避難所診療の思い出

こんな時に何を書いたら良いのかわからないのですが、阪神大震災のささやかな経験を書いておきます。

あの時は勤務していた病院は停電が長引いたぐらいで大きな被害はなく、なおかつ、やや郊外に位置していたために、負傷者殺到の経験はありません。そのため被災地診療を行ったのは主に避難所診療になります。この時も県と市の訳のわからない縄張り争いがあり、地震発生から一段落した数日後の出動だったと記憶しています。

たしか第一陣ではなかったはずですが、「行けばなんとかなる」と言う力強いアドバイスで、心細い思いで避難所に向った記憶があります。当時は年数こそ重ねていましたが、ほぼ純粋の小児科しか経験しておらず、内科の慢性疾患への対応にかなりの不安を抱えていたのは白状しておきます。まだ外来自体を担当する段階でなかったのも不安の要因でした。

避難所に到着して、とりあえず薬品とその他医療用品をチェックしたのですが、「こりゃ、大変」と痛感しました。あったのダンボールに乱雑に詰め込まれた医薬品だけでした。これでは何もやりようがないので、行ったスタッフと一緒にダンボールの中の整理と確認をまず行いました。

ザザッと確認して診療を始めたのですが、患者は待ちかねたように次から次に押し寄せます。避難所内にはインフルエンザと思われる発熱疾患が蔓延していましたが、当時はインフル検査キットもインフルエンザ治療薬も無い時代でしたから、とにかくあり合せの薬を配るのに専念せざるを得ない状態に陥りました。

あの時に非常に助かったのは一緒に行っていた外科の若い先生(私も若かったですが・・・)で、非常に機転の利く先生でした。これだけ患者が押し寄せられたら、ダンボールの中をゴソゴソと漁っていたのではニッチもサッチもいかないので、いっそセットにしてしまおうと提案されました。抗生剤と鎮痛解熱剤と咳止めの類を輪ゴムで組み、これを渡していこうの段取りです。セットも最初は3日分にしていたのですが、午前中の消耗が激しかったので、午後は2日分に組みなおして渡しています。

非常に粗い診療でしたが、とにかく医師が診察して、薬が手に入っただけでも満足していただけました。診察する方も心苦しかったのですが、「とにかく、今日はこれで様子を見てくれ」としか言い様がなく、やや重症の患者には10人分ぐらいしかなかった点滴を惜しみ、惜しみながら行う状態だったのを覚えています。


懸念していた内科の慢性疾患の受診はありました。当時はお薬手帳の類はなく、着の身着のままで避難した被災者は何を服用しているか不明でした。もっともわかったところで薬の用意もなく、あったのは高血圧にアダラート舌下錠、糖尿病には少しだけオイグルコンがあった程度だったと記憶しています。あとはこれもほんの少しだけプレドニンがあり、喘息と重症筋無力症の患者に急場しのぎで渡していました。

小児用の薬はほぼなく、あったのはベンザの小児用咳止めシロップだけでした。「これが治療か!」と思わざるを得ませんでしたが、無い物は無いわけで、ひたすら「今日はこれでしのいで下さい」としかやり様が無かったのは悲しかったところです。


避難所は中学校だったのですが、それこそ便所の前の廊下まで被災者が溢れていました。夕方になってちょっと一段落した頃に、体育館まで往診に来てくれないかの要請がありました。たかが体育館までの往診なのですが、これが大変で行き着くまでに、「こっちもついでに」が必至でしたから、ダンボールに例のセット薬を詰め込んでの出発です。

予想通りにお声がかかり、保健室から体育館を往復する間に抱えていった薬セットはほぼ無くなりました。1時間はラクにかかったかと思います。漸く帰りつくと、ほぼ薬は無くなっており、それこそ「明日はどうなるんだろう」と暗澹とした記憶があります。往復は病院救急車を利用(そうでもしなければ大渋滞でクルマが動きませんでした)しましたが、窓から見える風景は惨状その物でしたから、余計に心が萎えたのも今でも覚えています。


神戸の時は被害は大きかったですが、それこそ大阪まで行けば、ごく普通の日常生活が広がっていました。西は明石どころか西神まで行けば、ありふれた日常生活になっていました。それを知っていただけに、被災地との落差に「なんとかならんか」の思いを強くしたものです。すし詰めの避難所の生活、病気になっても十分な医薬品どころか食糧さえも不十分で、暖さえ取れない生活から脱出できるのにです。

そんな悲惨な避難所生活も、後の展開を考えると非常に複雑な経過となったのは忘れていません。震災時にも悲惨な避難所生活から脱出された方々もいました。親戚を頼ったり、他府県の方が提供してくれた住居に頼ったりです。ところが「避難所 → 仮設住宅 → 復興住宅」のラインに乗れたのは、避難所に残っていた方のみになってしまいした。

数が足りなかったので、どこかで線を引かざるを得なかったのは理解せざるを得ませんでしたが、今でも相当複雑な思いを抱いています。余りにも救済しなければならない人数が多すぎると、悲惨な避難所生活を耐え忍ぶのが必要条件になってしまうのだろうかと言う事です。


阪神の被災経験者といえども、急場のアドバイスは難しすぎます。震災直後にどうやって生き残ったかなんて、言ってみれば「運」だけです。私で言えば、たまたま自宅の被害が少なく、家族も負傷せず、職場も健在であったなんて、その時の運以上の何者でもありません。後はひたすらある物と、何とか入手できたもので急場のサバイバルを行ったに過ぎません。

経験者として注目したいのは、復旧過程になってからです。阪神の時は復旧過程で様々な問題が生じました。あの時は国を含む行政サイドも不慣れで、ドタバタはやむを得ない側面がありましたが、今回はどうかです。

阪神からも幾つか大きな地震がありましたが、あの教訓はどれだけ活かされているのだろうかです。今回は阪神以来の大規模な被災者を生み出しています。よりきめ細かい救済対策が行われる様に祈るばかりです。

被災地外にいる者は、いかに切歯扼腕しても急場の役には立ちません。今単身乗り込んだところで、邪魔なだけです。それでも急場の役には立たなくとも、これから役に立つところはたくさんあります。急場は本当の専門家の活躍の場です。急場を過ぎれば、生き残った被災者には生活再建のための長い、長い道のりが待ち受けています。

そこに何か役立てる事はないかと考えて欲しいと思っています。一人一人が行えることは小さくとも、これが数百万人、数千万人が行えば大きな支援になります。震災支援は短期決戦ではなく、長期戦になることを覚えていて欲しいと思っています。