政災

奥様の趣味で地元紙を購読しています。当然の様に「阪神大震災の経験を活かせ」みたいな論調がたくさん出ています。それはまあ良いのですが、阪神と言うか、今日はもう少し狭く神戸の経験は活かせる部分もあれば、そうでない部分もあります。巨大な要らざるオマケである原発事故問題を除いても相違点が相当あると考えています。

震災被害が大きかった点では共通していますが、震災被害の質が違うのは今や誰でもわかります。共通しているのはミクロレベルではこれからも数多い悲劇が積み重ねられるであろうと言う事です。ミクロの話をやりだすとそれで終ってしまうので、可能な限りマクロに引いて、復旧ないし復興について少し考えてみたいと思います。


大きな違いは被災場所です。神戸に住んでいる人間はさしての大都市とは思っていません。都市規模としては大阪やましてや東京と違い、手頃でコンパクトである事が魅力ぐらいに感じてはいます。とは言うものの、政令指定都市であり、県庁所在地であり、150万都市です。また阪神大震災の殆んどの被災地を抱える兵庫県は500万の人口があります。

復旧・復興と言っても、これに経済活動が伴ってのものです。住んでいる人間が自活できる様になってこその復旧・復興です。経済活動の基礎のなるのは様々な要因があるとは言え、とにかくにも人が集まらないと始まらないと考えています。神戸も多数の死者があり、被災後に他地域に流出した人々は少なくないとは言え、それでも都市の面目を失わないだけの人口が存在しています。

それだけでなく被災地以外の隣接地域は健在でした。都市としての魅力が残っており、復旧が軌道にさえ乗れば、失われた人口の穴埋めは流入する人口で埋められていきます。人が集まれば経済活動が盛んになり、そこにさらなるビジネスチャンスが生まれるメカニズムがそれなりに働いていきました。今回の震災の被災地は広範囲ですが、とくに三陸海岸沿岸の中小都市にそのメカニズムが働くかは大きな疑問です。


津波と火災の違いも大きいかと思っています。どちらも地域を壊滅させますが、火災の場合は極論すれば瓦礫さえ片付ければ更地になります。更地になれば利用する魅力さえ都市にあれば人は集まってきます。しかし今回の津波はチョット違います。瓦礫を片付けて更地にしても、すぐには人は住めないのが現在の状態です。震災被害、街の壊滅までは強引にでも同じと考え、瓦礫の処理までも同等と考えても後が違うと考えています。

復旧・復興のためには人の力が必要です。復旧・復興を担うのは被災者の中でも気力・余力のある者と、外部からの流入です。神戸の復旧はその両輪が辛うじて回りました。しかし今回はどうでしょう。他地域からの流入は本当に期待しにくいと思います。そうなると厳しい復旧・復興を担うのは被災者だけに頼らざるを得ません。外部からのプラス・アルファの部分は本当に小さくなります。

そうなると被災者の中でも復旧・復興に対し気力・余力のある者は貴重な人材になります。彼らを失う事は復旧・復興に対してどれだけの痛手になるか想像もつかないほどです。復旧・復興のためには牽引車が必要であり、今回の場合の主力は被災者の中でも気力・余力のある者にならざるを得ないと言う事です。


とは言え被災者の気力・余力とて十分とは程遠いものです。彼らに頑張ってもらうには時間が大切です。時間が経てば経つほど、震災後に残された気力・余力は急速に消耗します。その貴重な時間をどう対策として扱われてきたかを考えると暗澹とする事があります。

余力はともかく気力を維持するには希望が大切です。それも目に見える希望です。もっとあからさまに言えば、復旧へのタイムスケジュールであり、もっともっと具体的に言えば、「いつ」「どこ」に生活再建の足場を築けるかです。それぐらいは最低限示されないと、復旧の牽引車として期待される人々だって動き様がありません。


津波の被害地は高台に集団移転の話があります。今回の津波の教訓を活かすなら、出てきて当然のお話と思いますが、誰がどう考えても時間がかかります。余程の強力なリーダーシップをもって進めないと、すぐに暗礁に乗り上げてしまう難題であるのは誰でもわかります。集団移転の問題点はさておき、実務でのリーダーシップの問題以前に、計画が具体的に決定しないと進みようがありません。

この決定が遅れると、それだけで待ち時間が増えます。待ち時間が増えると気力・余力のある者に影響を与えていきます。待ちきれずに他地域に生活再建を求める者も増えていくでしょうし、待っているうちに気力も余力も使い果たす者も出てきます。つまり復旧・復興の担い手たちが櫛の歯が抜ける様に減っていくと言う事です。これがどういう事を意味するか、為政者たちがどれほど理解しているか正直なところ疑問です。


為政者とは行政府である政府だけを意味してません。復旧・復興には立法による決定が必須です。震災以来もう3ヶ月が過ぎますが、どれだけ「時間」を念頭に置いて今回の震災に対応してきたかを問い質したいところです。果たして時間の無さを切迫感として、一分一秒を大切にしてきたかです。

政治は過程も大事かもしれませんが、結果もまた大きく評価されます。震災対策に関しては結果がより重く評価されると考えます。少なくとも今回は決定までの過程が素晴らしかったから、今の遅れが結果として評価できるとは誰も言えないかと思います。

震災は国会の開催中どころか、審議の真っ最中に起こっています。東京ですら震災被害が眼前に展開されています。そこまで目にしながら、為政者たちは何をしていたかを問うべきかと思っています。政治に政争は必然ですが、どんな政争を行いながらも震災対策は別枠で粛々と進めなければならなかったと考えています。どんな理由を並べられようが、政争に震災対策を巻き込んだのは明らかな人災だと考えています。

時間もありました。審議する場所も人員も整っています。政策立案に不可欠な官僚機構だって健在です。外形的には震災対策を行うだけの体制は十分に整っています。後は中にいる人間の問題です。中にいる一握りの人間が汗を流してくれさえすれば、遅れる理由はありません。しかしはっきり言って出来ていません。


今回の震災対策には人災の言葉がよく用いられています。どこまでが本当の人災かの評価は正直なところ微妙な点は多いとは思いますが、震災関連の法案の成立、それに対する予算措置の遅れは明らかな人災と私は思います。出来るはずのものであり、それを行う事を誰もが望みながら遅れに遅れているだけで立派過ぎる人災です。与党も野党も政府もありません。すべてが責任者です。

誰が具体的に悪いと言えないのなら、これは政治そのものによる災害であり、政災と言い換えても良いかもしれません