ある事件への雑感

私の個人的な雑感ですから、その程度にお受け取り下さい。何かの悪事もしくは宜しくない事をを取り締まろうとする時にルールが作られます。たとえば、ゴミを撒き散らされて困っているのなら、ゴミを撒き散らす人に何らかの罰則を設ける話の延長線上の話です。人は宜しくない事と罰則を天秤にかけて、罰則を喰らうよりルールを守る方を選択するのを期待しての事と言えばよいのでしょうか。

ただ罰則が軽ければ、罰則受けてもあえて宜しくない事をあえて選択する人間も出てきます。世の中そんなものです。だから罰則の多くは累積犯に厳しくなっている様になっている事が多いと思っています。

ほいじゃ、累積犯に厳しくして宜しくない事を防ぐ効果を狙うのなら、最初から厳しい罰を与えればどうかの発想は出ます。つまり最初の罰則が軽すぎるから、累積犯が出現するわけであり、最初から重ければ宜しくない事をする人がそもそも出ないと言う考え方とすれば良いでしょうか。

ただそうなれば、出来心とか、うっかりとか、おふざけの度が過ぎたの類もいきなり重罰になります。罰則を犯す人は、全員が累積犯になるわけでなく、罰則に懲りて二度と手を染めない人間も少なくないからです。そういう一度で懲りるタイプの人間にいきなり重罰はやりすぎぐらいの考え方としても良いと考えています。


重罰化思想の度が過ぎた先例は幾つもあると思っています。私が知っているのなら、長く続いた春秋戦国時代を統一した秦の体制がそうだと思います。秦の軍事力が中国統一まで高まったのは、法家思想が持ち込まれてから著明になったとされます。法家思想も実はあれこれ細分化されるのですが、秦が採用した体制はかなり極端なものだったとされます。

中国統一を目指す軍事国家であり、文化的にも他の中原諸国から遅れていた事情があったので仕方ない部分もあったとは思いますが、まさに信賞必罰体制で、賞も確かに十分報いたようですが、逆に罰も非常に重い体制が構築されます。中国統一の過程ではさほどアラは露呈しなかったようですが、統一後に欠点が強く出てきたのが秦が短期政権に終わった理由の一つと考えられています。

軍事だけなら重い罰があってもまだしもだったのですが、これが民生全般に広がります。また秦本国自体はそういう体制が敷かれてまだしも順応していましたが、当時でも中国は広く、人民も多いと言う事です。慣れない秦の厳罰体制に民衆は息苦しさを感じる事になります。

秦の天下が大きく揺らいだのは陳勝呉広の乱ですが、あれも秦の重罰主義が一因であり、重罰を受けざるを得ない立場に陥ったものが、罰を受けるより秦を倒してしまえに動いたのが大きなポイントだったと考えています。重罰主義は国民を強く従わせますが、従わせきれなかった時には大爆発が起こる事の一つの証拠と思っています。


秦の後に天下を握ったのは漢の劉邦です。劉邦が行った有名なものに法三章があります。たった三章で法は足りると宣言しています。これは言うまでもなく秦の厳罰体制に辟易してた民衆の心を掌握するものであったのは言うまでもありません。劉邦法三章は歴史に残る故事ですが、劉邦式の法三章がベストかと言えば、そうでもないところが難しいところです。

前漢後漢と過ぎ、時代は三国志の時代になります。蜀の政治を司った諸葛孔明は、かなり厳しい法制を敷こうとしていました。それを見たブレインの一人が、劉邦の様に法三章で人臣の心をまずつかむべきだと進言します。これを聞いた孔明は、「それは一を知って、二を知らないことだ」と答えます。

劉邦法三章で成功したのは、あくまでもその前の秦の厳罰主義に拒絶反応が強かった背景を知らねばならないとまず説きます。当時の蜀はそれ以前の統治者が緩い政治体制を敷き、緩いが故の社会体制の混乱に困っている状態だとの観察を述べ、緩くて困っているときにさらに緩くしても意味はないと結論します。孔明の治世がどれだけ見事なものであったかは、もはや伝説の範疇です。


この緩いと厳しいのさじ加減は非常に微妙です。時代は遡って春秋時代の鄭に子産と言う大政治家が出現します。当時の超大国であった晋楚の二大大国に挟まれながら、内政・外交に見事な手腕を発揮して、国を栄えさせたとされています。

この子産が死に当たり、後継者である子大叔に遺言します。子大叔の性格も欠点も良く知っている子産は、優しい政治は難しい、厳しい政治で臨むべきだと言い残します。子産の死後宰相の地位に就いた子大叔はどうしても厳しい政治を行なうに忍びず、優しい政治を行ないます。しかし国は乱れ、子大叔は子産の先見の明にひたすら驚嘆する事になります。


厳罰主義が目指す一つの目的はゼロリスクです。ではゼロを目指す手法論はどうなるかです。ゼロを目指すためにはクロを摘み上げただけではゼロになりません。クロを根こそぎ抹消してもゼロにならないと言うことです。ゼロにするにはグレーも根絶する必要があります。クロとグレーの違いなど、結果論でしかわかりませんから、クロだけでなくグレーも根絶を目指す必要が出てくると言う事です。

ただグレーと言っても、クロに近いグレーから、白に近いグレーまであります。ゼロを目指す厳罰主義はクロに近いグレーはもちろんの事、白に近いグレーまで根こそぎの根絶を目指す様になると言えば良いでしょうか。ごく簡単に言えば、1件の本当のクロの発生を防ぐために、100件、1000件のグレーも巻き添えにしていく政治になります。

そこまでグレーを法で取り締まれば、確かにクロの発生はゼロに近づける事は可能です。その代わりに本当はシロであったものも幅広く罰せられると言う事です。グレーの中にはクロも混じっていますが、シロもまた多数含まれているからです。24時間365日、常に真っ白であり続けることの大変さは誰でもわかると思います。ほんの僅かでもグレーゾーンに足を踏み入れた瞬間に厳罰が待つ社会の大変さはすぐに想像出来るはずです。


一方で法の運用はゼロリスクを目指す厳罰主義に傾きやすい面があると考えています。法による罰の適用に「推定無罪」の精神が常に強調されるのはそのためだとすれば勘ぐりすぎでしょうか。気分や感情で人を罰するのではなく、可能な限り明確な証拠に基いて罰を定めようとするのも、個人的にはその表れだと考えています。

現代の法運用の基本は、グレーを許容するだけでなく、クロであっても明確に立証できないものも許容するものであると私は考えています。クロを取り逃がす事を重視するのではなく、クロとした者の中にシロが混じる事を極力避けようとするとすれば良いでしょうか。何故にそういう考え方になったかは、様々な要因や歴史的経緯があるとは思いますが、言えるのは現在はそうなってぐらいはしてもよいと見ています。

厳罰主義は現代の法運用の考え方とはある意味対極にあり、シロがどれだけ混じろうがクロが出ないことに至上の価値を置く方針と考えます。クロさえ防げれば、どれだけのシロが犠牲になろうとも「たいした事ではない」の法運用です。


クロの防止のためにシロの犠牲を厭わない法運用と、クロとした者の中にシロが混じってしまう事を怖れる法運用のどちらが優れているかは、それこそ時と場合によるぐらいしか言えないとも考えています。

法運用はイコール政治と置き換えても構わないかと思います。ごくごく一般論からすれば、社会秩序が混乱している時には厳しい政治をあえて行う事も必要かもしれません。逆に安定した社会秩序がある時には優しい政治が望まれるぐらいは言えます。

秦は天下統一のための軍事力強化のために、極めて厳しい政治を行っていますが、劉邦法三章が偉大であったのは、天下は楚漢戦争で混乱している様に見えても、社会秩序と言うより、社会秩序をさらに支える社会規範は堅固と見て、あえて優しい政治の方針を打ち出した点だと見ます。通常なら混乱の時代であるから厳しい政治を選びそうなものですが、それは不要と見切った点だと考えます。

これを裏付けるのが孔明の方針で、蜀を統治するに当たり、社会秩序の根本の社会規範まで緩んでいると見抜き、これを引き締めないと国の運用が不可能とした点です。だからこそ、見た目は同じような混乱状態であっても、あえて厳しい政治を選択したと言えます。

鄭の子大叔のケースは非常に微妙なのですが、前宰相の子産が絶妙すぎる政治であった点が大きかったと思います。子産は厳しさと、優しさを巧みに使い分けていたと思いますが、治世の晩年は優しさにかなり傾いていたと見ます。これは大宰相の子産への絶大な信頼がベースになっており、その事すら子産は熟知していたと考えています。

子産が後継者の子大叔に厳しい政治を行なうように遺言したのは、現在の優しい政治は子産あってのものであり、子産を受け継いだものが同様の政治路線を取れば、優しさが緩みになり、社会秩序の混乱を招くのは必至であるとの判断と考えます。

もう少し言えば、晩年の子産の政治は優しい政治であったかもしれませんが、優しい政治を作る前の社会秩序・社会規範の確立のためには厳しい政治を行なっていたと見ます。厳しい政治で基盤が出来上がり、さらに今は優しいが怖かった時代の子産の政治が人民の記憶に残っているうち、いや実際に子産が宰相の椅子に健在のうちは誰もが社会秩序・社会規範を自然と遵守し、厳しい政治すら行なう必要が無くなった状態とも言えます。

子大叔の失敗は、劉邦孔明と逆で、社会秩序の崩れが見抜けなかった点になります。締めるべき時に緩めてしまったが故に混乱を招いていますが、それほど政治のさじ加減の判断は難しいの一例ぐらいに解釈しています。

社会秩序・社会規範の状態を見抜くのは、これほど難しく、これを的確に見抜ける政治家はごく少ないとして良く、見抜けたからこそ劉邦法三章や、孔明の政治があれほど絶賛されるとしても良いかと思っています。


劉邦孔明の時代に較べて、現在はよほど社会が複雑になっています。現在において、あれほどドラステックな路線転換は不要と言うか、出来ない時代になっています。それでも微調整は常に求められます。緩んでいるところは少し締め、締めすぎているところは少し緩めるみたいな判断とすれば良いでしょうか。この締めたり、緩めたりの判断基準は今も昔も変わらないと思っています。

かつては国民全体をマスに考えられるほど社会構造は単純でしたが、現在は各分野での細かい調整になります。それでも基本はその分野での社会秩序、いや社会秩序を支える社会規範がどうなっているかの判断です。この判断が的確に出来るか出来ないかが政治の大きな境目になります。

緩んでいるところをさらに緩めても問題ですが、締め過ぎているところをさらに締めたら、秦の二の舞になります。今の日本で特定分野を締めすぎたぐらいで革命まで起こるとはさすがに思いませんが、締められすぎた分野の人間の社会規範は確実に変質します。場合によっては逃げ出していなくなりますし、逃げ出さなくとも、締めあげられた状態に対応する様に、後ろ向きの順応を行うと言う事です。

緩んでいるところを適度に締めたら前向きの対応になりますが、締め上げられすぎると後ろ向きに順応するのが人間です。しかしそれを的確に見抜くのは非常に難しいのも政治です。しばしば不要なところを緩めたり、逆に締め上げすぎての混乱を助長する例は珍しいものとは言えません。


かくも政治の舵取りは難しく、その決定は幸をもたらすのと裏腹に不幸も撒き散らす事があります。ただ誰かが舵取りを行なわなければならず、行う政治家には大きな権限も委ねています。委ねるに当たって、最低条件は私怨と公憤を混同しないという事です。私憤が公憤に広がるケースはありえても、私怨は公憤に決してつながらないと私は考えています。

ここで政治評論を職とする人間もいます。政治評論や政治批評は国民の誰にでも可能なことですが、職とするからには政治家に準じる姿勢が求められると私は考えます。やはり私怨と公憤の混同は認められないと言う事です。ましてや私怨と公憤を混同している事さえ気が付かなくなれば、もはや職業の資格さえ無いとしてよいでしょう。

いや資格は無いはさすがに言い過ぎですね。ここはもっと柔らかく、そうあるべきぐらいが妥当でしょう。「べき」もまだ言い過ぎで、そんな政治評論家が存在していてくれたら嬉しいぐらいが現実的かもしれません。よく考えなくとも評論家も自称業ですから、すべては自主規制と言うか、どれだけ自分の職業にプライドを持つかは本人の裁量次第だからです。

選挙と言う関門を通り抜けた政治家と並べて書いたら、政治屋にさえ謝らないといけません。この程度は政治の初歩の初歩に過ぎませんが、漠然と抱いている私の雑感でした。