日曜閑話47

基本は負傷により休載中ですし、来週も休載予定なんですが、完全休載では寂しいので日曜閑話だけは挙げておきます。そいでもって今日のお題は「秀衡と義経」です。義経(と弁慶)は前にやったのどちらかと言うと秀衡が重点です。それでもネタモトは六条八幡宮と鷲尾三郎義久の広い意味の続編で、某所で当直明け様と熱中した義経論からですから併記としています。


山の民

当直明け様が重視したのは「山の民」です。漠然とした言い方ですが、山に住み、平地の民と一線を画していた人々ぐらいの意味です。概念的にはかなり広く、猟師や山師、修験者、さらには平安期から系譜のある傀儡師、白拍子、山賊、さらには平地の支配下に従わない者の意味まで含みます。そういう山の民の一大勢力が存在していたはずだです。

私もこの意見には同意です。当時どころか遥か後世になっても平地の支配者が欲したのはカネですが、具体的には農作物、もっとあからさまに言えば米です。米が成る地を支配する事が平地を支配する事であり、税として対象にならないその他の民は低く見られたです。低くであればまだ良いのですが、山であれば無視したとしてもよいぐらいです。

山の民は土地にしがみついて税金のために米を作る事を拒否と言うか、できなかった、またはしなかった民になります。税金を取られない代わりに、保護もまた受けない民です。さらにですが、平地に較べて食料の供給にムラのある山ですから、連帯感と言うかネットワークもまたあったと見ています。これは平地の支配者の保護をうけないため、さらには平地の支配者の圧迫に対抗するためとしても良いかと考えます。


弁慶

弁慶論も前にやったので焼き直しですが、弁慶もまた山の民でなかろうかです。弁慶だけではなく、鞍馬から義経を奥州に連れ出す策謀に加担した連中も山の民ではないかです。弁慶は僧兵としてよいですが、当時の寺社の多くも山にありました。寺は仏教とは言え、修験道的な要素が濃厚に入り込んでおり、さらに僧兵は「僧」と名が付いていても僧とは言えません。寺社の傭兵部隊・外人部隊みたいなものです。

山の民は平地の支配とは一線を画すものとはしましたが、山の民の中にも平地世界で名を挙げたいと思うものがいても不思議ありません。出世となると平地世界に入り込む必要があります。そういうところに転がっていたのが義経と言うわけです。

義経の価値は出自と血です。壊滅状態とは言え武家の棟梁の嫡流の血筋です。見ようによっては、こういう状況ででもないと弁慶如きが会う事も出来ない貴人です。弁慶が世に出るために金看板として、望みうる最高の状態で転がっていたとしても良いかと思います。鞍馬状態より義経の境遇が少しでもよければ、弁慶は近づけもしないからです。

これは私の推測ですが、平家支配は山の民にとっても嬉しくなかったのかもしれません。平家だって海の民を支配しているのですが、山の民には従来の平地の支配者と同様の態度であったとも考えています。そのうえ、従来の藤原系貴族、さらには院の支配に較べて格段の武力を持っています。平地の支配者が強大な武力を持つと、山の民の安全は脅かされるです。

そうでなくと平地の支配者とは別の連携を持つ山の民ですから、義経の鞍馬脱出に協力したと考えます。


なぜに奥州

まずは金売り吉次の存在があります。吉次自体の存在は別にして、奥州の金を使った交易商人です。この吉次も山の民ではなかろうかです。構図的には、

    弁慶 − 吉次 − 山の民
弁慶も世間を知っていた方だと思いますが、吉次となると奥州と京都を往還していますから、もっと広く世間を知っていたと考えます。平家物語でも吉次の勧めとなっていますが、実際にも吉次の勧めであっただろうです。平家全盛の時代に義経を匿える実力があるのは奥州藤原氏のみであると。鞍馬にいたのでは義経の金看板とて宝の持ち腐れですから、義経を奥州にはすみやかにまとまったと見ます。

ただこの時点で義経を報じて平家討伐まで考えていたかと言えば疑問です。むしろ義経が秀衡に気に入られたら、それの芋づるで平地世界に入り込むキッカケにしようです。当時の貴種の価値はそれぐらい高かったのもあります。


秀衡

義経が平泉にいつ着いたのかですが、1174年とされています。秀衡の年齢に諸説があるのですが、享年が66説を取れば53歳ぐらいの時になります。53歳と言っても当時の53歳ですからかなり晩年です。ここで秀衡は義経を可愛がったらしいは伝説となっています。らしいと言うのは確証が無いからです。傍証としては壇ノ浦後の逃亡先が秀衡の下なので義経は信頼を置いていたのかもしれません。

では秀衡はどうだったのだろうです。まずまず秀衡に天下への野望が果たしてあったかです。これも真相は不明です。そもそもなんですが、天下を取るとはどういう事かの問題さえあります。鎌倉幕府以降はわりと簡単で、今の幕府を倒し、自分の手で新たな幕府を作るです。

しかし幕府と言う政治体制は頼朝が発明しますから、秀衡は知りようもありません。当時はもちろんこと、後世に至るまで京都の朝廷を潰す事は考える事さえタブーです。幕府は形式上は朝廷の下に存在し、実権として政権を握る政治体制です。朝廷が潰されず、幕府は打倒されるのは、朝廷が神の権威であり、幕府が人の権威であるかもしれません。

そういう天下を取るのに便利な幕府と言う政治体制が存在しないのが秀衡の時代です。つまり政治の舞台は潰せない朝廷であり、朝廷で天下を取るモデルとしては、

  1. 藤原摂関政治
  2. 院政
  3. 平家式成り上がり
1.と2.は秀衡には使いようがないので、あえて目指すとすれば3.の平家式です。これは非常に大変な方式で、清盛ほどの英雄をもってしても後白河法皇率いる院と、旧来の藤原系貴族の対応に精力を擦り減らすほどのものです。清盛はそれでも京都の文化の薫陶をある程度受けてはいますが、秀衡は京都人にすれば余所者どころか夷狄扱いです。

そのうえ地方人は京都に強いコンプレックスがあり、東北人はさらにそれが強いされます。当時的には晩年を迎えていた秀衡が、上洛軍を率いて平家式の天下取りを野望として抱いていたかと言われると疑問です。器量も、財力も、兵力もあったでしょうが、そういう気はなかったです。あればもっと積極的に動いていたはずです。

秀衡が源平争乱時に動かなかったのは、漁夫の利を狙っていたとの考え方もありますが、それより基本的に専守防衛が基本戦略であり、中央の争乱に巻き込まれずに平泉の平和を守る事に専念したんじゃないかです。


そういう秀衡が義経をどう考えたかです。義経が秀衡の下にいたのは1174-1180年の6年間と考えられます。年齢にして16歳〜22歳です。格と言うか待遇として源氏の御曹司に相応しい扱いではあったとは思います。しかし実際には珍重されたのは落魄したとは言え源氏の血のみであったような気がしてなりません。変な喩えですが、輸入が禁止されている珍獣を密輸し飼育しているような感覚でしょうか。

これは私の知識不足ですが、秀衡が義経を本当に味方なり、配下並に扱いたいのなら、婚姻政策はあったはずです。ここについて私は知見がありません。平泉での婚姻はあったのかもしれませんし、なかったのかもしれません。私はなんとなく無かったような気がします。婚姻により奥州藤原氏の一員になっていたのであれば、セットとして所領も与えられるはずだからです。

当時の武士の定義とは所領を持つものであり、持たない者は武士とは言えません。所領を持って初めて自前の郎党が養え、自前の兵力を備える事ができます。もちろん鎧兜等の武器もそうです。しかし義経は御曹司、つまり部屋住みの身分のままで置かれたと見ています。格としての待遇は高くとも実質としての待遇は低かったです。

この辺は、義経が余りにも打倒平家に凝り固まってしまい、そういう政治的な策謀の余地がなかった可能性もありますが、一方で義経の政治感覚の低さは後世に知られているところですから、秀衡ほどの人物なら義経如きを手玉に取るのは容易であったはずです。

つまり第一次平泉滞在時代の義経への秀衡の能力評価はさほど高くなかったです。


秀衡の戦略

基本は防衛戦略ですが、とりあえず秀衡が平家政権をどう見たかです。基本は山の民と同じで、中央に強大な武力を持つ政権は歓迎しないだと思います。平家が強大になれば、奥州は遠いとは言え、いつ討伐軍が催されるかわからないからです。秀衡の記憶には前九年の役後三年の役は強烈のはずです。平家がそれをやらない保証はありません。逆に言えばそうならないようにするのが戦略です。

歴史的に見ると秀衡の防衛戦略は無理があります。武力を持たない貴族政治から、武力を持つ武家政治への変換が読みきれていなかったです。しかしそれは後世の人間が結果を知っているから評価できることであり、秀衡にすれば奥州17万騎で源平を薙ぎ倒すより現実的であると考えていたはずです。中央の兵が奥州に進攻しないためには、

    京都の政権が不安定であり、奥州なんて気にしていられない状況
ダラダラと保元平治を断続的にくり返していてくれるのが理想です。とは言うものの保元平治は平家勝利で決着してしまい、平家勢力が強大化すれば秀衡の忌む「中央 vs 奥州」の二元対立時代が来てしまいます。そうならないようにするには、第三勢力がやはり必要です。とはいえ、平家に対抗できる武力を持つ勢力は限定され、奥州藤原氏を除くと壊滅した源氏勢力ぐらいしかありません。

この源氏の旧勢力は坂東にあり、坂東で源氏勢力が台頭してくれれば奥州藤原氏にとって戦略的に好ましいの判断は出来ます。源氏勢力は起これば打倒平家に動きますし、平家もまた源氏殲滅に動きます。源平は両立しない怨念がありますから、源氏勢力が坂東で頑張ってくれれば奥州藤原氏は安泰の計算です。


源氏が坂東に再び勢力を得た時に義経の価値は上がります。妾腹とは言え義朝の子供ですから、奥州の安全保障のためのコマとして使い道は色々あるです。秀衡の理想としては伊豆の頼朝が挙兵して、頼朝が敗死でもしてくれれば自分の傀儡の義経を送り込むみたいな構想さえ描いていたかもしれません。ま、頼朝でも、義経でも「源氏復興」「平家打倒」で坂東に反平家勢力が適当に蠢動してくれればそれで十分とも言えます。

秀衡にとって義経の政治的利用価値はそこにあり、その目的で義経を可愛がり懐柔に務めていたのかもしれません。


二人の天才と秀衡の誤算

頼朝はついに石橋山で挙兵します。これも最初は敗れますが、魔術的な手腕で坂東の旧源氏勢力を結集してしまいます。これを見た義経は秀衡の制止を振り切って参陣します。秀衡にすれば富士川の前ですから、もうすこしタイミングを見計らって義経カードを切りたかったのでしょうが、軟禁してまで閉じ込めるのは愚策と判断したのかこれを許します。

ここまでは秀衡の計算内だったかもしれませんが、ここから誤算が生じます。頼朝が鎌倉から動かなくなった事です。政権を握ろうとする者は当時の常識から上洛するはずであり、木曽義仲は忠実にそれを行っています。しかし頼朝は動きません。富士川で快勝しても動きません。ひたすら鎌倉で地盤作りに専念します。頼朝が鎌倉に政権根拠地を置いたのは天才的な判断とされますが、秀衡にとってはそういう発想が出てくるのは完全に計算外であったです。

さらなる誤算は義経です。秀衡の計算では平家は強大です。現実にも強大で、富士川倶利伽羅峠で大敗を喫しても、整然と都落ちを行い、短期間のうちに一の谷に一大根拠地を築き上げます。

一の谷の合戦は、まともにやれば平家絶対有利の戦略でした、平家は堅固な一の谷陣地を守りさえすれば勝てた戦いです。義経抜きで合戦になっていれば、堅固な一の谷陣地の前に遠征軍である源氏は釘付けになり、やがて関東に戻らざるを得ない状況に陥ったと考えるのが妥当です。一の谷の後の屋島もそうで、一の谷の損害は膨大でしたが、時間をかければその傷口の回復は可能なはずでした。

古来、戦略無き戦術的勝利の積み重ねだけでは戦争に勝てない鉄則があります。当時の源氏の戦略は源氏の正統性の争いのために政治目的のために義仲追い落としを構想しただけで、戦略的には対平家戦は勢いのついでです。そういう状況で鮮やか過ぎる戦術的勝利を義経は短期間で積み上げ、戦略で勝る平家に勝ってしまう奇跡を義経は起こしたと見ます。


京都でなく鎌倉に政権根拠地を築き、さらに幕府と言う新たな政治形態を生み出した政治の天才頼朝と、戦略で劣る状況を戦術で勝ってしまうという稀代の天才戦術家義経の活躍により、源平合戦の結果は秀衡にとって最悪の結果をもたらしたと言えるかと考えます。

まず平家勢力が壊滅した代わりに、強大な源氏武家勢力が登場します。さらに平家は奥州から遥かに遠い京都が根拠地でしたが、源氏は鎌倉です。平家勢力が壊滅したために奥州は第三勢力でなく、源氏勢力に唯一対抗できる勢力の地位に置かれてしまいます。二強対立はどちらかが倒れなければならない構図になり、秀衡の防衛戦略にとって拙すぎる展開です。

さらに二強構図は平家時代も基本的に同じですが、平家の京都に対し、源氏の鎌倉はあまりに近いです。京都と奥州の二強構図の時にあった距離の防壁が存在しなくなったです。京都からの奥州遠征となると、そのための軍資金、さらには遠征軍が奥州で敗れた時の政治的リスクが高いので、そうは簡単に京都から遠征軍は送れません。

これが鎌倉となると双方にとってまさに目の上のタンコブ的な存在になり、決戦への臨界点は嫌でも高まるです。


2回目の義経奥州入り

頼朝は奥州殲滅をあからさまに意図します。奥州が健在のままでは鎌倉政権の安泰はないとの意図です。事態がそこに至れば、秀衡も戦略転換を図らざるを得なくなります。避けられない源氏との決戦を考えながらの防衛戦略への転換です。

軍事的に見ると源氏は強敵です。平家よりもより純粋な武家政権であり、平家勢力を吸収したこと、さらには対平家戦での実戦経験もまた生々しいところです。一方で奥州は藤原三代の平和が続き、とくに大軍での決戦に不安を覚える状態としても良いでしょう。対平家戦中なら鎌倉進攻も可能だったかもしれませんが、主力が鎌倉に戻った状態では無理の判断です。

秀衡自身も健康に不安をおぼえる年になっており、来るべき源氏との防衛戦に不安要素はテンコモリであったと言うところでしょうか。そんなところに義経逃亡の情報が入ります。秀衡の義経評価は対平家戦で一変していたと思います。単なる貴種から、対源氏戦の切り札戦術家です。奥州藤原氏が生き残るには義経がいないと不可能であると。


この2回目の義経奥州入りの時の秀衡の義経への待遇はハッキリ変わっています。義経奥州藤原氏の後継者に据えるです。義経奥州藤原氏の司令官であれば、鎌倉の頼朝も容易には手を出せないであろうの防衛戦略と解釈しても良いかと見ます。秀衡が健在のうちは頼朝とて手を出し難く、秀衡が死んでも義経がいればやはり頼朝は手を出し難いです。


後継問題

秀衡は北方の帝王であり、奥州で秀衡の命に反するものはいないぐらいの権力と権威があったとしても良いかと思います。そこまでの秀衡であっても後継問題は解消できなかったと見ます。後継問題は常に争乱の火種になり、やがては鎌倉幕府さえ揺るがし、さらには南北朝の争乱、応仁の乱まで系譜として続くのですが、秀衡もこれに直面したと見ます。

純防衛戦略的には平泉に義経がおり、さらに奥州17万騎をいつでも率いて決戦に臨める状態ないしは、そう鎌倉側が信じている状況こそが当面の奥州藤原氏の安全保障になります。秀衡構想はそこに尽きるとしても良いでしょう。

秀衡がここから20年ぐらい健在であれば、この構想の実現はまだしも可能性はあったと思うのですが、秀衡は義経の二度目の奥州入りからわずか8ヶ月で死亡します。8ヶ月のうちに秀衡は義経後継路線を敷こうとはしていたようですが、時間的には不十分なものになります。

後継問題が争乱の火種になるのは、後継者が殆んどを取ってしまい、その他の後継候補者は冷や飯状態になることが大きいところです。冷や飯どころか、謀殺の対象に容易になるのもまた側面です。源氏も英雄義家の後の後継問題で勢力を弱体化させるぐらいのものです。ある意味、平家が清盛の後継問題を起こさなかったのが不思議なぐらいです。

秀衡の義経後継路線も奥州藤原一族に波紋を投げかけたと見ます。結果としてどうなったかですが、wikipediaより、

家督は側室腹の長男・国衡ではなく、正室腹の次男・泰衡が継いだ。秀衡は両者の和融を説き、国衡に自分の正室である藤原基成の娘を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言して没した(『玉葉』文治4年正月9日条)。兄弟間の相克を危惧しながらの死であった。

しかし、跡を継いだ泰衡は義経派であった弟達を殺害し、頼朝に屈して義経を襲撃し自害させ、首を鎌倉へ差し出した。しかし頼朝の目的はすでに義経ではなく奥州であり、奥州合戦で鎌倉の大軍に攻められた平泉はあっけなく陥落、泰衡も家臣の裏切りで討たれ奥州藤原氏は滅亡した。

秀衡後継問題は妾腹の長男国衡と正室腹の次男泰衡の存在自体が火種の元になる性質のものです。wikipediaを信じれば、秀衡は長男国衡を後継レースから完全排除していなかったようです。それでも泰衡後継はある程度既定路線ではあったようですが、義経の存在が後継問題を複雑にしたようです。

後継問題は後継候補者のうち、実際に後継する者と、後継者になれなくとも一族として後継者擁立に功績を立てる者に分けられます。奥州藤原氏なら、最有力は次男泰衡ですが、三男以下が二番手の長男国衡擁立に成功すれば、冷や飯でなく功労者として待遇してもらえる可能性が生じます。

そこに義経エッセンスが入ります。秀衡は三頭(トロイカ)体制を夢見たようですが、

    しかし、跡を継いだ泰衡は義経派であった弟達を殺害
ここの内情を推測すると、三男以下は長男や次男を擁立するより余所者の義経を立てるほうがメリットがあると踏んだのかもしれません。長男や次男であれば兄弟関係で頭が上がりませんが、余所者の義経なら後継者にしても大きな顔が出来るです。義経には一族と呼べるような係累は殆んど存在していなかったはずですから、実権を握れるの計算もあったかもしれません。

泰衡は正統後継者ではありましたが、秀衡のトロイカプランのために権限が制限されています。またトロイカ体制で1人に人気が集まると地位も危うくなります。危うくなるだけではなく、権力継承が十分でない時期ですからクーデターの危険性さえあります。なんと言っても偉大な先君秀衡が義経を買っていたのは周知のことであったと考えるのが妥当だからです。

そういう状況で義経を自分の薬籠中に丸め込める程の大物は滅多にいません。泰衡が凡庸であったかどうかは定かではありませんが、取られた手段は常套中の常套である抹殺です。泰衡への後世の批判はこの一点で強いですが、結果論としてではなく当時の後継紛争からして当たり前の手段を取ったに過ぎなかったと見ています。

泰衡だって頼朝が攻めてこなければ、義経殺害後もそれなりに奥州藤原氏を受け継いだんじゃないかとも思えます。


”if”はあったか

”if”とは奥州藤原氏が生き残る選択枝です。これには奥州藤原氏の繁栄の理由はなんであったかを考える必要があります。もちろん藤原三代の当主が英邁であった事、豊富な砂金を資金源にできた事は大きな理由です。それらは繁栄のための必要条件ですが、十分条件として中央の権力闘争の蚊帳の外に置かれた事が大きかったと思っています。単純にはハズレの地であるから大人しくしていれば無視されたです。

摂関政治の末期から院政、平家台頭は言ってみれば、政権の主人公が武家になる移行期です。公家から武力を持つ武家に政権が変わっていったのは、奥州藤原氏の存在感が変わる時期になったと見ます。武家は自分の競争相手の存在を基本的に許しません。公家なら化外の地の夷狄であり関わりたくもない連中になりますが、武家から見れば強力な軍事国家になります。それも大きすぎる存在です。

大きすぎる競争相手は時に手を結ぶ事があるにせよ、結局は武力で叩き潰す存在になると言う事です。源平のある時期、鎌倉の源氏、西国の平家、そして奥州藤原氏の三強が鼎立する形になりましたが、このうち一強が消滅すれば残りが覇権を競うのは武家としての宿命にならざるを得ないと見ます。秀衡はこれをどう見ていたかになります。

秀衡にすれば源平対立時代が続くだけで奥州藤原氏は安泰と計算していたかもしれせんが、源平対立に終わりが来れば、その勝者が奥州藤原氏の併呑に動くのはもはや武家の原理です。では奥州藤原氏が中央に進出する意図があったかと言うと、上述した様に薄いと考えます。ここが最大のネックで、奥州藤原氏が本気で生き残るのなら、源平を叩き潰すほかにはなかったと言えばよいでしょうか。



ベストの選択である奥州藤原幕府を作る意図がなかったとすれば、ベターはあったかです。あくまでも結果論ですが、源氏でなく平家を支援するです。たとえば富士川の時に南進したらどうであったかです。

これもやってみなければわかりません。富士川の時の平家軍の士気は低かったのは事実して良いでしょう。一の谷以降の時のような必死さ、懸命さは平家軍にありません。ただ奥州軍が南下すれば鎌倉軍の富士川進出は難しくなります。そういう状況で平家軍が箱根を越えれば良いのですが、駿府辺りで止まってしまう、ないしは京都に反転してしまう可能性もまた大です。

そんな状態で独力で源氏に勝てるかです。

ほいじゃ平家の士気が高くなった一の谷戦の前、まだ木曽義仲が京都で頑張っている時はどうかです。奥州軍が南下すれば鎌倉側の京都遠征軍は引き返さざるを得なくなります。遠征軍が到着しないうちに鎌倉を叩き潰せれば良いですが、これにはかなり機敏な軍事行動が求められます。鎌倉を殲滅し、頼朝の首を挙げれれば良いですが、鎌倉を落とせなかったり、頼朝が逃亡して遠征軍と合流すれば事態は複雑になります。

そんな状態で独力で源氏に勝てるかです。

では発想を変えて平家でなく源氏に積極的に加担し、源氏に恩を売ればどうかです。源氏にすれば恩は感じても頼朝が奥州藤原氏の存在を認めるかになります。結局壇ノ浦の後の展開と同じになり、史実と同じように鎌倉軍に奥州は踏み潰されると考えるのが打倒です。平家亡き後の「藤原 vs 源氏」は選択の余地なしです。

このシチュエーションは藤原氏に勝ちは無しです。


どうもなんですが、頼朝が京都を本拠地とせず鎌倉を選んだ時点で、奥州藤原氏は単独で源氏と覇権を競う以外に選択の余地は残されていなかった気がしてなりません。では秀衡の選択が愚かだったかと言えば、これはかわいそうです。秀衡の判断は頼朝は平家同様に京都で政権を握ると見ていたはずです。これは当時の常識です。つうかこれ以外の選択を考える方が無謀です。

頼朝が京都にさえ行ってくれれば、清盛の二の舞をするはずです。奢る源氏時代の到来もありますが、頼朝と後白河法皇の京都直接対決も起こり、頼朝にしてみても奥州は大人しくさえしてくれれば放置状態になった可能性は大です。そういう予想も当時的には妥当すぎる判断でもあります。そのうえ源氏は平家に較べて係累の仲は悪いので、京都の主導権を巡って骨肉の争いが展開されてもおかしくありません。


結局のところ戦術の天才である義経が余りにも手際よく平家を壊滅させた事により鎌倉軍の奥州進攻時期が早まり、政治の天才頼朝が根拠地を鎌倉に据えた事により鎌倉と平泉が両立出来ない関係になった事が歴史の流れだと思わざるを得ません。

中尊寺金色堂も見た事がありますし、毛越寺の大庭園も見た事はあります。往時の藤原氏の権勢は十二分に偲ばれましたが、奥州人が本気で天下を狙う様になるのは、やはり政宗の登場まで時間がかかったと言う事でしょうか。しかし政宗は台頭時期が遅すぎ、天下を狙う前に秀吉政権が樹立し、さらには家康政権が確立してしまいます。

政宗も大きな勢力を築き上げはしましたが、とても秀吉や家康と雌雄を決するレベルには程遠く、大人しく仙台で一生を終える以外に生き残りの選択枝は無かったと見ます。

一方の藤原氏は誇張があるとは言え奥州17万騎の大軍と、当時的に破格の財力を擁していました。また年齢がちとネックになりますが、英主とされる秀衡の下に強い結束もあったと見ています。時期も源平争乱期に源氏と雌雄を決するチャンスはあったのは間違いありません。その気なれば政宗より遥かに天下に近かった事になります。しかし動かなかったです。


秀衡も政宗も奥州の生んだ英雄です。仮に秀衡が伊達家にいれば、史実通り戦国期を潜り抜け、江戸時代も大名家として存続したと思っています。それぐらいの器量は秀衡に十分あったと思います。では政宗が奥州藤原家にあの時期にいたらですが、これこそが歴史の”if”になるかもしれません。