MRICの量と質

2/9付MRICより、

ここから少し考えてみます。


まずは本文への感想

書いたのは医学部5年生となっていますから、学生レポートとしてはかなり秀逸な部類に入るんじゃないかと思います。仮説の立て方、検証のためのデータの収集と提示、そこからの考察と結論は良く出来ていると感じます。この手のものの採点官なんてやった事がないので自信がありませんが、高い評価が付きそうな気がします。Bugsy様、どう思いますか?

学生レポートとしては秀逸と思いますが、これが論文レベルで見れば話はかなり変わります。とりあえず結論が陳腐です。医師が多いところの方が論文も多いですが、そもそもその逆がまず成立しないですから「だからどうした」の感想しか出てこなくなります。こういう当たり前の結論を論文にするには、その論証過程が重要になります。

論文と言っても均質ではありません。掲載される雑誌の格もあります。また掲載後の引用数も重要な評価です。さらに言えば論文を書くには研究が必要であり、研究にはカネとヒマが必要です。この記事ではヒマの面についてはそれなりに考察していますが、カネの面については完全に抜けています。

研究施設の充実や良き競争相手が身近にいてこそ切磋琢磨が生まれ、論文が量産されていく側面はあります。良質の指導者に恵まれるというのは大きな条件で、良質の指導者はカネと設備が恵まれているところに集まりやすくなります。カネが豊富なところには良質の指導者が集まり、そこに良質の研究者が集まり、集まった研究者が論文を量産していくという循環が確実に存在します。

せめて量が質にの結論を導くのであれば、ヒマの面だけではなく、カネの面の諸条件を検証しても、結論がシンプルに「量(人数)= 質である」に帰結するぐらいの話にならないと興味も関心も引かないレベルになります。

医学部5年生がこのレベルの学生レポートを書けるは評価に値しますが、問題にしたいのはこのレベルの学生レポートを重要な医療情報として発信する、発信元の見識が問われるのではないかと感じます。


MRICへの感想

私のところにもMRICのメルマガが届き始めたのは、え〜と、福島大野事件が話題になり始めた頃だったと記憶しています。どうやってメアドを調べたのか存じませんが、とくに申し込みをした記憶もありません。同じような感想を持った医師も当時もおられ「なんじゃ、こりゃ」的な感想を読んだ事もあります。

それでも当初は内容的に興味深かったので、とくに配信拒否も行わずに今日に至っていますが、どうにも年を追うごとに変質と言うか、あからさまに言えば劣化している感じがあります。もちろんかなりの数の発信をされているので、書き手によるアタリ・ハズレも出るのは仕方がないのですが、どうにもハズレと言うか、ハズレまでいかなくとも首を傾げる内容のものの比率が増えているように感じてなりません。

まあ、無料の情報配信ですから文句を言うような筋合いではないと言えばそれまでですが、情報の受け手として感想を書くのもまた自由かと思います。


劣化と言うと言葉が強すぎるので今日は違和感としたいと思いますが、MRICと言っても誰かが掲載内容、掲載の方向性を決めているわけです。当たり前ですが、機械的に書き手を無作為抽出して情報発信している訳ではありません。ですから編集意図と言うのがそこに存在します。

ここで編集意図があるのが悪いとしているのではありません。あるのが当然なんですが、誰がそれを決めているかと言えば、主宰者になります。MRICに対する違和感は主宰者が持つ考えとの違和感としても良いかと考えます。MRICと言っても何千人もの人員を擁する大組織とはとても思えませんから、私の違和感は主宰者その人への違和感としても良さそうです。


主宰者への感想

MRICの主宰者が福島大野事件で重要な役割を果たしたのは私もしっかり記憶しています。その時のリスペクトから当ブログのわずか2つしかないリンク集に周産期医療の崩壊をくい止める会が存在します。もう一つのモトケンブログについては、かつてスノブな法律論争が激しかった頃に「向こうでやってくれ」のために設けたものです。

主宰者個人については、個人的な事は会った事も無く、まったく存じ上げません。知るのは書かれている文章だけです。わずかに実際に知る人から情報を得ていますが、非常に頭の切れる方だと聞いています。文章からもそれを裏付けるものはあります。

ただもう一方で頭が切れすぎるの評も聞きます。少ない情報から全体像を把握する能力は凄いとされますが、あまりに頭の回転が早すぎるのも時に欠点となるです。情報入手から全体像を把握し即断する傾向が強すぎて、結果として方向違いになる事もしばしばあるです。


喩えとしては試験問題を解くのなら卓越した能力者であろうです。試験問題は様々なキーワードを巧みに散りばめて、そこから必要な情報を拾い上げれば正解は自ずと一つに絞られる構造になっています。そういう状況なら非常に優れた能力を発揮します。かつての福島大野事件で主宰者が積極的に関りだした時には、必要な判断材料がほぼ出尽くしていたと思います。

「出尽くしていた」は結果からもそうであり、そういう状況での判断能力は申し分がなかったです。私も含めて多くの人は、福島大野事件から主宰者の存在を知ります。状況を見極めての的確な状況判断は、主宰者が他の事象であっても普遍的な能力を持つと判断したわけです。


主宰者の能力に疑問が付けられ始めたのは、東大治験騒動と感じています。治験に関しては私も知見が乏しく、当初は主宰者の判断こそが正解だろうと思い込んでいました。ですからそれに副って私も主張を展開したのですが、泥縄式に調べてみると、どうもそんなに単純な問題ではなさそうだの感触を抱く様になります。朝日の指摘もどうかの部分は間違い無くありましたが、主宰者の反論も少々無理があるです。

東大治験騒動の背景は複雑で、単純にシロクロがつけられない問題があると言うところです。これがペーパー問題と社会問題の大きな相違点です。ペーパー問題は必ず正解があり、これを誤らずに見つけ出す事がポイントですが、社会問題は一概にシロともクロとも言い難い事情が多々含まれています。片方の側から見るとシロに見えても、反対側からはクロなんていくらでもあります。

シロやクロだけでなくグレーもあり、さらには時代の変化によりかつてクロだったものが白に変わったり、その逆も多々あります。過渡期になればさらに問題は複雑化します。解答は必ずしも一つと限らず、複数の選択枝から比較的マシなものを選ぶ作業になる事も珍しい話ではありません。選ばれた解答も不満は残り、その後もスッタモンダなんてのもありふれたお話です。

ただ東大治験騒動の時は、福島大野事件の名声もあり、主宰者の意見に疑問を抱いたものでも、騒動の当事者である点や誰でも勇み足がある点を考慮して、まださほどの問題としては認識されずに終わったと思います。


それでも東大治験騒動は伏線として残りながら、福島の放射能問題が起こります。放射能問題については、まさに無数の論者が言及していますが、主宰者もまた積極的に発言を繰り返しています。社会的な大問題であり、医療としても関与する問題ですから発言されたのは不思議でも何でもありません。

ここで主宰者は福島の行政を叩きます。確かに不手際もありましたし、福島の行政をあの時期に叩いた識者はそれこそ数知れずです。ただ叩き方があの主宰者にしては「ちょっとおかしい」とか「度が過ぎる」と感じた者は私だけではないと思います。行政対応なんて完璧で当たり前、出来なければ叩かれるのが宿命ですが、忘れてはならない事は、そう簡単に取り替える事ができるものではない点です。

たとえば福島の県庁に勤める役人はほぼ福島県人として良いでしょう。被害地域はあれだけ広範囲に広がっていますから、どの役人も多少の違いはあってもどこかで被害地域、被害者と関わりがあり、人間としてなんとかしたいと走り回っているのは間違いありません。それこそ前代未聞の惨事ですから、対応にある程度の齟齬が出てしまうのは不可避ですが、それをカバーするために懸命に努力されているわけです。

批判は不要とは言いませんが、非常事態は刻々と進行していた訳であり、批判より非常時に弱い行政組織をいかに助け、これを活用する方向に思考を向けるべきではないかと言う事です。そこでの批判と助言や援助のバランスがどうにも違和感を感じてしまったと言うところです。


臨床と研究と社会問題

限られた情報から全体像を素早く判断して即断出来る能力は臨床家としては十分な適性があります。医療現場なんてそんなもので、ゆっくり考えるヒマはないので、とにかく診療方針を決めなければならないからです。診療を進めるうちに新たな情報から判断が変われば、それこそ即断で方向転換を行うわけです。こういう事は医療のごくごく日常です。

研究であってもある程度OKかと思います。研究とは仮説に対する検証の側面がありますから、これも限られた材料から仮説を打ち立て、その検証仮定で仮説が怪しくなれば、仮説を否定して検証の事実に基づいた新たな仮説の検証に方向転換するのも珍しいお話ではないと思います。ここで即断まで必要かどうかはわかりませんが、ある段階での研究の見切りは必要と思います。

臨床であれ研究であれ、途中段階で方向転換するのは何の問題もありません。むしろ最初の判断にこだわり過ぎる方が問題になる事が多いと思います。進むに連れて増えてくる情報量に対する臨機応変の対応は褒められこそすれ、貶められる事はないと思います。


これが社会問題となると必ずしも同列とはなりません。社会問題の多くは必ずしも一つの正解があるわけではありません。せいぜい相対的にこっちの方が正しそうだぐらいです。相対的であるが故に、一つの解答についても異論反論が必ず渦巻きます。解答と言ったところで、誰もがハッピーになる解答に必ずしもならないからです。

そういう社会問題に対し、ある解答を提示したら一つの立場が出来てしまいます。一度提示した解答は臨床や研究に較べて変更し難いものになります。もちろん変更しても構わないのですが、変更するという行為は時に識者としての価値を下げてしまいます。これは識者が負っている社会的立場が大きいほど重いものになります。

私のような片隅の匿名ブログの意見ですら、従来の主張と少しでもずれると読者が感じたら、厳しい指摘が入るほどのものです。意見を変えるときには、それなりに慎重な配慮と努力が求めらると言う事です。ましてや掌を返す様にコロコロと意見を変えると誰も信用しなくなります。

とはいえ変えなければそれで良いかと言えば、これも難しいところで、状況の変化が明瞭であるにも関らず、カビの生えたような意見を振り回したら見捨てられます。プロの識者業とは本当は難しいものであると思っています。

それでもとりあえず、社会問題に対し最初に発言した時の意見は重要です。一度出せば、そうは変えられないぐらいの慎重な判断が本来は求められるはずです。別に即断でも構わないのですが、聞く方は熟慮の末の決定として受け取るからです。無駄に長く考えるのが良いわけではありませんが、思考過程については聞き手は配慮してくれない点は心しておくべきかと思います。


限られた材料から物事を即断できる能力はすばらしいもので、即断の結果が熟慮と同等であれば何の問題もありません。これが「即断 = 浅慮」となれば話は少々変わります。臨床ではたとえ浅慮であっても、積み重ねらる即断でほぼ問題なく対応できますが、社会問題に対し同様の手法論を取ればチト問題と思います。

もっと問題になるのは、浅慮の結果であってもこれを省みない時です。社会問題での方向転換は大きな代償が必要なときがあり、そこを慮って浅慮のまま突き進んでしまう時です。もっともっと問題になるのは「浅慮 = 絶対の回答」状況に陥る事です。聞く耳をもたない状態と言えばよいでしょうか。これは臨床でも研究でもはまり込んではならない状況です。


それでもの期待

福島大野事件、東大治験騒動、福島放射能問題と3つの大きなポイントを通過しました。現在の総合評価は上述した通りです。それでも私は次を待ちたいと思っています。まだ最終判断を下すには早すぎるです。ここも断っておきますが、評価レベルは凡百の電波識者とは次元が違うものです。私が医療問題の進路を考える時に指針として参考に出来るかどうかのレベルです。

次での対応が現在の否定的評価の延長線上なら、もはや言う事は何もありません。評価は決定されたです。しかしそうでなければ、十分にリカバリーの余地ありです。どうしても私には福島大野事件での残像が色濃く残っているので、今の時点で評価を下してしまうのは躊躇われるからです。次に大きな問題になりそうなのは・・・あえて挙げれば再びの事故調ですが、ちょっと注目しておきます。このレベルの問題でスカタンされたら私もあきらめる事にします。

そうそう「あきらめる」とはかなりの信用を置いて参考にするから、是々非々で意見を吟味するへの変更になります。信用度のランク格下げぐらいのニュアンスと受け取ってもらえれば幸いです。