平日だけど日曜閑話48

ひょっとしたら、負傷の状況を心配してくれている方がおられるかもしれませんので報告だけしておきます。とりあえず「痛い」です。それでも回復基調で車椅子から松葉杖まで回復しています。ただここからがまだかかりそうで、立てない座ったままの外来を余儀なくされています。そういう事でブログも医療問題を眉間に皺を寄せる医療の話題より、お気楽な歴史閑話を楽しませて頂いていますので御了解下さい。


今日のお題は「兵力の動員」です。至極簡単には人口当たりでどれほどの兵力動員が可能なのであろうかです。これに目安が出来れば、たとえば頼朝の奥州平定の28万人とか、富士川の18万人とか、奥州18万騎の検証の手がかりになります。


近代戦の動員

日本が対外戦のために根こそぎに近い動員を行った近代戦に日露戦争第二次世界大戦があります。まず日露戦争ですが、奉天会戦時には現役兵が枯渇し、予備兵や後備兵も動員され、40歳を超えた兵士の部隊まで登場しています。奉天会戦では勝ったものの、次の公主嶺会戦など計画だけあって到底無理みたいな状態です。

その時の総動員兵力が108万人とされ、当時の総人口が4400万人ぐらいと推定されますから約2.5%です。男性に限れば約5%であり、20人に1人程度が動員された事になります。

では第二次大戦はどうであったかです。これがなかなか正確な資料はないそうですが、法政大学大原社会問題研究所「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態」第二編 兵力・労働力の動員とその配置の第二章 兵力動員と産業労務動員に参考になりそうな資料があります。まずなんですが、

日中戦争勃発後、わが国における兵力の動員は年々強化され、その規模を拡大していった。まず、現役徴集の限度についていえば、一九四一年に従来の甲種、第一乙種より、第二乙種徴集にまでその範囲が拡大され、一九四三年には在学徴集延期制度が撤廃されて入営延期制度となり、主として専門学校以上に在学中の適齢超過の学徒を随時入営させうるよう改められ、さらに、一九四四年には第三乙種の徴集ならびに徴集年齢を二〇歳より一九歳に低下させる等の諸措置がとられた。また、一九四二年には徴兵終決処分をみた第二国民兵役関係者の兵籍編入、一九四四年には兵役服務年限の五ヵ年延長(四〇歳から四五歳へ)、未教育補充要員の大量養成が行なわれるなど、適齢壮丁の徴集者に加えて、再度の召集者および長期の応召者による終戦時の兵力動員数は七一九万三千人に達した。

動員範囲が戦局の逼迫とともに拡大さている様子が確認されます。表にしておくと、




動員拡大策
1941 第二乙種徴集にまでその範囲が拡大
1942 徴兵終決処分をみた第二国民兵役関係者の兵籍編入
1943 在学徴集延期制度が撤廃されて入営延期制度となる
1944
  • 第三乙種の徴集
  • 徴集年齢を二〇歳より一九歳に低下させる
  • 兵役服務年限の五ヵ年延長(四〇歳から四五歳へ)
  • 未教育補充要員の大量養成


こういう動員策を行った結果、
    七一九万三千人
開戦前の1940年の人口が7311万4308人、1945年で7199万8104人ですが、1940年ベースで9.8%、1945年ベースで10.0%になります。これも男性ベースで約20%になりますから、5人に1人が動員されたと見ても良さそうです。では日本以外はどうだったかですが、これも法政大の資料にあります。これの原著は国民経済研究協会・金属工業調査会編「戦時国民動員史、第二編兵力動員」一九四六年九月刊だそうですが、

 人的国力の実情 軍動員資源の骨幹たるべき在郷軍人総数は昭和一九年一〇月末現在約六三九万にして内召集可能者は約四六九万なり、これによれば上述一五〇万の新設要兵員の動員は数量的にはなお相当の余力ありというべきも、昭和一九年八月一日現在既教育在郷軍人につき動員能力をみれば歩兵約三〇師、野砲五〇師、山砲七聯、工兵七師、通信一四中隊にして特に工兵、通信兵のごときは短日月に補充しえず綜合兵備建設予力は低下する事明らかである。

 しかしてわが国が当時展開しつつある兵力は内地人総人口に対し約六・三%にして、独英ソの一八〜二〇%、米国の八%に比すれば相当の余力あるがごとく観察せらるるも、わが国成年男子の約四八%は食糧または軍需生産方面に従事し、各産業従事者の四七%は兵役関係者であったのである。かくして総数的には兵備拡充の余力を有するも、その素質においては従来の三〜五割に低下すべく、兵力動員につき特別の措置を採らざる限り、生産活動の減退停止をもまぬかれざる状態に陥り、兵力動員と産業要員動員との関連が漸く検討せらるるに至ったのである。

どうも「一九四六年九月刊」のさらに引用元は昭和19年(1934年)時点の話のようで、この時にどういう資料に依ったか不明ですが、

  • 独英ソの一八〜二〇%
  • 米国の八%
しっかし20%と言えば男子人口の4割ですから、物凄い動員です。それでも今日のお題は「どこまで動員出来るか」ですから、近代戦なら人口の2割ぐらいは可能であるとしても良さそうです。もう少し整理すると、
  1. 日露戦争基準で2.5%
  2. 第二次大戦末期の日本軍で10%
  3. 第二次大戦時の独英ソで20%
漠然と大戦中の日本軍の動員は根こそぎの印象を持っていたのですが、独英ソとなるとその日本軍の倍の動員を行っていたらしいとは少々驚きました。


頼朝の28万騎と奥州18万騎

これを計算するには平安末期の地域別人口数が必要なのですが、なんの事はないwikipediaにありました。主にと言うか、かなりの部分は鬼頭宏氏の研究によるものようですが、とりあえずこの数値を前提にして見ます。さすがにこれに再検証を加えるだけの知識はありません。

まず頼朝軍は吾妻鏡によると28万騎となっています。さすがに28万騎となれば当時の男性総人口に近くなってしまうので、これを28万人として考えて見ます。ソースがwikipediaばかりで申し訳ないのですが、

畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、比企能員宇佐美実政が率いる上野国の武士団を中心とした北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へ、そして千葉常胤・八田知家が率いる東海道大将軍は常陸国下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へそれぞれ進軍した。

頼朝は関東以外からも広く兵を集めたとはなっていますが、実際はほぼ関東勢が殆んどであったと考えます。これも3つに分かれていたようで、

  1. 大手軍・・・頼朝の主力軍
  2. 北陸道軍・・・上野国の武士団を中心
  3. 東海道大将軍・・・常陸国下総国の武士団
大手軍と東海道大将軍はすべて関東勢とみなして良さそうですが、北陸道軍は越後勢が加わったと見ます。そうなると頼朝軍は関八州に加えて越後も加えた9カ国連合軍と見て良さそうです。ちょっと大胆に分けると、
  1. 大手軍・・・下野、上総、安房、武蔵、相模
  2. 北陸道軍・・・上野、越後
  3. 東海道大将軍・・・常陸、下総
これでどれだけ動員すれば28万人になるかです。

人口 動員率 小計
2.5% 5% 10% 15% 16%
大手軍 下野 199100 4978 9955 19910 29865 31856 128048
上総 164300 4108 8215 16430 24645 26288
安房 31600 790 1580 3160 4740 5056
武蔵 373700 9343 18685 37370 56055 59792
安房 31600 790 1580 3160 4740 5056
北陸道 上野 206300 5158 10315 20630 30945 33008 60544
越後 172100 4303 8605 17210 25815 27536
東海道大将軍 下総 239300 5983 11965 23930 35895 38288 87056
常陸 304800 7620 15240 30480 45720 48768
合計 1722800 43070 86140 172280 258420 275648

おおよそですが16%の動員率でほぼ28万人は可能です。軍勢は誇張して書くのが通例ですから、そこを勘案しても10%で富士川並の17万人は可能です。これだけの大軍は戦国末期にならないとお目にかかれない大軍ではありますが、第二次大戦末期の日本軍並の動員を行えば実勢17万人、号して28万人は実現する可能性がある事になります。かなり無理な動員ではありますが、当時の頼朝の権勢・求心力を考えると絶対無理な数字ではありません。 対する奥州藤原氏ですが、wikipediaより、

奥州側は、泰衡の異母兄・国衡が2万の兵を率いて阿津賀志山の全面に二重の堀を設け迎撃体制をとり、泰衡自身は多賀城国府にて全軍の総覧に当たった。

国衡の2万は記録にありますが、泰衡がどれほど率いていたかは不明です。泰衡が出羽の兵まで動員できたかは不明ですが、陸奥、出羽の動員力を計算して見ます。

人口 2.5% 5% 10% 15% 20% 30%
陸奥 326800 8170 16340 32680 49020 65360 98040
出羽 280100 7003 14005 28010 42015 56020 84030
合計 606900 15173 30345 60690 91035 121380 182070

奥州18万騎が18万人でも動員率30%が必要になります。実に男性人口の3人に2人です。それこそ足腰の立つものを総ざらえにしてやっと18万人と言う事になります。仮に奥州平定戦で国衡が本当に2万、さらに泰衡が1万ぐらい率いての合計3万だったとしたら、実は動員率は日露戦争の倍の5%であった事になります。実数が半分の1万5000人としても日露戦争並の2.5%の動員率になります。 人口に対する動員率で考えると、泰衡が頼朝戦に動員した兵力は決して少ないとは思えません。むしろ奥州藤原氏の本当の実力がそんなものだったとした方が良さそうな気がします。あくまでも仮定ですが、そもそも動員した国の人口が3倍ぐらい違う上に、頼朝が乾坤一擲の無茶動員の10%を行い、泰衡が普通の総動員の2.5%であったとも見れそうな気がします。 実数をあえて出しておけば、
    頼朝軍:17万2280人(うち大手軍8万30人)
    泰衡軍:1万5173人
これだけの兵力差があれば、それこそ鎧袖一触で頼朝軍は泰衡軍を粉砕したとも言えそうです。頼朝の動員に対する気合もwikipediaにあり、

この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏源義仲源義経に従っていた者たちの動員をも行っている。しかしその動員対象は「武器に足るの輩」(文治五年二月九日・源頼朝下文)に限定されていた。さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。

関八州以外にも全国動員を行ってはいますが、地理的なこともあり、実際に参加した数となるとどれほどだろうになります。なんとなく28万騎の中には西国から来る予定、来るつもりの数も合算されている様に思えます。それより注目したいのは、

    さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと
これはとくに地盤である関東で厳しく行われたとも考えられ、そこまでの気合で動員率10%を可能にしたとも考えます。ただし当時でも今でも大軍の難点は兵站線であり、頼朝はなにがなんでも短期決戦が必要であったとは考えられます。大軍は相手に与えるダメージは大きいですが、少しでも長引けば食糧にたちまち困るです。

頼朝の戦略は泰衡軍をその大軍でもって瞬時に踏み破り、まず敵地から兵糧を確保するのは絶対であったと見ます。さらに10%動員は平定戦が現在の9月から11月にかけて行われている関係上、これも長引けばこの年だけではなく、翌年の農業収入にも影響します。とにもかくにも怒涛のように押し寄せ、可能な限り短期で平定しなければならなかったです。


泰衡の評価

泰衡の評価は現在は低いものがあります。偉大なる父である秀衡の遺言を守らず、稀代の戦術家の義経を利用するどころか抹殺し、頼朝が攻め寄せた時には奥州の武士たちの心は離れてしまっていたとされます。これは言外にもし秀衡ならば奥州18万騎が出現し、義経の戦術で頼朝に対抗できたはずの意味が含まれていると考えます。

実際に泰衡が動員できたのは奥州18万騎のうち2万足らずであったかもしれません。しかし動員時期は頼朝と同じで農繁期にかかる時期です。動員率2.5%の意味は上述しましたが、決して少ない動員ではなく、むしろ奥州藤原氏の総力に近い動員ではなかったかと見れます。秀衡の権威であれば頼朝並の10%動員が出来たとしても6万人程度しかいません。

後の史書に書かれるほど泰衡は奥州の武士たちに見放されていなかったとの見解も成立しそうな気がします。もし泰衡が3万を動員していたら、戦国史上のエポック的大軍である今川義元尾張攻めに匹敵するからです。

泰衡の誤算は幾つもあるでしょうが、頼朝がここまでトンデモナイ大軍を動員するとは予想外も良いところであったのかもしれません。もっと普通の規模の4万人(動員率2.5%)とか5万人程度の動員であれば、もう少し展開の違う奥州戦があったような気がしています。