四万十市立病院の興亡

ssd様のところで見つけた6/24付読売記事からムックしてみます。

医師移住に支援策

四万十の協議会 市民病院 確保目指す

 四万十市民の有志らでつくる「四万十市への在住を支援する協議会」(多和博嗣会長ら委員15人)は23日、市役所で総会を開き、医師数が7人に半減し、深刻な医師不足が続く市民病院への医師確保を目指し、特別支援コースを設ける新規事業などを承認した。

 支援する会は2005年に発足し、昨年末には、移住者の会「四万人(しまんちゅ)」に事務局を置き、市の補助で「四万十移住ネット」の全国発信を始めた。半年で延べ2982人のアクセスがあり、移住者を厳選する方針で審査し、合格した1組が移住した。

 今年4月に四万十川沿いの自然環境が気に入って移住し、市民病院に勤務する女性医師の事例をモデルに、「本気で移住する人を」と、医師の移住支援特別枠を企画。地域活性化センターから補助金(185万円)を受けることができた。

 総会では、吉岡仁志総務局長が「攻めと守りの移住支援活動の確立事業」として、医師に絞ったヒアリング調査、ホームページの発信企画、冊子作成などを挙げて「地域に必要とされている人を優遇して呼び込みたい」と説明。支援する会の委員でもある田中全市長は「市民病院のホームページと合わせた効果が期待できる」と歓迎した。

 このほか、移住者を講師に農業体験コースも設けることも報告した。

ちょっと事実関係を整理しておきますと。

  1. 四万十市への移住を勧める市民運動が存在する
  2. 市民運動は昨年末から市も補助する様になった
  3. 昨年末からの移住応募が2985人あり1人だけ合格とした
  4. 反応が良かったので医師募集にも適用しようとしている
パッと読んで、医師移住を募ったら2985人も応募があり、そこから1人だけ厳選したのかと思いましたが、そうではなかったようです。医師移住があったかどうかは実は微妙で、
    今年4月に四万十川沿いの自然環境が気に入って移住し、市民病院に勤務する女性医師の事例をモデルに、「本気で移住する人を」と、医師の移住支援特別枠を企画。地域活性化センターから補助金(185万円)を受けることができた。
あとは2985人が応募なのか、問い合わせ件数なのか、単なるHPへのアクセス件数なのかは不明です。前身の純然たるボランティア団体だった頃は1/5付読売記事によれば、

07年度までの3年間に受け入れた移住者は106組。問い合わせも3年間で約200件にあった。

ただ

厳しい景気状況を反映して、移住希望者は増加傾向だ。支援する会では希望者に無料で資料を送っていたため、1けたの空き家に対し希望者が約200件とアンバランスな状態が続いていた。

結構希望者は多いようですから、なんとも言えないぐらいにしておきます。




ここまでは実は前フリで、調べだしたら妙に興味深かったので

    医師数が7人に半減し、深刻な医師不足が続く市民病院
この市民病院についてムックしてみます。まず概要ですが、プラスアルファの情報として四万十市立市民病院改革プランも参照にします。
    病床数:130床(うち33床は休床中)
    診療科:内科・外科・泌尿器科・整形外科・脳神経外科
    医師数:7名 看護師等:65名 医療技術者:20名 事務・その他:17名
なお平成22年1月現在では医師が6名になっていましたが、読売記事にある4月の女性医師の赴任により7名になったと考えたら良さそうです。医師7名の内訳ですが、

診療科 役職 医師免許取得年次 推定年齢
内科 院長 昭和47年(1972年) 62歳
医長 平成18年(2006年) 28歳
外科 科長 昭和58年(1983年) 51歳
整形外科 副院長 昭和52年(1977年) 57歳
科長 平成11年(1999年) 35歳
脳神経外科 科長 昭和54年(1979年) 55歳
科長 平成8年(1996年) 38歳


推定年齢は最短コースを取ったものとしてのものです。7名のお仕事は通常診療の他に、

診療時間:午前8時30分から午後5時15分まで ただし、救急患者は午後10時まで受付する。また、第1・第3日曜日は四万十市の当直医となっている。

応援の有無は不明ですが、仮に院長・副院長も含め7名で賄っているとすれば、月の当直回数は休日を日当直として、週に1回になります。なんつうても7名ですから毎週回ってきます。その上で午後10時まではdutyとして救急受付をやっていますから、労基法に絡めて考えると楽しい勤務体制のようです。たぶん労基法41条3号に基く宿日直のように思うのですが、ここは情報がありません。

労基法問題もこの程度はさておくとして、泌尿器科医がゼロでも泌尿器科あるのが気になるところですが、泌尿器科医は平成18年4月にいなくなっています。それでも、

平成20年7月から休診していたが、平成22年2月より再開

泌尿器科医がゼロになってから2年4ヶ月存在し、なおかつゼロのまま今年の2月から再開したようです。非常勤でつないでいたのでしょうか。ちなみに現在は木曜日の午前診のみ維持されているようです。何故に泌尿器科にこれほどのこだわりがあるのかもチョットした謎です。これもこれ以上わからないので、この病院の歴史をピックアップして見ます。

昭和27年11月

どうも発足時には8診療科を謳いながら3診療科でスタートしたみたいです。3診療科に産婦人科が含まれているのに時代の差を感じます。診療科の開始時期をピックアップすると、

年月日 診療開始時期
昭和27年11月 外科、内科、産婦人科の診療開始
昭和28年3月 眼科診療開始
昭和28年6月 耳鼻咽喉科診療開始
昭和29年6月 小児科診療開始
昭和57年1月 脳神経外科標榜
昭和60年3月 整外外科再開
昭和62年4月 泌尿器科再開


実は泌尿器科と整形外科が謎で、いきなり「再開」と言う表現になっています。再開と言うからにはどこかから始まり、どこかで休診していたはずですが時期は不明です。まさか昭和27年に作ると申請して、出来たのが30年以上経過してからとは思い難いのですが、詳細は不明です。またかつてあった事が確認される産婦人科や小児科、耳鼻咽喉科、眼科がいつ休診になったのかも確認しようがありませんでした。

常勤医師数が確認できるのは昭和53年からで、この年の常勤医数が凄いのですが、

    外科:2名  内科:1名  計3名
たったの3名です。一方でこの昭和53年頃のこの病院の動きとして、

年月 出来事
50年 6月 ●病院改築第2期工事竣工
  [ 建物の構造等 ]
・鉄筋コンクリート 5階建 1 棟(管理棟、診療棟、病棟等)
・鉄筋コンクリート 2階建 1 棟 (炊事、機械室等)

・敷地面積 8,150 平米 (内、伝病 2,353 平米)

・建築延面積 5,871 ?平米 (内、伝病 1,115 平米)
・総事業費  822,452 千円
・稼働診療科目  内科・外科
・病床数 一般 100床(変更なし)、結核 15床(15床減)、伝病 33床(変更なし) 計 148床
51年 4月 国保直診富山診療所及び同大川筋診療所が当院の附属施設となる。
7月 ●人工腎臓透析室増設(8台増)


どうもなんですが、148床の病院が竣工し、診療所2ヶ所を付属施設とし、人工透析器が3倍の12台に増設される中で常勤医3人で診療を維持していた事になります。一体この時期に何があったんだろうと思わざるを得ませんし、どういう診療体制であったんだろうと興味ばかりが掻き立てられます。御存知の方はよく御存知と思いますが、この病院は高知のほぼ西端に位置し、非常勤と言ってもそうは簡単に近寄れない病院です。

さすがに3人ではどうしようもなくなったのか、

昭和54年 4月 ●徳島大学より医師派遣決まる。(内科医3名、外科医4名)

翌年に徳島大から7名の派遣を受けています。では医師が10名になったかと言えばそうではなく、常勤医数はこの7名のみです。前年からいた3名がどうなったのか、これまた不明です。当時の医局の支配力からして前年にいた3名は追い出された可能性は十分ありますが、そうであれば徳島からこの病院にいきなり7名も医師を派遣できた徳島大の過去の栄光を見る思いです。

以後は記載は無いのですが、徳島大の派遣病院として栄えたと解釈するのが良いのかもしれません。御存知の方がおられれば情報頂きたいのですが、常勤医師数は漸増していき、平成9年にはピークの18名に達します。ちなみにこの病院の医師定員は18名で、基準を満たしたのはこの年だけです。これもちなみにですが、昭和61年11月には一般病床が130床(他に結核15床、伝染病33床)となっており、以後に結核病床、伝染病床は順次廃止されています。

ピークを迎えた平成9年(1997年)から現在までの医師数の動きをグラフにして見ます。

平成15年4月〜平成17年4月の2年間の間に半減しています。この辺りでの病院の動きは、

年月 出来事
14年 2月 中医学研究所附属診療所(東町)診療開始
3月 中医学研究所(中医クリニック・鍼灸院)竣工(下田地区)
  [ 建物の構造等 ]
・鉄筋コンクリート 2階建(1階 診療部門 、2階 研究・研修部門)
・建築延面積 1,375 平米
・総事業費  424,476 千円
14年 4月 ●附属鍼灸院(東町)施術開始
7月 中医クリニック・鍼灸院(下田地区)診療・施術開始
14年12月 ●病棟改修工事竣工
  [ 改修内訳等 ]
・3〜5階の全面改修(5階の病棟化、個室の増床、談話室兼食堂、相談室、家族控室、洗面所等の新設)
・改修面積 3,334?
・総事業費 151,220 千円
15年 6月 ●駐車場整備
・駐車台数139台の整備
8月 麻酔科標榜
11月 マルチスライスCTスキャナ導入
16年 3月 臨床研修病院 指定
4月 ● (財)日本医療機能評価機構 認定
17年 1月 ● 敷地内全域禁煙実施
4月 ● 廃置分合により 四万十市立市民病院に名称変更
18年 4月 ● ボイラー室ほかアスベスト除去工事完成


あれまあ、病院機能評価なんて受けてますね。これの影響とまで言いませんが、平成19年には7人まで減少し、戦力が半減したのですが、その結果も記録されています。

年月 出来事
18年12月 中医学研究所附属診療所(東町)、中医クリニック、鍼灸院(下田地区)中止
19年 3月 ● 富山、大川筋両診療所廃止
  ● 救急医療機関撤回
4月 ● 130床のうち33床休床



平成18年に11名まで減った時には救急医療機関を維持したようですが、平成19年に7名まで減った時にはついに返上しています。「富山、大川筋両診療所廃止」は経緯からわかるでしょうが、「中医学研究所附属診療所(東町)、中医クリニック、鍼灸院(下田地区)中止」はちょっと判り難いと思いますから補足しておきます。

年月日 出来事
14年 2月 中医学研究所附属診療所(東町)診療開始
3月 中医学研究所(中医クリニック・鍼灸院)竣工(下田地区)
  [ 建物の構造等 ]
・鉄筋コンクリート 2階建(1階 診療部門 、2階 研究・研修部門)
・建築延面積 1,375 平米
・総事業費 424,476 千円
14年 4月 ●附属鍼灸院(東町)施術開始
7月 中医クリニック・鍼灸院(下田地区)診療・施術開始


平成12年6月から病院に中医学科が開設され、これが発展して平成14年に総工費4億円で施設が建設され、平成18年2月に閉鎖されたと言う事です。


まさに病院に歴史ありですが、昭和53年頃に常勤医3名に落ち込んだ苦境の時期を抜け出した経験がありますから、これを活かして再び復活するのでしょうか。ここで一つ気になるのは改善計画の内容です。鬼門の収支計画表を抜粋しますが、

項目 18年度
(実績)
19年度
(実績)
20年度
(実績)
21年度
(見込み)
22年度 23年度 24年度
経常収益 医業収益 2387 1901 1909 1796 1873 1873 1873
医業外収益 92 77 70 72 73 148 195
うち繰入金 85 71 64 67 67 142 189
経常費用 医業費用 2653 2208 2091 1890 1993 1974 2024
うち人件費 1269 1119 1018 914 951 914 957
医業外費用 48 45 44 47 45 47 44
経常損益 -222 -275 -156 -69 -92 0 0
特別損益 0 300 220 70 0 0 0
純損益 -222 25 64 1 -92 0 0
累積欠損金 1170 1145 1081 1080 1172 1172 1172
不良債務 -208 76 -23 -17 103 94 101
病床利用率 71.4% 55.6% 64.2% 51.3% 56.2% 56.2% 56.2%


これまで経営改善計画を幾つか見ましたが、なんと現実的かと感心しました。別に改善計画を作ったからと言って、病床利用率や医業収益が急増するわけでなく、とりあえず医師の減少がなんとか横這いになっている時点での成績を基に考えられているのがわかります。ちょっと注目してよいと思うのは人件費で、かなり削減される計画のようです。

人件費がこれだけ削減されて、最盛期の18名なんて医師を常勤にするのは無理でしょうから、減ったなりの医師数でなんとかやりくりしていこうの計画に私は読めました。また純損益の見込みも黒字バンバンではなくプラマイがゼロが目標です。これだけ冷静に評価できる人材がいるのなら、まだまだこの病院は大丈夫そうに思えます。