時宗関連を少しムックしてみます。
駒沢女子大学研究紀要第21号「時宗総本山清浄光寺所蔵史料にみる東国武将と時衆」皆川義孝より、
中世における清浄光寺は、室町時代以降、鎌倉府より鶴岡八幡宮に並ぶ寺院として遇されてきた。第四代鎌倉公方の足利持氏(1398〜1439)は、遊行十四代・藤沢八世の太空に深く帰依した。特に応永三十三年(1426)二月十四日に清浄時仮寺が火災で焼失し、永享七年(1435)十一月二十一日に持氏が百二十坪の仏殿を造営するなど、清浄光寺再建に対して援助している。こうした持氏と清浄光寺の関わりの根底には、持氏と太空の人的な交流があった。持氏は太空ばかりではなく、鎌倉の別願寺との親交も見られるなど、時衆を厚遇している。また、持氏の子、成氏(後の古河公方)も、太空に厚く帰依している。
太空は、応永十九年(1412)三月に遊行十一代藤沢六世自空の入寂に伴い、遊行十三代藤沢七世尊明より、遊行上人を相続した。その後、応永二十四年(1417)に尊明の入寂により、藤沢八世となった。この間、応永二十三年(1416)四月三日と、応永二十六年(1419)十月二十日に、室町幕府第四代将軍の足利義持から過所が出されるなど、室町幕府将軍との交流もみられた。
足利義持から出された過所とは通行手形ぐらいの理解で良さそうです。この辺の武家との関わりについて、時宗が民間宗教から権力者寄りになり勢力拡張が止まったとする論評もありましたが、一方で時宗僧や上人の遊行の保護のためにも権力者に近づく必要が生じたともありました。時代が時代ですから、時宗教団の保護のために権力者との接近が必然として起こったぐらいにしておきます。つうか、浄土真宗も最後は権力者と結びついた事を考えれば、教団の増大と権力者との結びつきは起こるんだろうぐらいにしておきます。
それはともかく時宗と室町幕府は敵対関係ではなく友好関係であったとまずして良いかと思います。これは室町幕府だけでなく有力武家においても同様で、「時宗総本山清浄光寺所蔵史料にみる東国武将と時衆」には足利持氏書状、武田信虎書状、武田信玄寺領寄進状、今川義元書状、佐竹義重判物、佐竹義久書状、直江兼続過所などの資料が紹介されています。武家と時宗が結びついた結果として前も紹介しましたが歴代遊行上人も、
代数 | 名前 | 出自 |
17代 | 暉幽 | 奥州二本松畠山氏 |
18代 | 如象 | 下野聴野氏 |
21代 | 知蓮 | 上野新田氏 |
22代 | 意楽 | 近江上阪氏 |
23代 | 称愚 | 山城富樫氏 |
25代 | 仏天 | 奥州二本松畠山氏 |
26代 | 空達 | 信濃島津氏 |
27代 | 真寂 | 越後石川氏 |
28代 | 遍円 | 奥州二本松畠山氏 |
29代 | 体光 | 奥州二本松鹿子田氏 |
31代 | 同念 | 日向伊東氏 |
32代 | 普光 | 常陸佐竹氏 |
33代 | 満悟 | 越後直江氏 |
長享元年九月十日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到(長享名簿とします)、永禄六年諸役人付(永禄名簿とします)から義尚、義輝、義昭の同朋衆が確認できます。
見ての通りで全員が時宗僧です。戦国期の同朋衆には遊芸にも長けていた時宗僧が選ばれる事が多かったとされますが、これだけ将軍家の同朋衆が時宗僧で占められている点を考えると、少なくとも義尚時代ぐらいからは将軍家の同朋衆は時宗僧がなるのが慣例になり固定化していたんじゃないかと考えられます。この同朋衆の役割ですが、辞書的には御末衆が運んできた御膳を受け取り、これを御伴衆に渡すとなっています。もちろんそれだけのために存在しているはずもなく、これは一種の格式と地位を現しているとすべきでしょう。実際の役割としては将軍の談笑相手というか、遊び相手的な役割と大名の御伽衆的な役割をミックスさせたものと考えています。将軍の側近には御伴衆以下がずらりといますが、御伴衆と将軍は直属の上下関係です。同朋衆だって表面上はそうですが、僧侶である点でもう少しくだけた関係ぐらいを想像します。
将軍も遊ぶときはあるはずですが、当時の貴族の遊びとなれば詩歌管弦・歌舞音曲になり、室町期の末期ならこれに茶の湯と詩歌の発展型である連歌があったはずです。この当時に連歌や茶の湯が持てはやされた理由は現代人には理解しにくくなっていますが、当時は身分に伴う格式と礼法が厳然としてあり、身分が違うと会話は愚か同席すらできません。将軍ともなれば武家のダントツでのトップですから、臣下の第一席であっても自由に会話をするのは難しくなるぐらいでしょうか。
これが茶の湯なら普段の礼法と離れて主客の二つの身分差になり、連歌でも同じような関係になるそうです。つまりは礼法にゴチゴチに縛られずに、ある程度自由と言うか、直接言葉を交わせるようになる点が重宝されたためとなっています。見様によっては将軍ともなれば、日常では話し相手すらいない寂しい環境に置かれ、これをすり抜けるためのある種の便法みたいなものです。同朋衆は僧侶である点から、茶の湯や連歌の席と近い形式で将軍と直接話を出来る身分ぐらいになっていたぐらいを想像します。
とはいえ将軍の話相手ですから僧侶であるだけでは勤まりません。とりあえず将軍に匹敵する古典教養があり、将軍を満足させる詩歌管弦・歌舞音曲の遊芸に秀でているのは必要条件でしょうか。もちろん将軍の側にいるわけですから、日常の礼法は熟知しているのはもちろんのことです。十分条件としては話し相手としての見聞が広いこともあると思います。将軍を楽しませる様々な話を知っており、全国各地の見聞に詳しいぐらいです。見聞に関しては時宗僧には遊行がありますから、他の宗派より少し優位であったかもしれません。
後は私の想像の部分が大きいですが、使僧の役割も時代が下るにつれて大きくなっていた可能性もあります。前にも書きましたが使者は単なる書状の運び屋ではなく、道中の情報収集、使い先での応答、人物眼などが問われるものです。義昭時代なら外交官と考えても良い気がします。そういう使者もこなせる人材が同朋衆には求められた気もしています。だからというわけではありませんが、時宗では同朋衆になれるような古典教養や礼法、さらに詩歌管弦・歌舞音曲を身に付ける事が可能であったと見ることが出来そうです。
光秀享年55説での簡単な年表を示します。
年号 | 西暦 | 事柄 | 道三崩れからの 経過年数 |
光秀年齢 |
大永7年 | 1527 | 光秀出生 | * | 0 |
弘治2年 | 1556 | 道三崩れ | 0 | 29 |
永禄8年 | 1565 | 永禄の変 | 9 | 38 |
永禄9年 | 1566 | 義昭、金ヶ崎に移る | 10 | 39 |
永禄11年 | 1568 | 義昭、岐阜に移り上洛 | 12 | 41 |
天正10年 | 1582 | 本能寺の変 | 26 | 55 |
惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。
この越前での10年間がいつになるかですが、素直に見て道三崩れから義昭に仕えるまでの期間と見たいところです。光秀が関係する称念寺ですが、これは丸岡町にあります。丸岡町には丸岡城があり、江戸期には城下町として栄えていますが、それ以前に有力領主が住んでいた記録はどうもなさそうです。だから丸岡ではなく「長崎」称念寺としている気もします。少し称念寺について調べますが参考資料は寺伝です。
- 縁起によれば当地長崎が湖のほとりにあったころ白山権現がこの地に渡来した際、着岸した旧跡であったといいます。また泰澄大師というお坊さんがこの地を訪れ、養老5年(721)元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと記録してあります。
- 正応3年(1290)時宗(一遍上入が開く)の二代目の他阿(真教)上人が越前地方を遊行(おしえをひろめる旅をすること)のさい、当地の称念房が他阿上人をしたって建物を寄進したといいます。末の弟道性房は光明院という倉を寄進し、弟の仏眼房は私財一切を寄進したと伝えられています。
- この時代に三国は日本海側で最も栄えた港でした。坂井平野でとれたお米や産物は九頭竜川や竹田川から舟で三国港へと運ばれました。そして長崎の庄には兵庫川があり、やはり舟が使われ運ばれたのです。時宗のお坊さんはこうした港などで布教したため、日本海側の各地に時宗の念仏道場が建てられたようです。越前地方で最も有力な道場になった称念寺もそのため、三国や富山県、新潟県にまでその勢力を伸ばしていたことが当時の大乗院文書からうかがえます。つまり称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられてきました。同時に光明院の倉というのは、今の総合商社の役割を果たしていました。
- 遊行二代目真教上人は北陸と関東を中心に布教したため、長崎道場は北陸では一番の念仏道場になりました。またその末寺も、県下各地に建てられました。
長崎の地は三国湊に関連する舟運の拠点だったようで、かつては湖に面していたために長崎の地名が生まれたともなっています。そこに時宗二代目の遊行上人が訪れ布教の拠点としたようです。随分大きそうな寺で、北陸で最大の時宗の拠点になっていたようです。ここで一つ発見しました。
文明5年(1473)には朝倉敏景の勧告により長崎の北陸街道沿いから金津の東山へお墓を除き、寺ごと移転しています。
長崎からさほど離れていないのですが、末寺の一つにでも引っ越しを余儀なくされたぐらいでしょうか。ただいつ戻ったかについては寺伝にも明記されていませんから、短期間であったのかもしれません。称念寺についてのポイントは光秀が越前に居た時代でも称念寺は大寺であり、時宗の北陸の大拠点であったでろうぐらいは言えそうです。
寺伝では光秀が永禄5年に称念寺を訪れ門前で寺子屋を営んでいたとしていますが、それであれば称念寺門前で10年間住んでいたとする「遊行三十一祖 京畿御修行記」の記述に矛盾します。ここについては前回までに考察し通り称念寺で時宗僧であったと仮定します。
光秀の越前時代の謎は何故に朝倉家に冷遇されたかです。明智家は長享名簿に残るぐらいですから、当時としては名の通った武家であったとして良いはずです。そこの嫡子が亡命し受け入れたのであれば、それなりの待遇をするのも戦国時代です。朝倉氏も新興のうちに入るとはいえ、五代を重ね御相伴衆にも名を連ねていますから、それぐらいはするはずです。しかしそうされてなかったのは史実して良い気がします。
光秀が朝倉家に仕官していたかどうかについて私は疑問を持っています。というのも光秀の記録で朝倉家時代のものは殆ど見つからないからです。光秀の名が初めて現れるのは永禄名簿の足軽衆としてですが、将軍家の直臣ではありますが下級武士になります。滅亡したといえ明智の嫡子に義昭がそんな待遇を当たるかの疑問があるそうですが、これについては同意します。事実として朝倉家も義昭も光秀の明智と言う姓に敬意を払った形跡が無いに等しいとしても良いかと思われます。
そうであれば何故に光秀の明智に敬意を払わなかったかを考える必要が出てきます。答えとしては単純で敬意を払う必要を認めなかったになります。これじゃ答えになっていないと言われそうですが、敬意を払わなかった理由として考えられるのは、
1.は言い出したらキリがないのですが、3.または2.との合わせ技が私の仮説です。まず光秀は美濃時代から既に出家していた考えれば朝倉家の冷遇の説明は可能になると思います。光秀が道三崩れで身の危険を感じて逃げ、朝倉家領に逃げ込んだとしても、出家の逃亡ですから朝倉家が武家としての待遇をする必要はありません。光秀がいつから出家していたかですが、かなり早い時期であった可能性はあります。それこそ子どもの時からで、それなら道三崩れの時まででも20年ぐらいあっても構わないことになります。光秀の教養は付け焼刃のものでなく、本物であったとして良いとしてよさそうでうから、そこまでのものを身に付けるためには数年程度では無理で、10年単位の修学が必要じゃないかと考えれますが、美濃の子ども時代からの出家なら十分に条件を満たします。また時宗僧であっても礼法や古典教養を身に付けるのは可能であり、そのレベルは将軍の同朋衆になれるほどであったのは上述した通りです。
ここまでは3.の条件だけでも可能ですが、義昭からの冷遇の説明に2.が必要と見ています。永禄名簿では足軽衆、すなわち還俗して武家になっているのですが、武家になった光秀の明智の評価が義昭からしてその程度のものであったと考えられる気がします。江戸期で言えば大名は将軍の直臣でしたが、大名の家来は陪臣になりかなり低く見られます。明智でも嫡流筋であれば直臣扱いだったのでしょうが、既に家来筋になっていた明智ならば足軽衆程度しか評価できなかったぐらいです。
もう一つ気が付いたことですが、永禄名簿で光秀は足軽衆です。足軽衆と同朋衆の序列上の身分差は「どっちが上だ?」程度だと思ってますが、義昭との接触と言う面では相当違う気がします。同朋衆は義昭の話し相手として例外的な扱いをされていただろうと推測しますが、足軽衆となれば義昭と口を利くのも難しい身分差になりそうな気がします。そりゃ同じ武家で序列が同一線上に並びますからね。
ここからはJSJ様の仮説が入るのですが、同朋衆から武家になるのはなんらかの理由で侮辱される原因になったのではないかです。織田家は他家に較べると出自による差別は少なかったかもしれませんが、それでも確実にあり同朋衆上がりである事を光秀は伏せて回ったと形跡と見ています。光秀は義昭が岐阜に来てから相当早い時期に信長に仕えたと見るのが自然ですが、光秀は信長に仕えるにあたり条件を出し、信長もそれを了解した仮説を考えています。ひょっとしたら信長の配慮かもしれませんが具体的には、
こうしておけば光秀の前職は普通の大名家であれば足軽大将格であり、織田家に来ても同格の処遇を受けているとできます。さらにその前の時宗僧履歴や同朋衆履歴を隠せるぐらいです。朝倉家時代が履歴にチラチラ見えるのは、義昭の金ヶ崎時代は2年程しかなく、義昭時代の前はどうであったかを詮索する人間が少なくなかったのかもしれません。そこでやむなく不遇であった朝倉家時代を創作したんじゃなかろうかってところです。