辺は一の谷で大敗した平家戦は残党討伐戦段階になっていると判断したためかもしれません。

もう一つ初めて知ったのですが、九州進攻軍の指揮官は当初、

    その山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初義経が予定されていた
義経が指揮を取れなかったのは畿内で寿永3年7月に三日平氏の乱が勃発したためで、鎌倉の範頼は急遽起用みたいな経緯であったようです。その三日平氏の乱ですがwikipediaより、

寿永2年(1183年)7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、元暦元年(1184年)3月に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国御家人大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。7月7日辰の刻(午後8時頃)に平家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺したという(『玉葉』7月8日条)。

19日には近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。平信兼藤原忠清は行方をくらました。反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。

かなり大きな乱であり京都の動揺は強かった様子が窺えます。さらにここに大きな発見がありました。

一ノ谷の戦い以降、源範頼以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。

ちょっと嬉しくなったのですが、

  1. 一の谷後に源氏主力軍は関東に帰っていた
  2. 範頼が鎌倉を出陣したのは寿永3年8月8日であった
  3. 範頼の京都到着は寿永3年8月27日(玉葉
  4. 範頼の京都出陣は寿永3年9月1日
鎌倉と京都の片道の通行時間は20日であるのも確認できます。ちょっとこの辺の流れをまとめると、
  1. 寿永3年2月の一の谷戦後に源氏主力軍は関東に帰還
  2. 畿内駐留軍の一部が山陽道に進攻も寿永3年6月には平家軍の反撃を受け苦戦
  3. 寿永3年7月7日に伊勢・伊賀を中心に三日平氏の乱が勃発
  4. 寿永3年7月19日、義経軍と平家軍が近江国大原荘で激突、源氏軍が勝つも被害甚大。さらに首謀者は逃亡しゲリラ戦に転じる
ゲリラ戦は長期化したようで、

藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。

頼朝は山陽道進攻部隊の苦戦と三日平氏の乱の対応に迫られ、範頼を指揮官として8月8日に再びの西国遠征軍を出陣させます。義経畿内駐留軍は三日平氏の乱の後始末に追われ、畿内に釘付け状態であった事になります。京都の防衛は義経軍にかかっており、後に大問題となる、

平信兼追討の最中の8月6日、義経後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。

後白河法皇の政治的計算もあったでしょうが、平家反乱軍に対する法皇の恐怖も確実にあったように見ます。元暦2年とは寿永4年の事で、義経屋島奇襲の時も、

平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経屋島出撃を引き留めており、義経検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。

私の知識不足を恥じ入るばかりですが、どうも一の谷の大勝で源氏は勝ったと判断した様に思えます。もちろん散々調べた兵糧問題、関東豪族の農繁期問題もあり源氏主力軍は一の谷の後に関東に帰らざるを得なかった見ます。

ところがどっこい死んだと思っていた平家軍は健在で、小勢で鎮圧を目指した源氏の山陽道進出軍は苦戦に陥り、畿内でも平家の残党軍が活発に行動を起す事態に陥ったのが、一の谷の半年後の情勢であったと言う事です。恐慌を来たした後白河法皇以下の京都貴族は義経抱きこみにかかり、頼朝は範頼を西国に緊急派遣したです。


漠然と一の谷から屋島までは自然休戦状態に近いと思い込んでいた私の知識の浅さを笑ってしまいそうになります。それでもここで知識整理が出来た事を喜びとしておきます。