ネタギレなので歴史閑話を挙げて明日は休載にさせて頂きます。一の谷は年末にかなりほじくったつもりです。
この成果は無駄にしたく無いので、ここで展開した調査とコメ欄の議論は十分に踏まえてもう少し議論を深めたいと思います。踏まえる上で前提を挙げておきます。-
一の谷は丸山である
まず源平合戦当時の推測地図を示します。
これが源平時代の前には浜が広がり海岸沿いのルートが使われていたようです。そっちが使えたなら多井畑迂回ルートは寂れます。寂れはしますがそれでも古道としてルートは健在だったようです。これもそのまま健在と言うより、多井畑ルートのうち、
- 須磨〜多井畑・・・寂れた
- 多井畑〜塩屋・・・健在
烏原道は清盛が丹生山参詣のために整備したとなっていますが、この道には一の谷の合戦の伝承が知る限り皆無です。実は天王寺谷道、白川道にも伝承がなく、合戦にはいずれにしても用いられなかったと見なします。
長柄越は丸山方面から西に越えると妙法寺になります。播磨へはそこから白川なりに出て結ばれるのですが、妙法寺方面から多井畑をつなぐルートも確実にあったようです。なだらかな丘陵地帯になりますから無いと考える方が不自然です。
清盛も神仏尊崇は篤い方と見て良いと思います。清盛が篤いと言うより当時の人間の平均的なところぐらいはあったぐらいでも良いと思います。清盛は舞子あたりに山荘を持っていたとされますが、そこから参詣・保護していた神社仏閣を考えると、多井畑厄神、妙法寺、丹生山が目に付きます。そこに参詣するルートを整備すると言うのは通商の振興にもダイレクトにつながるからです。
玉葉に記載でクローズアップされた行綱の行動は義経以上にベールに包まれています。確認できるのは山の手を攻めた手柄があるとの記述が残されているだけです。この玉葉の記述から推測できるのは行綱は源氏大手軍に加わらず、独自行動か搦手軍と共に行動したんじゃないかと見られます。もう一つ確認できるのは2/7の矢合せの日に参戦している点からたとえ独自行動であっても示し合わせてのものであったのだけは間違いないと考えます。
行綱の行動もあれこれ考えましたが、当時の情報伝達手段のプアさ、兵糧等の輸送手段のプアさ、また義経と行綱の格の問題から、そんなに巧緻な戦術を取ったとは思えません。やはりシンプルな戦術であると考えたいところです。行綱の本拠地は能勢です。行綱が義経の搦手軍に味方するとすれば、六甲山系の北側の有馬街道を西に進むと考えるのが一番無難です。
ただ六甲山系の北側も平家の防衛圏内と見るのが妥当です。私が出した結論は「だから三草山」じゃなかったかです。平家が三草山方面に前進拠点を設けたので、これを粉砕すれば平家北側防衛陣は弱体・無力化できる計算です。平家物語に伝えられる三草山合戦は2日の道を1日で走りぬけ、一挙に夜襲で平家軍を覆滅しています。義経にすれば、これは戦術上で絶対の一戦で、三草山の平家北方軍を壊滅させる事により、
- 山田・藍那からさらに塩屋方面の交通路の確保
- 行綱軍との合流を容易にする
鵯越道を利用するには行綱は山田から藍那方面に進む必要があります。そうなると義経と行綱は少なくとも合戦前日の2/6に藍那で合流したと見ます。伝承に残る相談が辻とは、そこで義経と行綱が戦術会議を行った場所ではなかろうかです。行綱は相談の結果、鵯越道から会下山に進むルートを取り、この行綱の鵯越道への進軍が後世の義経伝説として混同された可能性を考えています。
三草山後の義経の進路もよくよく考えればそんなに捻った経路を取っているわけではなく、丹波路から三木方面に進み、そこから最短距離で一の谷を目指しただけの気がしています。
では義経はと話を早く展開させたいのはヤマヤマなんですが、今回のある意味のキモみたいな地味な解説を入れておきたいと思います。当時の兵制は小豪族の連合軍です。連合の求心力として御大将がいるわけです。とくに源氏軍は総帥の頼朝でさえ直属軍、直轄領がどれほどあったかは不明です。ましてや義経となると、直属兵と言っても義経の血統に乗っかっての一旗組が一握りが実相と考えます。そんな義経が御大将になれたのは一の谷時点なら「源氏の血統」「頼朝の弟」だからで良いかと考えます。
貴種信仰は当時ではかなり強力でしたから「源氏の血統」「頼朝の弟」ぐらいでないと逆に連合軍の御大将になれないとも言えますが、義経自身の御大将としての求心力はとりあえずそんなものです。ここも後のために少し言い換えをしておくと実力で勝ち取った御大将の座と言うより、家柄身分で任命された御大将の位置付けぐらいに解釈しています。
もう一つのポイントは寄せ集めの連合軍ですから、あんまり手の込んだ戦術は駆使しにくいはあるとも思っています。二手とか三手に分かれるぐらいはあっても、あんまり複雑な戦術行動は難しいかろうです。これも率いる兵数が少なければまだしも、大きくなると大雑把な指示しか実質的に行なえないだろうです。自然発生的に成立している基本的な合戦作法を根底から覆すような戦術は取り難いと推測しています。
御大将には軍監がセットで付きます。軍監の役割が時代によって変わるのですが、源平時代ならかなり重い地位であったと考えています。軍監の基本的な役割は御大将として任命された者を、源氏軍なら頼朝の代理人として監視するのが役割と見ます。ある意味、御大将と同格に近い位置付けです。さらに軍監の役割はそれだけでないと思っています。
御大将は雑多な連合軍の統合の象徴みたいな感じもありますが、軍監はそういう諸豪族の筆頭の位置も兼ねていたんじゃないかと見ます。人望・能力・直属兵力から本来なら御大将でも構わないぐらいの実力者です。諸豪族の意見の取次ぎ役、または宥め役もあり、御大将に同格で物を言える立場でもあったです。御大将の能力・見識によっても変わりますが、実質的な司令官的な役割さえ期待できる感じです。
とにもかくにも御大将と軍監はセットで存在するのが原則で、戦術的に別働隊を作るにしても、別働隊の大将として安易に指名、別行動は取れないんじゃないかと考えます。総司令官と参謀長ぐらいの関係でも良いかもしれません。今日はそういう前提で義経の戦術を考える事にしています。
まず軍監である土肥実平が塩屋にいたのは平家物語から確実と考えます。遡れば藍那で行綱と合流した時にも実平は同じだったはずです。そうでないと軍監の役割を果たせません。実平が塩屋に居たのなら義経もまた塩屋にいたと考えるのが妥当です。さらに言えば六甲山系の西側地帯の交通路は源氏が自由に利用できていたとも言えます。
義経が塩屋にいた、か細い傍証ですが、多井畑厄神に義経が必勝祈願を行ったという伝承があります。こんなものは代理人でもOKじゃないかの見方は当然出来ますが、合戦の前日に御大将が必勝祈願を行う事自体が戦術的な意味があります。当時は武士でも信心深いものがあります。生死の境の合戦に挑むにあたり、御大将が必勝祈願を行い「神意は我に味方せり」と言うだけで士気が上ります。
これは無神論者と言われている戦国期の信長でさえ桶狭間の決戦の前に熱田神宮で行なったぐらいですから、やはり御大将自らが行うのに意味があり、これを大々的にデモンストレーションとして行うのに戦術的な意義があるです。だから義経は自ら多井畑厄神に赴き必勝祈願を本当に行ったと考えます。多井畑厄神まで義経が進出しているのなら、当然宿営地の塩屋に軍監の実平とともに居たと考えるのが自然です。もう少し言えば塩屋に搦手軍が陣を取った事により、平家側も明日なりにそのまま平家陣営の西の木戸周辺に攻め寄せてくるだろうと予想させる事もできます。
この搦手全軍が塩屋にいたと仮定すると熊谷・平山の先駆けの事実の説明がラクになります。熊谷・平山の先駆けは吾妻鏡にも記載されているぐらいなので、あったのは事実と考えます。これもどういう経路を取って先駆けを行ったのかが謎だったのですが、塩屋なら簡単です。とりあえず塩屋口は源氏搦手軍の最前線に当るので警戒厳重なので通行不能です。抜け駆けはやれば手柄ですが、基本的には禁じられている行為であり、これを破ってこその手柄と言う側面があります。そうであれば、
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塩屋 → 多井畑 → 須磨
義経は宇治川合戦も指揮している訳ですから「必ず誰かが先駆け(抜け駆け)」をやるだろうと予測していたと考えています。当時の源平両軍の武士にとっても未曾有の大合戦の意識はヒシヒシあったでしょうし、ここで抜け駆けでも先駆けをやれば大手柄間違いないしだからです。それと先駆けは武士の誉れとして称えられるものです。つまりは先駆けした武士を称えると同時に
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あの者を討たしてはならぬ、ものども遅れず突っ込め
そこで義経は土肥実平にうまい事を言って先に突っ込ませたです。そうですねぇ、
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熊谷・平山を討たしてはならぬ。まず実平殿が続かれよ、私も残りの兵を集めてすぐに続く
- 名乗りを上げ、お互いの兵力・有力武将を誇示する
- 矢戦
- 徒歩戦
源平時代でも軍の編成・行軍秩序は源平時代なりにあります。無秩序に搦手軍全員が押し出すわけにはいかないので、まず出撃できる兵力を率いて熊谷・平山の加勢に赴くです。これを実平に命じて、義経は残りの兵力を編成しながら後から続くとの指示です。このまま決戦に雪崩れ込んでいくのは明らかですから、加勢の大将も大物が必要であり、軍監である実平が御大将である義経と一時的に離れても合戦場の作法としては問題ないぐらいの解釈です。そうやって実平が出陣した後も編成が終わった部隊を後詰に出撃させながら、最後に義経は西の木戸に向かわずに反転したです。推測図上は省略していますが、おそらく進軍時のルートは、
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藍那 → 白川 → 車 → 多井畑 → 塩屋
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塩屋 → 多井畑 → 車 → 妙法寺 → 長柄越
反転時に率いる事が出来たのは少数です。ここもなんですが、関東遠征軍のうちで筋目の良い家柄の豪族は基本的に大手の範頼軍に優先的に配属されているとなっています。一方で搦手の義経軍は一旗組の小豪族が多かったと言われています。それでも実平が率いたのは搦手軍の中では比較的筋目の豪族だったんじゃないかと考えています。義経の手に残ったのは一旗組の小豪族集団だろうと見ています。これで少数にはなりますが高速移動が可能にもなります。
年末の考察では義経は前夜に妙法寺に宿営した説を取りましたが、幾らなんでも平家がこれに無頓着である事は考えられません。当然のように長柄越ルートは警戒します。警戒されたら奇襲は成立せず強襲になりますし、峠を麓から攻めあがって攻撃するとなると少数では話になりません。奇襲するつもりなら妙法寺に宿営などしないはずです。問題は吾妻鏡なんですが
寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。
おおよそですが「寅に刻」が午前4時頃、「卯の刻」が午前6時ぐらいになります。このまま信じると熊谷・平山は義経と共に妙法寺に移動し、そこから須磨方面なりに出た事になります。具体的なルートについてはわずかに平家物語に「田井畑」の記述があるのみです。一の谷合戦の状況を推理するのに平家物語も吾妻鏡も一級資料なんですが、全部資料通りに合わせようとするとどこかに無理が出ます。
熊谷・平山の先駆けは史実として良いでしょうし、卯の刻も夜明け頃でそんなに間違いではないと考えます。一方で義経が深夜に御大将自ら軍監とは別に別働隊を率いて行動するのには軍制からして無理があります。決戦を控えて御大将は本軍に鎮座しておく必要があり、そんな勝手な行動は軍監である土肥実平が認めるとも思えません。あえて吾妻鏡を読み替えると熊谷・平山が塩屋の宿営地を抜けたのが寅に刻(午前4時)、そこから多井畑〜須磨〜西の木戸に到着したのが卯の刻(午前6時)であったと見る方が合理的な気がします。義経が実際に妙法寺(吾妻鏡の鵯越)に着陣したのはもっと遅い時刻であったと見ます。玉葉からですが、
次いで加羽の冠者案内を申す<大手、浜地より福原に寄すと云々>、辰の刻より巳の刻に至る、猶一時に及ばず、程なく責め落としおわんぬ
辰の刻は午前8時、巳の刻は午前10時ぐらいになります。午前6時の熊谷・平山の先駆けで始まった合戦ですが矢合わせ自体がその時刻と平家物語ではなっています。当然ですが東側の生田の森でも合戦は始まっています。ただ東側は合戦作法に基づいて手順通りにある程度進んだと考えられますから、徒歩戦からの乱戦に至ったのが午前8時頃だったのかもしれません。午前10時でも「猶一時に及ばず」となっていますから、この時点で義経の鵯越奇襲が行なわれたと見ても良いかと思われます。時刻関係を推測も含めて整理すると、
時刻 | 行動 |
午前5時 | 熊谷・平山の抜け駆け(先駆け) |
午前6時 | 実平が搦手主力を引き連れて加勢 |
午前7時 | 義経は残っていた手勢を率いて妙法寺に反転 |
午前10時 | 長柄越の奇襲 |
熊谷・平山も午前6時の矢合せの時刻は知っていたと考えられ、抜け駆けするならその前でないと成立しません。実平の加勢は予定変更で混乱があったとしても元の矢合わせ時刻の午前6時には加勢に間に合ったと考えます。塩屋から長柄越までは概算で10km程度です。3時間あれば到着可能と見ます。峠を登って一息ついて一斉に駆け下りる鵯越が午前10時頃で、この混乱により平家軍は総崩れになったです。かなり都合よく読み替えていますが、義経があえて主力決戦を眼前にしながら引き返すという点が奇襲最大のキモの気がしています。
この義経が実平をペテンにかけたような作戦は勝ったから帳消しになったものの、やはり問題は残した気がします。どうにも義経は御大将にあるまじき振る舞い(スタンド・プレー)が目に余るの評価です。そのためかどうかは不明ですが、頼朝も義経の軍事的才能は評価してもタズナをしっかり掛けておく必要があると判断し、軍監を実直な土肥実平からより官僚臭の強い梶原景時に変更したのかもしれません。
義経へのそういう評価は源平戦後にも尾を引き、義経と頼朝が対立した時に殆んど誰も義経に加担しようとはしませんでした。そりゃ頼朝に付くのは形勢からして当然そうなりますが、義経だって後ろ盾に後白河法皇が形の上では居たわけですから、もうちょっと対平家戦の英雄に加勢する豪族が居ても良さそうな気がするからです。そういう不人気の遠因を一の谷の時に作ったのかもしれない気がしています。
平家側としても痛かったのは三草山の派遣軍の壊滅だったと思います。このために平家陣地の北方配置は放棄せざるを得なくなったと見ます。勝っていれば源氏搦手軍の脅威がなくなり生田の森に主力を注ぎこめたのですが、負けてしまったので
- 新たに北方配置部隊をどこからか引き抜かないといけない
- 西方も攻撃が予想され配置の手を抜けない
- 当方は源氏の大手軍が確実に来るのでもちろん手を抜けない
もう一つ三草山派遣軍の壊滅は、一の谷要塞の価値を落としてしまった可能性も考えています。鵯越道はちょうど一の谷を見下ろすルートを取ります。急峻な崖なので軍勢が容易に駆け下りられないとしても、頭上からの弓矢の攻撃も可能になりますし、火矢でも使われたら厄介です。そういう危惧から総帥宗盛は大和田の泊に本営を移動してしまった可能性も考えています。
この方面の防衛に回った盛俊にしろ、教経にしろ頭上に当たる鵯越道の防衛に関心が集中したとしてもおかしくありません。幸いな事に源氏搦手軍は塩屋から西口に攻撃をかける様なので長柄越ルートの守備はかなり手薄にしたんじゃないかと見ています。つまりは「そこから来ない」です。
一の谷の決戦での源平の兵数は歴史の彼方ですが、当時の動員力からして双方とも1万前後じゃなかったかと見ています。平家のあえての失敗は1万は大軍でも構築した陣地が広すぎたはあると思っています。これをカバーするために三草山別働隊を派遣したのですが、これが脆くも潰走してしまい手薄に拍車がかかる状態で決戦の日を迎えたのではないかと推理します。そういう状態ではどこかの手を抜かないと源氏の攻撃を防ぎきれないと判断し、手を抜くところは長柄越としたとの考え方です。
そこに少数とは言え義経に突破されてしまったのが敗因です。山の手、東方、西方で目一杯のところに「まさか」の長柄越をやられて一挙に敗走になってしまったです。平家軍は広い陣地の外郭に兵力を貼り付ける配置になっており、どこかから内懐に突入されると、これに対応できる予備兵力が乏しすぎた言うところでしょうか。
ここまでの仮説では、
こうしています。伝説の逆落としをやれる可能性があるのは鵯越道の行綱になります。長柄越では普通の峠越えで逆落としにはならず、地形的に可能性があるのは鵯越道からの行綱になります。ただ行綱の進軍は平家も予想し防御体制を取っていたと推測しています。つまりは奇襲の逆落としではなく、強襲の逆落としになったんじゃなかろうかです。逆落とし後は激戦が展開されるだろうです。行綱は源平合戦後は頼朝に疎まれて歴史上からは抹殺状態になります。義経も疎まれて実際に抹殺されていますが、義経の名前を歴史から消すのは頼朝とて出来なかったと言うか、義経追討の名目で鎌倉政権の地盤固めをやったのが頼朝です。平家物語の成立は源平合戦のかなり後で、当時の伝承の集大成と考えて良いかと思います。一の谷合戦は源平の雌雄を決した大会戦ですが義経の功績はやはり明らかです。
明らかなんですが平家物語の原作者もまた義経が三草山の後にどう動いたかはハッキリしなかったのだと考えています。あるのは断片的な伝承のみです。でもって伝承の中に行綱の名前が欠落していたと推測します。最終的に採用すると判断した伝承は、
この3つの伝承から話を紡げば、軍監の土肥実平と御大将の義経は合戦前に分かれないといけません。どこで別れたかの伝承なんてないので創作で穴を埋めます。さらに決定付けるような攻撃として崖下り(逆落とし)は軍記物語のエッセンスとしては魅力的です。逆落としが合戦の帰趨を決定付けたのなら、当然奇襲でなければならず、奇襲であるためには鵯越道が人も容易に通れない、つまりは平家側も「まさかあんなところを・・・」の険しすぎる道である脚色も必要になります。そう解釈して書いてしまったので現在に至るまで振り回されている気がなんとなくしました。もちろんこの推理が正しいかどうかは誰も確認する事は不可能です。あくまでも仮説の一つに過ぎません。楽しんで頂ければ幸いです。