GW歴史閑話

お題は「一の谷の合戦」です。もともとこの話は日曜閑話にするつもりだったのですが、あれこれ考えているうちにドンドン話が長くなり、さらに2度、3度と全面に近い書き直しが必要となったので、もったいなくなったのでGW中の企画にさせて頂きます。


一の谷まで

とりあえず一の谷に至るまで年表を適当に抜粋します。

年号 事項
治承4年
(1180)
2 高倉天皇譲位。安徳天皇即位。
4〜5 源頼朝木曽義仲以仁王の平家追討の令旨がくだる。
源頼政が反平家の兵を挙げ宇治平等院で敗死。以仁王流れ矢に当たり死亡。
6 清盛が天皇法皇上皇を奉じて摂津福原へ遷都。
11月京へ戻る。
8 頼朝反平家の兵を伊豆に挙げ石橋山で敗れ、安房に走る。
9 木曽義仲信濃に挙兵。
10 頼朝上総、下総、相模を従え鎌倉に入る。
20日夜半、水鳥の羽音の富士川の合戦。
12 平重衡、反平家に与した奈良の東大寺興福寺を焼く。
養和元年(1181) 2 平清盛死す(64歳)。
6 義仲、千曲川河畔の横田河原で平家方の城助職を破る。
寿永2年
(1183)
5 木曽義仲越中倶利伽羅峠で平家軍を破る。
7 義仲、京に進攻。平家は安徳天皇を奉じて西国へ都落ち
8 後鳥羽天皇即位。
10 義仲、備中水島で平家に破れる。
12 頼朝、弟の範頼、義経に命じ義仲討伐軍を進発。
寿永3年
(1184)
1 平家、一の谷の陣地を構築。
義仲、近江の粟田口で範頼、義経軍に敗死。


仮に保元平治の乱源平合戦の第1ステージとすると、第2ステージの開始は頼朝の挙兵からになります。これが治承4年8月なんですが、頼朝は石橋山に敗れたのですが、関東の豪族の支持を集め、2ヵ月後の治承4年10月に富士川の合戦で平家に勝つほどになっています。しかし頼朝は富士川の後は本当に動かなくなります。動かないは言い方が悪いですが、関東での地盤固めにひたすら邁進します。

この時期の頼朝のライバルは平家はもちろんですが、木曽義仲であったとした方が良さそうです。義仲は頼朝から遅れて1ヵ月後に挙兵します。義仲と頼朝関係は微妙だったようで、源氏内部の盟主争いと見るのが良いと思っています。毛並みからすれば頼朝は源氏のガチガチの嫡流であるのに対し、義仲は傍流になります。傍流の義仲は、なんとか頼朝から源氏の盟主を奪取しようと動いたのは間違いないと思います。

義仲は頼朝の勢力圏を避けるように北陸に進出を試みます。平家方の有力豪族である城氏を挙兵から9ヶ月目の養和元年6月に千曲川河畔の横田河原で破り、越後に進出します。ただなんですが、よく年表を確認すると石橋山から動き始めた第2ステージの源平合戦ですが、案外ノンビリしています。石橋山から整理し直すとわかりやすいのですが、

事柄 石橋山から
治承4年
(1180)
8月 石橋山
9月 義仲挙兵 1ヵ月後
10月 富士川 2ヵ月後
養和元年
(1181)
2月 清盛死す 6ヵ月後
6月 横田河原 10ヵ月後
寿永2年
(1183)
5月 倶利伽羅峠 33ヵ月後


木曽義仲はひたすら京都に驀進したイメージがありますが、挙兵して横田河原まで9ヶ月かかったのはともかく、横田河原から倶利伽羅峠までは23ヶ月、ほぼ2年を要しています。これは信濃から越後、さらに越後で勢力を養ってから越中に進出するまでそれだけの時間が必要だったと考えてよいのでしょうか。

ただ養った勢力は大きかったようで、頼朝は義仲勢力の拡大に不安を抱いたとして良さそうです。義仲の勢力圏は北信濃から越後ですが、頼朝は甲斐から南信濃に進出していた武田氏と結びます。そのうえで義仲に強面外交を仕掛けたようです。頼朝がどれだけ本気で義仲と戦うつもりがあったのかは不明ですが、頼朝にしてみれば平家の前に義仲との盟主争いを制する必要性が生じたと考えます。

この外交戦は犠牲を払いながらも義仲が勝利したと思います。義仲は嫡子を人質に差し出すことにより、形式上は頼朝の下風に立ちますが、その代わりに上洛戦を行う承認を頼朝から得ます。ここも頼朝が本気で義仲の本拠である越後まで進攻は出来ないと見切ったのかもしれません。形の上で折れられた頼朝は、それ以上は義仲の牽制は出来ず、後顧の憂いを断った義仲が倶利伽羅峠に臨んだとも考えられそうです。

ここもまたなんですが、頼朝も義仲が上洛戦を行っても、そうは簡単に京都までたどり着けないと計算していたのかもしれません。京都の平家はまだまだ強大で、義仲如きでは到底無理の判断です。ところが結果は倶利伽羅峠です。

義仲にしてみれば、この機会に頼朝に先んじて京都を制さなければ源氏の盟主は奪えないと考え、2ヵ月後の寿永2年7月に京都に入ります。この義仲の動きが頼朝を大いに刺激したと考えています。京都で義仲が大きくなれば、いかに鎌倉で源氏の嫡流として頑張っていても、盟主の座は揺らぎかねません。京都の義仲を叩き潰す事が、源平合戦の前の源氏の盟主争いとして重要課題になったと見ます。

義仲も頼朝を非常に気にしていたと考えます。頼朝が上洛してくる前に、京都でそれに対抗する勢力を築き上げる必要があります。京都で勢力を広げるには平家勢力を叩くのが有効なのですが、寿永3年10月に備前水島まで進出したところで逆に大敗を喫します。義仲勢力の弱体化を聞いた頼朝は即座に反応し、寿永2年12月に義仲討伐軍を出発させ、寿永3年1月には義仲を宇治川で破り敗死させます。


ふと思ったのですが、もし義仲が動かなかったら、頼朝はいつ平家討伐軍を送ったのでしょうか。ひょっとすると、その一代のうちは鎌倉に居続けたのではなかったのかと思わないでもありません。関東の豪族の結束は鎌倉に頼朝が存在することにより辛うじて保たれており、富士川のような自衛戦はともかく、積極的に京都まで攻め上らせるのはなかなか大変です。

そこに源氏の棟梁としての盟主権争いと言う格好の口実が出来たので、ようやく遠征軍を派遣できたと解釈できないこともありません。この辺は当時の武士の感覚ですが、源氏の棟梁として、その棟梁の座を脅かす者を見逃すのは「名折れである」があると思っています。そういう大義名分があって初めて、遠征軍への関東豪族の協力が得られたとするのは考えすぎでしょうか。

とにもかくにも関東からの源氏遠征軍は寿永3年1月に京都を制します。


平気都落ちから一の谷まで

寿永2年7月の義仲の進出と裏腹に平家は都落ちします。おそらく京都から福原にまず撤退し、福原ではまだ危険と考えて船でさらに逃げたとするのが妥当でしょう。その後はどうなったかですが、wikipediaより、

寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。

この記録から幾つかの事を読み取れます。福原から平家が目指したのは太宰府であったのがわかります。太宰府で勢力挽回を目指しましたが、都落ち直後の平家を九州の豪族は見限り、平家は太宰府からも撤退せざるを得なくなったようです。

一方で九州の豪族の支持は得られなかったようですが、瀬戸内海の水軍は強力に平家を支持していたのもわかります。都落ちをしても、太宰府を追われても水軍衆の支持は強固であったとしてもよさそうです。この強い支持は、最終決戦の壇ノ浦まで平家を支えています。

平家が瀬戸内海の水軍衆の支持を得たのは清盛の父の忠盛の時とされています。忠盛は瀬戸内海の海賊退治で功績を上げ、平家全盛の足がかりを築いたのですが、海賊を退治して滅ぼしたのではなく、海賊を平家の庇護の下に取り込んだと考えるのが妥当です。つまり海賊を瀬戸内海から一掃したのではなく、海賊を平家の水軍として支配下に置いたと言う事です。

さらに単に力で支配下に置いたのではなく、平家支配と言う秩序の中で共存共栄状態を実現させたと考えます。海賊も海賊同士で縄張り争いの抗争を繰り広げるよりも、平家支配の秩序の中にいたほうが大きな利益を得る状態に置かれたとしてもよいと思います。また瀬戸内海が平家支配の秩序の中に置かれた事により、日宋貿易が容易となり、これによる莫大な利益の配分もなされたと考えています。

そういう共存共栄状態は、忠盛、清盛の二代に渡って続けられ、水軍衆にとっては平家支配が続く事が利益にかなうと判断できる状態であったと私は考えます。そうでも考えないと、あれほどの連敗続きの平家をあれほど粘り強く水軍衆が支え続けたのを説明できません。この辺は、陸の利害が米経済(土地分配)以外に何も無かったのに対し、海の利害が商品貿易であった点と見れるかもしれません。


ただ水軍衆が平家を支持すれば、太宰府を追われようとも瀬戸内海の制海権は平家の手の中に残ります。当時の交通事情でも西国の富は瀬戸内海で運ばれるため、海を制すれば西国を制することが出来ます。また水軍は海上での海賊行為も行いますが、上陸しての略奪戦も本業です。京都を制した義仲の勢力拡張が水島で潰えると、海からの侵略の庇護者を源氏に期待できなくなった西国がふたたび平家に靡いたと考えてもおかしくないところです。

屋島にいつごろ本拠を置いたのかがはっきりしませんが、寿永2年10月の水島の合戦の後ぐらいでなかったかと推測します。水島で敗れた義仲は京都に勢力を縮小せざるを得なくなり、義仲勢力が退いたのを見た平家は旧都福原に再進出を図ります。これが宇治川と同じ月の寿永3年1月です。


一の谷の陣地

これをあれこれ調べたのですが、どうにもはっきりしたものがありません。もちろんおおよそだけは判っていて、一の谷陣地全体の地形は、北に六甲山、南に瀬戸内海の天険があります。六甲山はやや南西よりに西に続き、現在の垂水、塩屋あたりまで続いています。単純には海と山に囲まれた三角地帯を想定してもらえれば良いと思います。

必然的に東側が開いている事になるのですが、東側は生田の森(現在の生田神社周辺)を中心に山から海までの長い防柵を築いたとされます。これを東の木戸としたのはほぼ間違いないようです。西は六甲山系と海が接するあたりの海岸線に防御線を築いていたとされ、現在なら垂水から塩屋あたりになると考えられ、これを西の木戸としています。

本営はどこかになるのですが、定説では現在の須磨浦公園当たりとなっています。鉢伏山の麓あたりになるのですが、正直なところちょっと西に偏りすぎている様に思います。地図上でですが、西の木戸から東の木戸まで5kmぐらいはあり、こんな西側の隅っこに本営を置くのはチト違和感があります。

伝承される一の谷本営は陸側からの攻撃には強そうですが、平家がそんな発想で陣を置くとは思えないからです。平家の発想は海が生命線です。退路を考えるにも海が発想の基本のはずです。そして平家の港は大和田の泊です。また荒廃はしていたでしょうが、福原は平家の根拠地と言えるところであり、本営を置くなら旧福原の都を中心に据えると考えるのが妥当です。

福原なら一の谷陣地の扇の要と言える場所にあり、なおかつ港もすぐそばです。わざわざ袋小路のような一の谷に本営を置く必然性が乏しいと考えます。この辺を兵庫歴史研究会は丹念に検証され、本営は大和田の泊に近い難波一の谷に置き、西の木戸は今の長田神社から和田岬を結ぶ線にあったとしています。想像図が掲載されていますから引用させて頂くと、

兵庫歴史研究会が想定した西の木戸説はどうかと思いますが、本営は福原にあったとするのは賛成です。西の木戸が西の守りの第二防御線として存在しても悪くはないのですが、そこまで平家が築く余裕があったかどうかを私は疑問視しています。

平家の福原上陸は寿永4年の1月です。一方で運命の一の谷合戦は翌月の7日です。築城期間は1ヶ月ほどしかありません。西側は塩屋の天険がありますが、東側は開けています。平家としては東側の防備こそが一の谷陣地の要と考えるはずです。そうなれば、東の木戸を頑強に築く事が急務となります。西の木戸が兵庫歴史研究会の説通りあったとしても、かなり簡便なものではなかったかと思っています。


源平の兵力

これも不明です。ここもまずWikipediaより、

吾妻鏡』では源氏の兵力は範頼軍は5万4千騎、義経軍は2万騎とある。『平家物語』も同程度の兵力であり、ほとんどの合戦関係本で、この合戦を解説する際には主にこの数字が使われており

これを額面通りに取ると、1騎とは従者5〜20人を従えた単位ですから、仮に平均10人しても源氏軍だけで74万人の大軍になります。平家側も同程度ともあり、両軍合わせると150万人近い大軍が一の谷に集まった事になります。

もちろんそんな事がありえません。当時の推定人口は700万人程度され、そのうち男性が350万人ですから、もっともっと少ないのは確実です。「騎」を「人」と置き換えても10万人とか15万人は過剰に過ぎます。食糧確保を考えても、平家は西国を支配下に置いた上で海上輸送が可能ですからまだしもでも、関東からの遠征軍である源氏はニッチもサッチもいかなくなります。

これもWikipediaからですが、面白い話があります。

九条兼実の日記『玉葉』の2月4日の記事では「源納言(源定房)の話では、平氏主上安徳天皇)を奉じて福原に到着。九州の軍勢は未だに到着しないが、四国、紀伊の軍勢は数万という。来る十三日に入洛しようとしている。一方で官軍(源氏)は僅かに一、二千騎に過ぎない。」とある。

また、2月6日の記事では「或る人の話によると、平氏は一ノ谷を退き、伊南野に向かった。しかし、その軍勢は二万騎である。官軍(源氏)は僅かに一、二千騎である。(中略)また別の人の話では、平氏が引き上げたのは謬説であり、その軍勢は数千、数万を知らずある。」とある。

ここも様々な解釈が出来ますが、平家側の兵力は平家側の宣伝も入っていると取っても良さそうです。一方で源氏側は、ある程度実際に見聞した人の情報が加味されていると考えます。京都の源氏軍は京都の人間に見られているわけであり、数万もいるのを隠すのは難しいと考えます。ここで参考にしたいのは一の谷の前の宇治川の合戦です。

これが1月20日に行われています。その時の義仲勢は、これもWikipediaですが、

入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。義仲は義仲四天王今井兼平に500余騎を与えて瀬田を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。

義仲軍も単位は「騎」となっていますが、そんなにいるわけはないので「人」と読み替えます。そうなると宇治川に臨んだ義仲は1000人程度になります。ここで源氏軍を「人」に読み替えても5万5千です。1千と5万5千では勝負になりませんが、勝負にならない宇治川の合戦を義仲が強行したのは、もっともっと兵力差が小さかったと考えます。

つまり関東の源氏軍はもう一桁小さい5千5百でなかったかと言う事です。5千5百を「騎」単位で置き換えれば1千騎程度と数えられない事はありません。宇治川の勝利でもう少し増えたとして7千人ぐらいになったとぐらいは考えられます。そうなると平家は1万程度であったとするのが妥当そうな気がします。


一の谷の防御戦略

一の谷は上述した通り、東西に攻め口があります。とくに東側は地形上の弱点で、これを補うために長城を構築しています。では東西以外に攻め口はないかと言えばそうではありません。六甲山も生田の森辺りでは、とうてい軍勢が越えられるようなものではありませんが、西に向うにつれて低くなり、山道ですがルートは存在します。

そこに鵯越が行われるのですが、北口にも平家は十分に配慮しています。神戸市文書館の一の谷合戦(後)を参考にして見たいのですが、

生田森 役割 大手、東の木戸。東から攻撃して来る敵の大手軍を防ぐ
武将 平知盛を大将軍として、重衡・清房・清定・知章らを配備。
一ノ谷 役割 搦手、西の木戸。播磨に迂回し西から背面攻撃をして来る敵を防ぐ
武将 平忠度を大将軍として、敦盛・貞能・景清らを配備。
三草山 役割 丹波路から攻めて来る敵の搦手軍を防ぐ。
武将 平資盛を大将軍として、有盛・師盛・忠房らを配備。
山の手 役割 鵯越の麓。北方からの敵の搦手軍を防ぐ。侵入ルートは数箇所ある。
武将 平通盛を大将軍として、教経・経正・経俊・業盛・盛俊らを配備。
軍船上 役割 輪田あるいは駒ヶ林に停泊する軍船上
武将 安徳天皇平宗盛二位の尼建礼門院ら。要人と非戦闘員。


北方ルートも十分に意識しているのがわかります。ここで、三方に十分な兵力をわける程には一の谷の平家も余裕がなかったと考えます。東側は源氏の主力の攻撃が予想され、長城を築いているとは言うものの守備範囲も広大です。平家もここに防御軍の主力を置いたはずです。後の問題は、西と北に源氏が来るかどうかです。

現在とは違い、平家軍と言っても混成軍です。おそらく一旦配置した軍勢を臨機応変に移動させるのは戦術上難しかったと考えています。平家の注目は源氏が攻めるならどの方面であるかに神経を尖らせたと思います。


源氏の戦略

源氏は1月20日に義仲に勝った後、2月4日に一の谷に向けて出陣しています。誰がどう考えたのかはサッパリわかりませんが、基本戦略は東西挟撃です。範頼が大手軍を率いて東の木戸に向い、義経が搦手軍を率いて西の木戸を目指すです。一の谷総攻撃の日取りも決定していまして、2月7日となっています。2月7日にしているのは、京都から3日で一の谷に到着可能であり、翌朝からの攻撃の計画だと考えられます。

大手、搦手の軍勢の分配もまた諸説紛々です。大手の方が多かったのは間違いないでしょうが、搦手もそれなりにいたと考えています。ただし搦手については、鵯越の伝説と相俟って、異常に少ない説も昔からあります。昔から有力なのは、義経が少数の騎馬隊編成で移動速度を活かした奇襲攻撃を行なった説です。

ただなんですが、源氏が二手に分かれた軍議の中に義経鵯越は入ってなかったはずです。つうか、一の谷攻撃を決めた軍議に参加した者で、一の谷陣地がどうなっているかを正確に知っているものもまずいなかったと思います。言ったら悪いですが、義仲の宇治川陣地に毛の生えたもの程度と考えていてもおかしくありません。

関東遠征軍とは言え、地元の参加武将もいたでしょうから、東西から攻撃可能そうだから挟み撃ちにしようぐらいの戦略であったと思われます。そこから先はそれこそ、一の谷に着いてからの臨機応変みたいな感じでしょうか。えらく雑そうですが、これも混成軍でなおかつ大軍(当時的には)と言う事情もあり、さらに総大将に範頼がいても、発言権と言うか決定権は乏しいというのもあります。


三草山

大手の範頼は順調に行軍し予定通りに東の木戸を攻撃していますから置いておきます。問題は搦手の義経です。義経の搦手軍にとって第一の課題は三草山をどうするかであったと考えています。三草山は一の谷から50kmばかり離れた北側にあるのですが、そもそもそんなところに何故に平家が陣地を敷いていたかです。

平家もまた源氏軍がこの方面に進撃してくるのを予想していたとするのが妥当です。ほいじゃ、三草山で源氏軍を食い止める目的があったかどうかになりますが、源氏軍が少数であればそうしたと考えます。では多数であればどうであったかですが、山に籠ってやり過ごすのも戦略としてあったと思っています。やり過ごしてどうするかなんですが、その後の源氏軍が西の木戸を目指すのか、それとも北のルートを目指すのかを監視するためです。

三草山も登った事がありますが、なかなか険しい山で、山上に立て篭もられたら1日や2日ではどうなるものではないと感じました。源氏軍の基本戦略もまたやり過ごすではなかったかと考えています。理由は時間で、2月4日に京都を出発して、2月7日の一の谷総攻撃に間に合わせるためには、のんびり攻略戦をやっている余裕が無いからです。


それでも史実は義経は三草山を攻略しています。これは義経の戦略として三草山の監視の目がどうしても邪魔であったからと考えます。義経がどの時点で鵯越を構想したのかはわかりませんが、やはり京都を出陣する前であったと考えています。義経鞍馬寺で育ったとは言え、一の谷の地形に精通している訳ではありません。ただ攻撃ルートに北側もあるのは知っていたと思います。

これは前にも出しましたが、

その後、衰微の時代を経て平清盛が丹生山を比叡山(鞍馬山の説もある)にみたてて明要寺を復興し日吉山権現を祀って参詣したと伝えられる。上述の山頂までの参道の丁石はこのとき福原の都を起点に清盛が1丁ごとに建てたと言われている。

丹生山の明要寺の伝承ですが、清盛の時代なんて義経も京都の人士も「最近のお話」ですから、一の谷に北側ルートがあるのは常識であったはずです。源氏の軍議は東西挟撃ですが、これは基本戦略であって、搦手軍をどう動かすかは義経の裁量にあります。義経は東西挟撃に加えて、北側攻撃を加えた三方攻撃を構想したのだと考えます。

この北側ルートの欠点は、東西に較べて道が険しく、攻撃を察知され防備を固められると、攻撃が事実上できなくなるです。と言うのも、東西挟撃は基本軍略として決まっていますから、西の木戸には搦手軍主力を進ませる必要があります。また北側ルートはそもそも大軍が進むのには不利な地形です。北側ルートが生きるのは少数で、平家に察知されずに奇襲が可能な時だけと判断したと思います。

平家もそこを考えて三草山に監視陣地を設けているのですが、とりあえずこの平家の目を潰さないと鵯越は実現しない事になります。ここで義経は時間と自らの秘密戦術を推進するために三草山に奇襲をかけます。これが記録では、2月4日に京都を出発して、その夜に夜襲をかけたとなっています。京都から三草山まで約80kmで通常は2日の道程とされています。


昔の人間は1日にどれぐらいを進むのが標準であったかですが、道にもよるでしょうが、おおよそ10時間かけて40kmだとされています。時速4kmですが、かなりの速度です。80kmを1日となれば倍近い速度が必要になるのですが、それが可能かどうかです。可能かどうかは様々な考え方があるかもしれませんが、義経にとって三草山がすべてではありません。

三草山はあくまでも前哨戦であって、本番は一の谷です。また搦手軍の他の将は三草山攻略に積極的とも思えません。義経は搦手の大将ではありますが、軍議の発言権、決定権はさして強いとは言えないと思います。義経は体力を温存しつつ三草山を攻める必要があったと考えます。

ここで情報戦になるのですが、搦手軍の出陣も2月4日です。軍勢の大きさも秘匿し切れません。2月4日に搦手軍がどれほどの兵力で三草山に向うかは、2月4日の昼までには平家も情報として知っていたかと思われます。ただしこれは1〜2日前の情報です。義経はこれを見越して、前日の2月3日に少数の別働隊で密かに出発したと推測します。

義経の搦手軍はやはり兵力もそこそこあったと思っています。その兵力の大きさは、まともに攻めても三草山を十分に攻略できるものであったと考えています。またそういう搦手軍の兵力も三草山の平家も知っていたと思っています。ただし平家は源氏軍の三草山到着は4月5日の夕刻であろうと考えていたと推測します。

三草山の平家軍の関心は、源氏の搦手軍が三草山を攻めるのか、無視して通り過ぎるのか、押さえの兵を置いて一の谷に向かうのかです。ところが翌日到着で、翌々日に攻撃と思っていた源氏軍が、2月4日に夜襲を仕掛けてきます。夜襲にしたのは、義経の別働隊が小勢であるのを悟られず、搦手軍が全軍到着したと思わせるためであると見ます。

不意を突かれた上に、源氏の方が数が多いと信じていますから、慌てふためいた平家軍は三草山を放棄して潰走する羽目に陥ったと考えています。この日程なら、1日80kmの無理なしで、三草山を攻略可能です。


鵯越

義経別働隊は2月4日の夜襲後は、そのまま宿営したと考えます。ただしその先の足取りが歴史から消えます。次に出現するのは2月7日の鵯越です。つまるところ2月5日と2月6日の足取りが不明であると言う事です。ここも色んな説がありますが、兵庫歴史研究会のものをまず紹介しておきます。

兵庫歴史研究会北播磨に残る義経伝承を拾い集めて仮説を立てておられますが、この説ではまず搦手全軍が80kmを1日で踏破したという前提で、

  1. 4月5日の昼頃に三草山を出発
  2. 4月5日は三木の宿原で宿営
  3. 4月6日に、搦手本軍と別働隊に別れ出発、
宿原から一の谷西の木戸まで50kmぐらいですから、搦手本軍が4月7日の総攻撃に到着するのは可能です。ただし義経別働隊が、山道を越え、鵯越に到着できるかとなれば日程的にきついと考えます。兵庫歴史研究会では丹生山の義経道をとくに重視し、これを通らすために三津田からシビレ山、さらに丹生山を越えるルートを通ったとしています。

兵庫歴史研究会の説ももっともなんですが、翌朝には鵯越に到着する必要があります。もっと日程に余裕があれば、山登りの迂回ルートもありでしょうが、こここそもっと迅速に通り抜けたと考えます。義経が三草山攻略後に考えたのは2つだと思っています。

  1. 三草山を攻略したのは搦手全軍であると思わせる
  2. 義経は三草山から明石方面に向い、西の木戸を目指すと思わせる
4月5日の午後には搦手本軍が京都から到着しますから、平家には義経がそこにいるとしか見えません。そして4月6日には搦手軍は明石方面に進軍していきます。平家の関心は当然そこに注目し、「源氏は北側には来ない」の報告を行うと考えます。

義経に求められのは行動の秘匿です。三草山は攻略したものの基本的に北播磨は平家の勢力圏です。行軍姿を見られるのは避け難いですが、宿営地は注意を払ったと思います。行軍しているだけなら、源氏か平家か判別が難しいと思いますが、宿営すれば言葉の訛りからでも正体が露見する危険性があります。ここで鍵になるのが、

    鷲尾義久
この人物はwikipediaによると、

元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地勘のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。

これだけ読むと山出しの猟師が大活躍したみたいですが、私はそうではないと考えます。当時の身分差は大きく、本当にタダの猟師がそこまでになり難いというのがあります。つまり山田から藍那方面に勢力のあった鷲尾氏の協力を得たと考えたいところです。さらにその協力は、京都出発前から取り付けてあったと考えます。

鷲尾氏の屋敷跡、代々の墓と伝えられるものが今でも藍那にあります。義経は行動の秘匿のために、4月5日に三草山から藍那まで一気に移動したと考えます。距離にしておおよそ50kmですが、移動は可能と考えます。藍那まで無理を重ねたのは、鷲尾一族の勢力圏で宿営するのが最大の目的であったと見れます。人数によっては野宿ではなく家での宿泊も可能のはずですから、翌日に備えて十分な休養を取れます。

休養といえば、4月5日に無理をして藍那まで移動しておけば、4月6日は鵯越までの移動で良くなります。鵯越が仮に現在の鵯越駅近辺であったと仮定しても、現在の道で8km程度です。山道ではありますが、それこそ午後からの移動でも到着可能です。道にもよりますが、4月7日の早朝に出発しても到着可能の地点になります。

私は藍那を4月6日の午後に出発して、ある程度の地点で宿営し、4月7日朝に鵯越に到着したと考えています。


鵯越はどこ

まず言える事は、鷲尾一族は平家にも通じていたと思います。源氏に寝返ってはいますが、平家が一の谷の陣地を構築した時には、協力さえした可能性はあります。つまり一の谷陣地の北側ルートについて、道も良く知っていますが、平家軍の配置もよく知っていたと考えています。もうちょっと言えば、平家側に「源氏軍の姿なし」と報告していた可能性すらあります。

そうなれば平家側の判断として、山の手の北側ルートの軍勢の一部を東西の木戸、とくに東側に移動させた可能性も出てきます。義経鵯越が何時に行われたかは不明ですが、源氏の大手軍、搦手軍による総攻撃は払暁、すなわち夜明けから始まっています。と言っても、いきなり総攻撃はありえません。当時の合戦はおおよそ次のような手順が踏まれたとされます。

    第一段階 : お互いの兵力、武器を誇示し合う。
    第二段階 : 功名な武士が名乗りあい、時に一騎打ちを行なう。
    第三段階 : 矢戦を行う。
    第四段階 : 徒歩戦に移る
武器の誇示はさすがに無かったかもしれませんが、次の段階の一騎打ちはともかく、名乗り合いはそれなりにあったと思います。実際に一騎打ちは少なかったとされますが、名のある武士が進み出て、名指しで「我と戦え」と挑発し、出てこなかったら「臆したか」と侮蔑したりはあったと思います。名指しされた方も「臆したか」のままでは名折れなので、「そち如きは相手にとって不足じゃ」とかやり返す感じです。

なんか歌舞伎とかの所作に近い感じもしますが、合戦場は武士として名を売るチャンスでもあったので、合戦前にそういう挑発を行なえる役を担えるだけでも誉れみたいな感覚もあったとされます。生死をかける合戦場なのですが、源平時代の武士のマナーとして挨拶は欠かせないものだったとどこかで読んだ事はあります。この気風は鎌倉武士にも引き継がれ、元寇の時に苦戦する原因になったりもしています。

何が言いたいかですが、いざ合戦が始まっても最初はのんびりしたもので、夜明けからしばらくは「やあ、やあ、我こそは・・・」のパフォーマンス・タイムを東西の木戸の前でやっていたとも想像しています。そこから矢戦ですが、これだって5分や10分ではなく、それこそ1時間ぐらいやっていても不思議とは思えません。

平家物語風なら、そういう状態に焦れた源氏の武将が「今こそ功名の時、先陣として突っ込め」みたいな展開になると思っています。ここもなんですが、源平ともに混成軍です。守る平家はともかくとして、攻める源氏にそれほどの軍団としての統制があるとは思えません。ただ矢戦中は、両軍の間に矢が飛び交っていますから、そこに飛び出すと格好の標的となって危険です。

ですから合戦によっては、その日は矢戦だけに終始したなんて話も残っています。先陣(先駆け)の名誉とは、危険な矢戦中にあえて突撃を行い、合戦を最終段階である徒歩戦に移らせる功績と考えて良いかと思います。戦死率の高い先駆けをやる事によって、その他の将がみずからの怯惰を恥じ、「○○を討たすな」と突撃に参加する段取りになるわけです。


義経にとっての戦機は名乗りあいの時期でも、矢戦の時期でもありません。徒歩戦に移って、平家が北側ルートに配置してあった軍勢を東西の前線の後詰として送り出す時期であったと考えます。一の谷陣地は、どうやら一線防御として作ってあり、一線のどこかを破られると、中は案外脆い構造の様に見えます。何重もの柵や塀や堀による複線防御構造でないので、源氏軍が攻め寄せているところに厚く配置しようとします。

平家軍の総勢も上で考慮した様にせいぜい1万人程度ですし、とくに東の木戸は南北に広い防御範囲を持っていますから、源氏側も弱点と見えるところに攻撃ポイントを変えてきます。源氏も一点突破で落とせると見て攻め立てた可能性はあります。おそらくですが、東の木戸の正面兵力は源氏、平家とも五分だったと考えられるからです。

ここで最近、一の谷では激戦はなかったとの説も出てきていますが、ロマンがないので私は却下します。義経は一の谷の攻防戦が見下ろせる高地まで進出し、山の手の北側守備軍が動くのを待ったんじゃないかと考えています。戦機を見た義経は配下に突撃を命じ、歴史に残る鵯越が出現したと思っています。ひょっとすると、鵯越とは逆落としを行った場所ではなく、義経が奇襲軍を率いて戦機を窺った場所かもしれません。

義経軍がどこを鵯越として奇襲作戦を敢行したかは、未だ持って謎です。諸説を検討して見ましたが、そもそも平家軍の配置、一の谷の陣営の規模さえはっきりしません。また現在の地形は、藍那辺りは昔日の面影を偲ぶ事も可能ですが、藍那から神戸市内に向かって、大規模な宅地開発が行われており、地形から推測する事さえ難しくなっています。

神戸市内もまたそうで、あれだけビッシリ家が立ち並んでしまうと、源平の頃の様子を想像するのさえ難しくなっています。ただ義経の数々の作戦により、平家側は源氏の攻撃が東西からの正面攻撃であると判断したのだろうとは思っています。山の手にも軍勢を配置していますが、こちらには源氏は来ないと予想し、その方面の軍勢も東西の木戸方面に移動した可能性すら考えられます。

一の谷の段階の義経の存在はただの源氏の御曹司であり、稀代の戦術家であるとはまだ平家側も認識していなかったはずです。もちろん三草山の奇襲は驚かされたかもしれませんが、4月7日の段階では三草山陥落の報はあっても、詳細までは情報として確認で来ていないとしても良さそうです。平家側が注目していたのは、搦手本軍がどこに向うかであり、西の木戸である塩屋に向う情報を得られれば、そこからさらに別働隊が動いているまで考えなかったとしても良さそうです。

奇襲は相手の不意を衝く事で最大の成果を挙げますから、そういう油断を相手にさせる事も奇襲作戦のうちです。山の手方面(鵯越)からの攻撃の可能性もあることは平家も予想し、配置はしていましたが、そこに源氏軍は向っていないの情報戦術を義経は見事に成功させたと見ます。



戦死者から考える

とにかくピンポイントを一撃された平家は壊滅状態になります。これも想像ですが、義経軍の奇襲とともに、山々に擬旗の計も行ったかもしれません。義経の別働隊自体は小勢ですが、あくまでも先陣部隊であり、この後にぞくそくと続いて攻め寄せてくると思わせるためです。どれほどの損害を蒙ったかを平家の防御戦の大将名から戦死者を確認してみると、

生田森 役割 大手、東の木戸。東から攻撃して来る敵の大手軍を防ぐ
武将 平知盛を大将軍として、重衡・清房清定知章らを配備。
一ノ谷 役割 搦手、西の木戸。播磨に迂回し西から背面攻撃をして来る敵を防ぐ
武将 平忠度を大将軍として、敦盛・貞能・景清らを配備。
三草山 役割 丹波路から攻めて来る敵の搦手軍を防ぐ。
武将 平資盛を大将軍として、有盛・師盛・忠房らを配備。
山の手 役割 鵯越の麓。北方からの敵の搦手軍を防ぐ。侵入ルートは数箇所ある。
武将 平通盛を大将軍として、教経経正経俊業盛盛俊らを配備。
軍船上 役割 輪田あるいは駒ヶ林に停泊する軍船上
武将 安徳天皇平宗盛二位の尼建礼門院ら。要人と非戦闘員。


文献により相違はあるのですが、赤字が戦死者です。素直に見て壊滅状態になったのが山の手防御陣です。生田の森の東の木戸の防御陣も大きな損失を蒙っているのがわかります。これに対して西の一の谷方面は比較的軽傷です。敦盛は御存知の通り、逃げられたのに無謀にも引き返して熊谷直実に討ち取られて被害を大きくしているだけです。

平家防御陣のうちで、もっとも精鋭が集められていたのは生田の森と考えます。現実にも源氏の主力が押し寄せています。義経の奇襲により一の谷中央部で起こった混乱は、真ん中が薄い平家方にとって、背後を脅かされる状態になったと考えるのが妥当です。背後が脅かされる、つまり帰路が危うくなると軍勢は脆くなり、精鋭を集めた生田の森が源氏主力によって突破されたと考えています。

平家の退路は海なんですが、生田の森の防御陣から大和田の泊までは距離があり、ここまで逃走する間に多くの戦死者を出したと考えます。山の手防御陣も同様で、船までたどり着くまでに東からの源氏主力に殲滅されたと見ます。もうちょっと言えば、「危うし」となった時点で大和田の泊りにいた平家の軍船が西に動いた可能性は十分にあります。

山の手や生田の森の平家勢は、源氏主力に追われながら、須磨の浜方面に敗走を重ねたんじゃないでしょうか。もう一つの可能性として、軍船上に安徳天皇以下がいたために、ここを守らなければならないと、生田の森も、山の手も、逃走と防御が一体となって駆け込んだのかもしれません。その時に船に収容できなかった大将たちが大量に戦死した可能性もあります。

西は比較的持ちこたえたのかも知れません。東に較べると元もとが天険ですから、退却するにしても、ある程度秩序だっての退却を行い、須磨の浜から小船でかなり逃げられたのはありえることです。ここももう少し怖ろしい想像をすれば、中央部の混乱を見て、西側はある程度秩序だって海への退却戦を行ったが、退却すれば西から搦手本軍が侵入し、山の手と生田の森の平家勢は東西からの挟み撃ちで壊滅状態に陥ったのかもしれません。


義経の戦術をもう一度見直してみる

日取りを考えると義仲を討ち取ったとのは1月20日です。そして京都から一の谷出陣は2月4日です。義経とて対義仲戦の前に一の谷の戦術を構想していたかはチト疑問です。一の谷は宇治川の頃には建築中ですが、平家の一の谷上陸も1月だからです。やはり対義仲戦終了後に戦術を練り始めたとするのが妥当でしょう。もんだいはどうやって一の谷の地形を義経は知ったかです。

義経の部下で一の谷周辺の地形を知っている可能性があるのはやはり弁慶でしょう。弁慶の出自も謎に包まれていますが、とりあえず関西出身でしょうし、義経に仕えるまで関西を中心に放浪していたと考えても良さそうです。それだけでなく山伏や僧兵のネットワークとも接点があった形跡もあります。後年の奥州逃避行にそれが窺えます。義経の一の谷戦術の基本情報は弁慶経由であった可能性はあります。

そうなると鷲尾一族とのコネクションも弁慶の工作の可能性があります。実は弁慶の足跡伝承も残されています。あくまでも伝承ですが、一の谷に先立って弁慶が下工作に訪れた跡も十分ありえます。ここは一の谷の前にさらなる先発工作員として弁慶は山田・藍那の鷲尾一族の懐柔に派遣されていたと考えても良いかもしれません。

弁慶からの工作成功の知らせを受けて、鵯越実現に向けて動き出したとすればどうでしょうか。弁慶が鵯越のルートを確保している計算があったからこそ、三草山を急襲する必然性が生まれますし、別働隊とは言え搦手軍の諸将に自信を持って「この戦術について来い」と説得できたとも考えられます。そうでないと三草山を急襲する事を諸将に説得出来ませんし、三草山からの移動も行き当たりバッタリの要素が強すぎる様な気がします。

問題は搦手本軍を率いたとされる土肥実平をどう説得したかです。義経は搦手の御大将であり、象徴です。御大将抜きの行軍、それも義経がいるとの偽装を行いながらの進軍ですから、そうは簡単にウンと言ったかどうかです。まあウンと言ったから鵯越は実現したのですが、一の谷の時に梶原景時がいたら鵯越は陽の目を見なかったかもしれません。wikipediaより、

最初は景時が義経の侍大将、土肥実平が範頼の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。

ひょっとしてこの段階から義経の戦術が始まっていたのかもしれませんし、単にラッキーだったのかもしれません。まだ義経梶原景時の確執はそんなには強くなかったと思いますが、景時がいれば源平合戦自体の帰趨が変わっていたかもしれません。


それでも平家が好き

もうちょっと義経の奇襲ルートを煮詰めるつもりでしたが、やはり資料不足と歳月の壁は大きかったとしか言い様がありません。私の能力不足は言わずに笑っておいてください。ところで平家は源平合戦において、富士川倶利伽羅峠、一の谷、屋島、壇ノ浦と歴史に残る大敗、惨敗を重ねています。

しかしこれだけ大敗、惨敗を重ねながら、それでも立ち上がり続けた敗者は非常に珍しいと思っています。平家の後も強大な敗者は存在しますが、平家ほどしぶとい敗者は存在しなかったとすれば言いすぎでしょうか。たとえば「もし」一の谷で平家が勝ち、源氏軍の主力が須磨の地で壊滅したら、いかに頼朝でも、一代で天下を握れなかったんじゃないかと思います。

京都への遠征軍が壊滅したら、ようやく固めかけた関東の地盤に大きくヒビが入ります。頼朝は偉大な政治家ではありますが、どちらかというと冷血タイプのマキャベリストですから、傾きかけた求心力を取り戻し、鎌倉を留守にして、頼朝自身が再び大軍を率いて京都に遠征軍を送るなんて芸当が可能かどうかは少々疑問です。

関東の結束は頼朝をして辛うじて保っているものであり、源平合戦において頼朝が西に遠征しなかったのは、やらなかったのではなく、出来なかったと考える方が妥当の様な気がします。頼朝の留守は関東に取って、まだまだ許されない状態であったとも考えています。

もっとも京都を奪還した平家の総帥は宗盛ですから、宗盛もまた頼朝を殲滅するような大規模な遠征軍を遅れるかは正直なところ疑問です。ただし源氏と平家では大きな違いがあります。宗盛と頼朝の器量の差は余りにも歴然としていますが、支える一族の結束力は雲泥の差があります。源氏と言うか、頼朝は立場上もあるでしょうが、同族に非常に厳しい態度を取っています。

理解は出来ても、もし源氏遠征軍壊滅なんて事態になれば非常に厳しい状態に陥ります。たとえば義経、範頼が逃げ帰ってきたら、これを許して活用するというより、むしろ関東武士団の求心力回復のために血祭りにあげる方を考えそうに思います。他にも傍流の源氏の一族はいますが、少しでも勢力を持てば、義仲同様に敵視するとも考えられます。

頼朝の欠点は、義経が余りにも鮮やかに、かつ短期間で平家を滅ぼしてしまったので後世に目立ちませんでしたが、源平合戦が一進一退状態になれば、暗い面が露呈し、関東武士団をつなぎとめられたかは少々疑問なところがあります。頼朝は苦境に耐えて平家打倒の兵を挙げたのはまちがいありませんが、源平合戦の苦境に耐えられるほどの求心力足りえたかと言うところです。


一方で平家は史書では惰弱だとか、華奢だとかボロクソ書かれていますが、よく見れば非常に強靱です。義仲に追われての都落ちの時も結束を崩さず粛々と撤退してますし、太宰府を追われ、屋島を根拠とするまでも忍耐強く、瀬戸内海上で耐え抜いています。一の谷大敗後も、平家勢力は粉微塵になったわけではなく、山陽道を西に進んだ範頼軍は相当な苦戦を強いられています。

最終決戦である壇ノ浦も、さすがに劣勢は否めませんでしたが、それでも決戦に値するだけの兵力を集め、華々しく散っています。これだけの抵抗を宗盛を総帥に置いて平家はやりぬいた訳ですから、決して弱いとは言えないと思います。


一の谷の結果がもし逆になったとしたらどうであったかですが、その時こそ平家一門の結束力が発揮されたかもしれません。平家には知盛がいます。知盛は天才義経の引き立て役に回らざるを得ないところがありますが、義経がいなければ当代随一の名将としても良いかと思っています。知盛を総大将にして関東遠征軍を送れば、勝敗の帰趨はもうなんとも言えません。

その時には義経も範頼もいなくなっている可能性があり、頼朝は嫌でも第二の富士川を戦わなければなりませんが、都落ち、瀬戸内海の流浪、一の谷の勝利で鍛えられた平家は、今度は水鳥では逃げてくれません。互角の決戦で頼朝が知盛に勝てるかどうかになります。もう少し言えば、そんな状態で頼朝が知盛に対抗できる兵力を富士川に集結できるかになります。


源平合戦は天才義経の活躍により、源氏のワンサイド・ゲームになってしましたが、一進一退状態なら、頼朝の一枚看板の鎌倉政権と、総帥こそ凡庸なものの、一族に多士済々の平家では最後の勝利はどちらに転ぶかわからなかったと思っています。なんとなく敗戦に対する耐久力では平家の方が上回りそうだからです。

もう少し言えば、一進一退状態なら、鎌倉方は頼朝一代はともかく、二代目以降の後継者に難があります。歴史では、北条氏が勢力を伸ばし、頼朝の家系は孫の実朝で死に絶えます。北条氏による政権簒奪は、基本的に平家と言う強大なライバルがいなかったからこそ出来たものであり、西からの平家の圧迫が続く状態では、北条氏による鎌倉政権が関東武士団の求心力足りえたかは歴史の「if」になるかもしれません。


歴史の大勢は、貴族による荘園支配体制から、自作農の武士団による武家政治に流れています。平家は武家といいながら前時代の政権であり、源氏は新時代の政権です。平家は強大ではありましたが、この歴史の流れに勝てなかったと見ることも出来ます。歴史の流れは、平家に優秀な後継者を与えず、源氏に稀代の戦術家である義経を与えたと見ても良いのかもしれません。

それでも前時代最後の覇者である平家は余りに華麗であり、武家の強さに貴族の華麗さがちょうど良いぐらいにミックスした華やかさがあったと思っています。これを清盛の遺産と取る事もできますが、そうであるなら清盛の握っていた力の物凄さに眩暈がしそうになります。

ではでは今日はこの辺で休題とさせて頂きます。