5/13付産経より、
五百旗頭氏「首相がバカかどうかではない」
政府の東日本大震災復興構想会議の五百旗頭真議長(防衛大学校長)は13日、日本記者クラブで記者会見し、歴史家の視点を持って被災地復興に取り組む考えを強調した。
その上で、応仁の乱(1467年)や戦国時代を振り返り、「国中が、血で血を洗う争乱で乱れに乱れた。今の首相がバカかどうかという問題のレベルではなかった」と述べ、菅直人首相の資質を問うべきではないとの認識を示した。
えらく短い記事ですが全部でこれだけです。まず言える事は五百旗頭氏はもっともっと文章量をしゃべったはずであり、それを産経が編集権でこれだけに圧縮している事です。言うまでも無いバイアスをあえて書けば、産経は姿勢を反首相で鮮明にさせているところがあり、そういう姿勢に沿っての編集が行われている可能性を完全否定する事はかなり困難です。
とは言え記者会見の発言を確認する術がないので、この短い記事から考察してみます。五百旗頭氏が歴史になぞらえて何かを話した事は間違いないでしょう。ただ本当に首相の資質をこの発言で擁護したかどうかも実は不明です。と言うのも、このまま素直に解釈すればボロクソに近い批評を首相に向かって話したことになります。
応仁の乱から戦国期の日本の政府は室町幕府です。そして首相は将軍に当たる事になります。この時期の将軍は、
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義政 → 義尚 → 義材 → 義澄 → 義稙 → 義晴 → 義輝 → 義栄 → 義昭
ここでそのまま将軍位を譲っていればまだ良かったのですが、正室の日野富子に義尚が生まれます。富子は富子で女傑としても良いほどの人物であり、当然ですが義尚を将軍に就かそうとして猛烈に運動を行います。そのために細川勝元に匹敵する実力者の山名宗全に後ろ盾を依頼する事になります。
ここでも義政が義視なり義尚を指名して後継者争いに決着をつければ良かったのですが、政争が激しくなるとこれから逃避してしまいます。逃避した結果、起こったのが応仁の乱です。応仁の乱があれほど大きく火の手が広がったのは、当時の社会的背景が複雑に絡むとは言えますが、義政が指導力、つうか気まぐれを起こさなければ、少なくとも義政の代には応仁の乱は起こらなかった可能性はあります。
室町幕府は歴代政権の中でも中央政府の力が格段に弱く統治力も脆弱であったのは周知の事ですが、それでも義政の時代はまだまだ将軍家の威権は強く、強いが故に後継者争いである応仁の乱が起こったとしても良いと見ています。
義政以降の室町将軍は格段に力を落とします。衰退への道を一直線に転げ落ちたのは説明の必要もありません。義政が八代ですが、その後の将軍で後世に名を残したのは三好・松永に攻め殺された義輝と、最後の将軍義昭ぐらいです。他は歴史スノブが覚えているぐらいの将軍に過ぎません。それだけ存在感が低下してしまったと言っても良いと考えます。
そうなると五百旗頭氏が首相に喩えたのは誰かになります。これも菅首相が義政、応仁の乱が今回の震災ぐらいにしか受け取り様がありません。これは怖ろしい喩えで、応仁の乱当時は将軍義政が政治的には無能であったのは置いとくとしても、将軍と言うか幕府を支える人材にも時局を収拾する程の器量を持つ者がいませんでした。
応仁の乱の基本構図は、細川勝元が東軍を形成し、山名宗全が西軍を形成します。しかし両者とも地方から有力大名をかき集めて気勢を上げるだけで、相手を打ち倒す戦略には事欠いています。ひたすらにらみ合いと小競り合いを延々と繰り返し、延々と繰り返したが故に中央の紛争が地方に飛び火し、ダラダラと戦国時代に雪崩れ込んで行っています。
応仁の乱もせめて源平合戦並に華々しく決戦が行なわれ、それなりに短期で終息すればまだマシだったのですが、勝つわけでもなく、負けるわけでもない戦争状態に誰も終止符を打てなかったのが史実です。その結果として
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国中が、血で血を洗う争乱で乱れに乱れた。
ここで現実に戻ります。五百旗頭氏は首相の意向を受けて復興会議を引き受けたはずです。単純化して言えば首相の要請(お願い)で引き受けたとも言えますし、首相の信頼を得て、首相の考えを体現するために復興会議の議長を務めているとして良いかと思います。五百旗頭氏といえども、首相の背景抜きではタダの人です。
五百旗頭氏は菅首相がいてこそ復興会議で権限を揮えるわけであり、五百旗頭氏がまともに仕事をしたいのなら首相を擁護しなければなりません。なにか五百旗頭氏が保身に走っている様に聞こえるかもしれませんが、実質の立場としてはそんなものです。そんな五百旗頭氏が応仁の乱から戦国期を現在に喩えて首相を擁護するのは変すぎます。
あの時代を現在に喩えると言うのは社会的大混乱が必至と言うのと同じです。これは首相を擁護しようがしよまいが、歴史家と自負して難局に当たる者として口に出してはならないセリフとするのが妥当です。
記者会見の中で五百旗頭氏が応仁戦国の時代の話を持ち出した事だけは間違いないと思います。だから記事になっていますが、五百旗頭氏が首相の資質を擁護するために応仁戦国の時代を喩えにしたのは非常に疑問です。少しでも歴史を知るものなら、そんな時代で首相を擁護したりはしないはずです。他に喩えとして持ち出せる時代はあるからです。
真相は藪の中ですが、記事から解釈できる事は、
- 五百旗頭氏は応仁戦国の時代を話としては出したが、別に首相の資質を云々するためのものでなかったのに、記事にする時に強引に結び付けられた。
- 五百旗頭氏は首相の資質を応仁戦国の時代を持ち出すことでボロクソに酷評し、復興会議に事実上の辞表を叩きつけた。
- 五百旗頭氏の歴史解釈で、首相の現在の立場は応仁戦国の時代の様に「誰が将軍であってもどうしようもなかった」とした上で、これからの復旧復興はああいう時代に立ち向かう気概が必要であるぐらいと話した。
真意を理解するのは骨が折れるというより難解な禅問答みたいなところがあり、頑張って理解するより素直な誤解の方がよほど広がりやすくなります。私程度なら何を言っているのか、結局のところ「よくわからない」になります。もっとも菅首相ならこの程度の比喩ならすぐに理解してくれるのかもしれませんが、そこまで菅首相の資質に詳しくないので、これも「よくわからない」ぐらいにさせて頂きます。