余計な一言

 全体の論旨は悪くないのに、余計な一言があるばっかりに台無しになってしまう事があります。こんな時代ですから余計な一言に注目が集まってしまうのですが、擁護意見として、

    切り取り批判だ!
 そういうケースも良くあります。前後の文脈からすれば多少刺激的な面があるにしろさほど問題と思えないところが、そこだけ切り取られることにより、大失言みたいな印象操作です。政治関係の記事で良く見られるマスコミの常套手法です。

 ですが切り取り批判と余計な一言は別物です。切り取り批判の例としては少し古いですが東日本大震災での五百旗頭氏のケースがあります。この時に五百旗頭氏は、

今の首相がバカかどうかという問題のレベルではなかった

 たしかにこう発言されていますが、これをマスコミは高度の創作性を発揮され当時の菅首相の資質を問うべきでないとされています。そうでなかった理由はリンク先に書いてますので説明は省略させて頂きます。


 これに対し余計な一言は、その部分が完全に意味を成している部分として良いかと思います。前後の文脈、全体の文章から考えてもです。見ようによっては完全に浮いている一文であり、この一文で、他にどれだけ良いことが書いてあってもぶち壊しにしてしまうものです。

 その一文は無くてもなんの問題もありません。それさえなければ無難ですし、それどころか良文と出来るほどです。だからこそ余計な一言なのです。正直な感想として、

    どうしてわざわざ書き加えるかな
 こう感じずにいられなくなります。ただ誰にでも誤りはあります。一度のミスで全否定はよろしくありません。本当の問題は余計な一言が誤りなのか、実は本意であるかどうかです。幸か不幸か、その文章を書かれた方はSNSをやられておられたのです。

 まず出てきたのは曲解とか、切り取り批判です。個人的にはスルーにしてしまうか、余計な一言部分だけ謝って終われば良いのにと思っていましたが、あくまでも余計な一言でないと頑張られ始めたのです。

 頑張るのも言論の自由ですが、次々に展開された言い換え例が筆者の真意を強調してしまう結果になったと感じています。結果としては、

    そういう人だったんだ!
 これがしっかりと植え付けられてしまいました。もちろん自分の職業に誇りをもたれるのは良いことです。それが昂じて他の職業を低く見る人も少なくありません。この世には、職業に限らずマウンティングに血眼になられる方は珍しくもないからです。

 この世に聖人など例外的な存在です。私も例外ではありません。内心でドロドロした憎悪や侮蔑の感情を抱くことも多々あります。しかしそんな本音を抜身のダンビラとして振り回すのは宜しくないの常識をわきまえています。多くの方がそうだと考えています。それが社会人としての最低限のマナーでしょう。

 コロナ騒動で心のタガが外れしまった一事象なのかもしれません。私も他山の石として自戒としたいと思います。