ディストピアからの連想

昨日の匿名希・望様の

今回の件に関しては、本丸は消費税増税だろうと思いますが、介護問題で顕著な伝統的家族関係への回帰思想とか、新設不正調査機関のポスト狙いとか、様々な思惑が絡みあった末に、一族の生活困窮者を姥捨てよろしく抹殺する「びっくりするほどディストピア」な社会に行き着くイヤな想像が頭を離れません。

恥ずかしながら「ディストピア」ってなんだっけと引っかかりました。聞いた事があるレベルだったので、個人的にお勉強です。参考資料は2つで、

ここからです。まず話はユートピアから始まります。これはトマス・モアがそのものずばりのユートピアと言う作品を発表したのが起源とされます。架空の世界に仮託して、現実世界では解消できない矛盾を解消しよう、ないし現実世界を風刺するぐらいの狙いぐらいに解釈すれば良いでしょうか。この架空世界に理想の世界を作ると言うモチーフは、とくにSF作家のモチベーションを掻き立てたようで、幾つものユートピア文学が発表される事になります。

その辺の系譜は「ユートピアディストピア」に興味深く書かれています。一部読んだことがない作品もありますが、ユートピア文学の発展系の一つがディストピアぐらいに考えても良いようです。ユートピアの発展系がディストピアは皮肉な感じがしますすが、ここは「ユートピアディストピア」からの引用です、

 いくつか通常とは少し違う特徴を持った人々のユートピアを見てきた。これらのユートピアは、実現の可能性は薄いがその分想像力豊かで、何より現実に対するあきらめや妥協が入っていない分だけ、真のユートピアに近いといっていいと思う。だいたい現実の人間社会だけを生真面目に見ていると、あまりにもさまざまな問題が目についてきて、人間が人間であるかぎり永遠にユートピアの実現などありえないような気がしてくるものだ。

 ディストピアはそういう悲観的な人間観から出てきている。ジョージ・オーウェルの「1984年」(1949年、イギリス)やオルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」の中のユートピアディストピアになってしまっているのはなぜなのか。それは、人間は放っておけば無秩序状態に陥るのだから、正しい規律や道徳によって管理されなければならない、という人間不信の考え方が前提にあるからに他ならない。

ユートピアディストピア」を書かれ方の意見ではありますが、ユートピア世界を追及した一つの発展系がディストピアぐらいに解釈して良さそうです。ジョージ・オーウェルの「1984年」が1949年、オルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」はさらに遡って1932年となっていますから、もう80年以上の系譜があるようです。

ちなみに初めて具体的にディストピアの言葉が使われたのはwikipediaによると、

ディストピアという語の初出は、オックスフォード英語辞典(OED)によれば、ジョン・スチュアート・ミルが1868年に行った演説である。

またSF中の起源もさらに遡り、

ディストピア文学のはしりはH・G・ウェルズの『タイム・マシン』(1895年)や『モダン・ユートピア』(1905年)あたりとなろう。ジュール・ヴェルヌが書いた初の未来小説である『二十世紀のパリ』(1865年)は、SFにおけるディストピア小説の先駆的な試みといえるが、当時のヨーロッパにおける科学技術を賞賛する風潮になじまず、作者の生前は刊行されなかった。実際に急増するのは1920年代、ソビエト連邦が誕生し、西欧では各国で全体主義が勃興するころである。

なるほどと言う感じで、オルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」は読んだ事はありませんが、ウェルズのタイムマシンに描かれる未来社会はユートピアとはとても言えなかったと記憶しています。それよりwikipediaで注目しておきたいのは、

へぇ、全体主義の世界が未来にあるとのモチーフで、ディストピア文学が発展したとも言えそうです。これは起源論ではウェルズのタイムマシンまで遡れるとしても、現在に至るディストピア文学の源流はオーウェル1984年であるぐらいの見方も出来るんじゃないかとも思えます。「ユートピアディストピア」には「1984年」についても触れており、

 オーウェル社会主義の最終的な勝利を願いながらも、「1984年」において社会主義者がめざすようなユートピアがどんなにおぞましいものかを書かざるをえなかったのは、その頃イギリスにいた社会主義者が自分たちの信条に反するものはすべて異端として切り捨てる排他的な人間ばかりだったということが一因であるようだ。オーウェルのまわりにいた社会主義者は「何が正統的であるかを生活の隅々にまで徹底させた」人たちで飲み物にまで正統と異端の区別をつけるほどであったという(オーウェル「ウィガン波止場への道」P193)。

 では彼らはいったいどんな世界を望んでいたのだろうか。オーウェルはこう書いている。「多くの社会主義者の心の底に横たわっている動機は、単に秩序に対する異常なまでの願望ではないか、とわたしは思う。・・・彼らが根本的に望んでいることは、この世界をチェス盤のように単純に割り切ってしまうことだ。」(同書P194)「1984年」の中で絶対的な規律(いや、正確に言うと絶対的ではない。党の考え方は時間とともに変化し、その変化にはいかなる論理的な理由もない。)を押しつけている党は、おそらくこの完全な秩序への衝動につき動かされている。だが、すべての人間を完全な秩序のもとに位置付けるというのは、それ以前のユートピア文学でもしばしば見られたものだが、結局それは親が子供にやたらに気遣いをするのと同じことで、余計なお節介でしかない。結局人間は国家のためではなく、自分のために生きているのだから、仕事や生き方をみんなの必要に合わせたりはできないのだ。(もっとも、こういう社会への欲望は誰の中にでもあるものなのだが)

なるほどです。ユートピア文学の前提は架空世界です。架空であるが故に、この世の不都合な部分を設定で消去した欠点の無い世界を描こうとします。それ故ににユートピアの日本語訳が理想郷になるわけです。ただ現実社会の問題点を設定で消去してしまうと、あまりにも現実社会と遊離してしまいリアリティがなくなってしまうの問題点が発生したんじゃないかと思います。

とくに未来社会、とくに近未来社会を想定する時には、現在からの延長と言う縛りが出ますし、問題点を解消するにもより合理的な説明が必要になったです。文学の発展とはそういう面は確かにあります。では現実社会の問題点は時間と共に解消するかと言えば、これでは余りにもプロットが御都合主義過ぎるです。リアリティを重視すればするほど、解消されないものとして残るになります。

プロットとしては解消されるのではなく、覆い隠される社会が出現する方向になったぐらいで良いでしょうか。矛盾点を社会制度によって強引に封じ込めた世界の出現です。必然的に統制社会による「完全秩序」の実現がリアリティのある未来世界になり、統制社会の目に見えるお手本が全体主義なり、旧ソ連などの社会主義国家であったです。

現在社会で問題となるのは、個人の欲望の存在であり、これを架空世界の御都合主義の設定で解消しようとしたのがユートピア文学であり、統制社会によって封じ込めるのを想定したのがディストピア文学ぐらいの解釈じゃ粗っぽいですかね。

解釈は粗いですが、私の知っているディストピア文学では良く用いられるプロットです。もちろんそれ以外のディストピアの設定もありますが、一つの類型として良く用いられているモチーフではあります。ナチス全体主義は第二次大戦で滅びましたが、ソ連による社会主義体制は現実に広く存在したわけですから、そういう体制がやがて世界を覆いつくすのモチーフはリアリティが十分にあると言うところかもしれません。



さてさてなんですが、完全秩序による統制社会を人間は欲するかです。難しすぎるテーマなんですが、指向はあると私も思います。人間が生きていくためには共同(共棲)社会が必要です。その社会が無秩序である事は基本的に欲しません。共同社会には必ず秩序が必要と言う事です。また秩序も広く行き渡る方が基本的に望ましいです。

秩序もエエ加減より、徹底した方が望ましいもあります。たとえば順番待ちですが、これを破る者には良い感情を抱きませんし、順番破りが横行すれば「これを排除すべし」の声が高まります。高まった声は秩序を守るための強制力を容認します。別に不思議なステップとは思いません。そうやってドンドン秩序を広げた行き着く先が完全秩序であり、これを守る統制社会になるわけです。

ですが、現在の社会は必ずしも行き着いていませんし、行き着く様子も今のところあまりありません。国家レベルで出現したと言っても良い社会主義国家も崩壊しました。今でも残っている国はありますが、その方式が全世界に再び波及しそうかと言われれば、「どうだろう」てなところです。


どうも人間は本能的に秩序を嫌う部分があるんじゃないかと思っています。共同社会のために秩序は必要と理性的に考える一方で、すべてが秩序で覆い尽くされると息苦しくてやってられないです。ですからある程度まで共同社会のために秩序を受け入れるが、これは必要最小限に押し留めておきたいです。御都合主義みたいにも見えますが、人間とはそんなものの様な気がしています。

人間の感情のための無秩序部分と、共同社会のための秩序部分は常に天秤のように揺れ動き、無秩序が大きくなりすぎれば共同社会が維持できなくなり、秩序の度が過ぎると人間として耐えられなくなり、共同社会ごとぶっ潰すエネルギーになるです。だからある程度以上、秩序なり、無秩序に共同社会が振れ過ぎると、どちらであっても共同社会が成立しなくなるです。

wikipediaディストピアの特徴を3つ挙げています。

  • 指導者が自らの政治体制をプロパガンダで「理想社会」に見せかけ国民を洗脳し、体制に反抗する者には治安組織が制裁を加え社会から排除する(粛清)。
  • 表現の自由が損なわれており、社会に有害と見なされた出版物は発禁・没収されることがある。
  • 社会の担い手と認められる市民階級の下に、人間扱いされない貧困階級が存在し、事実上貧富の差が激しい社会となっている場合もある(格差社会)。

もちろんディストピア文学の特徴ではあるのですが、現実社会でもありえそうな話でもあります。ここまで秩序が進むと社会が崩壊するサインみたいなものです。歴史上でもディストピアの特徴を備えた国はあったと思いますが、いずれもそうなってから長くは持たずに崩壊しているような気がします。もっとも「長く」は定義で見方は変わりますが、今日は共同社会においてあんまり良いサインでないぐらいの受け取り方にしておきます。

でもって現在の日本ですが、そこそこ健全だと思っています。完全秩序と言うか過秩序に振れようとする動きがあっても、逆に無秩序に振れ過ぎる動きがあっても、それなりに修正されて適当なところに揺れ戻る柔軟性は生きている様に感じています。

人間は秩序を本能的に嫌うとしましたが、これは秩序の徹底を嫌うとした方がより正しいのかもしれません。大枠での秩序の必要性を認めても、その中の緩みと言うか遊びの部分が必要ぐらいの解釈です。その部分まで秩序を徹底されると耐えられなくなるです。ではどの程度のお話は・・・これは社会学の専門分野のお話にでもなるかと思っています。


ふぅ、ちょっと解説するのに無理がありました。SFはそれなりに読んだり、見たりはしていますが、実はさほど詳しいわけではありません。ですからユートピアからディストピアの流れと言っても極めて雑で大雑把なものであるのはお詫びしておきます。そうそうこの作品がユートピア文学になるのか、ディストピア文学に分類されるのかは存じませんが個人的に好きなのはハインラインの「夏への扉」です。

発表されたのは1956年となっていますからオーウェルの「1984年」の後の作品になります。まあ、夏への扉が好きなのは作品もそうですが、この作品をモチーフにした達郎の曲のせいかもしれません。最後にYouTubeを貼っておきます。

ありゃ、ピートは本当は猫なんですが画像が犬なのは御愛嬌と言うところで・・・。