ブログは春休みにします

かなり煮詰まってまして、お休みを頂いて充電・リフレッシュさせて頂きます。予定は今週一杯です。これで休みに入ったら愛想が無いので、歴史閑話を一つ書いておきます。触発されたのは天漢日乗様の遷都1300年なのに奈良時代の面白そうな歴史小説が出てこない理由です。ここに

    ところで、
     遷都1300年なのに、新しい奈良時代歴史小説があまり出てこない
    という話になった。

この話に私も一枚噛んでましたから参戦してみようと言うわけです。ただし天漢日乗様は専門家ですから、

    で、奈良時代の小説を書くなら、基本資料として『続日本紀』があるわけで、これは現代語訳もあるし、岩波の新古典大系本もあるから、取っつきやすいんだけど、ただ『続日本紀』から必要な事項をずらずら抜き出しても小説にはならない。抜き出しそのものは、技術さえあれば30分も掛からない。
    制度については、膨大な研究があり、ウソを書くとすぐバレる。しかも、中国の律令制を輸入して、日本流にアレンジして使っている時代なので、これまたいろいろ面倒だ。

某所の天漢日乗様はもうちょっと厳しくて、エエ加減な資料調査に基いての小説など読むに値しないとまで仰られていました。研究者としてはよくわかるのですが、それでは続日本紀でさえエエ加減にしか読み流していない私には、口も挟める資格がなくなってしまいます。そこで閑話としては続日本紀も制度の問題も離れたところで歴史雑談を楽しむぐらいのスタンスで書いてみたいと思います。


奈良朝の創始者天武天皇です。天武天皇天智天皇の息子である大友皇子皇位を争い(壬申の乱)、これに勝利して皇位を継承しています。そして築いた都が平城京すなわち奈良と言いたいところですが、平城京に都を移したのは3代後の元明天皇の時です。ここから桓武天皇平安京(ないしは長岡京)に奠都するまでの時代を奈良時代と呼びます。

ここで今日の用語の解説を入れておきますが、奈良時代元明天皇から桓武天皇の時代までを指しますが、奈良朝と称しているのは天武天皇から桓武天皇ないしは、もっと狭く称徳天皇の時までにさせてもらっています。奈良朝の系図を示します。

奈良朝を特徴するものとして、よく天智系とか天武系に分類されます。ですから奈良朝は天智系から皇位を奪った天武系の時代であり、桓武の父の光仁天皇から天智系に回帰したとの見方があります。ただ天武系の奈良朝と言いますが、系図を見ればお分かりのように、天智系が完全排斥されているわけではありません。

男系であれば解説は可能ですが、女系も考慮に入れると純天武系とは言い難い様な気がします。そのうえに奈良朝は女性天皇の時代です。奈良朝天武系九代の皇位継承ですが、

赤字が女性天皇ですが、9代のうち5代(4人)が女性天皇です。この継承はやはり異常です。こういう継承が行なわれた背景に、天武天皇の息子の草壁皇子の存在がクローズアップされます。とくに持統、元明、元正の3人の女性天皇は、この継承を実現させるためのツナギであったとされます。つまり奈良朝は草壁皇子の血統を皇位につけるための歴史であったと解釈されるわけです。この解釈も珍しくないのですが、何故にそこまで執着したかになります。すべては持統天皇の権勢欲ないし生き残り戦略でなかったかと推定します。

天武天皇の後継問題を考えた時に、持統天皇が権勢を保つ戦略は息子の草壁皇子皇位に就く事です。他の皇子が皇位に就くと権勢が低下するどころか暗殺の危険さえあるのが権力争いです。ところが草壁皇子は愛想のないことに若死にします。そうなると草壁皇子の代役に孫の文武天皇を擁立しなければならなくなります。

当時はまだまだ長子相続の制度が確立している訳ではなく、兄弟相続も日常的に行なわれています。また長子であっても必ずしも相続できるわけではありません。母親の出自の問題もありますが、当人の人望・能力にも左右される時代でもあります。もちろん出自につながる有力豪族の意向も無視できるものでもありません。

歴史上はすんなり持統天皇が即位して孫の軽皇子皇位を受け渡しているように見えますが、軽皇子とて正当後継者であった草壁皇子の子どもであるから確実に皇位に就けるというわけではありません。そもそも天武天皇自体が兄弟相続を戦争に訴えてまで果たしているのですから、実例が非常に生々しく人々の記憶に残っている時代でもあります。

それと古代の天皇位はお飾りではありませんから、まだ子どもの軽皇子文武天皇)に直接継承するわけにはいきません。そこで持統天皇が手を組んだのが藤原不比等で、不比等は持統−文武ラインの確立に手を尽くします。この時の不比等の功績が後の藤原氏全盛の礎にもなっています。不比等が行なった持統−文武ラインの確立は大きく二つあるとされます。

一つは文武継承(及び持統天皇即位)の正当化理論の構築(古事記日本書紀)と、軽皇子以外の排斥です。持統天皇の姉の子である大津皇子はとっとと謀殺しましたが、他にも成人の皇族は存在します。正当化理論の構築と同時に軽皇子以外に有力な後継者がいない状態を形成維持するのが、実行部隊としての不比等の役割になります。

不比等は当時不遇の状態でしたから、大有力者である持統天皇と手を組むメリットは大きく、持統天皇が栄えれば不比等や藤原一門が栄える関係になっています。つうか手を組んだ持統天皇の権力を背景にする事によって藤原一門が存立するぐらいの関係ですから、一蓮托生関係と言ったほうが良いかもしれません。不比等にとっても持統−文武ラインは生命線であるとしても良いと考えられます。

こういう陰謀をやれば強力な利害関係が成立します。藤原一門だけではなく持統−文武ライン派と言うべき権力集団が誕生形成されたと考えるのが妥当です。この集団の目標は天武系王朝の維持というより、もっと狭く草壁系(持統系)王朝の存続に利害を共有していたと考えた方が相応しいように思います。

ターゲットは天智系皇族もそうですが、より皇位継承に近い天武系皇族の方がある意味強かったかもしれません。天武系皇族であっても草壁系(持統系)以外はライバル関係になるからです。そこまで考えると高市皇子は上手に世渡りしたとも感じます。こうやって散々苦労して擁立した文武天皇ですが、これも愛想のないことに15歳で即位して10年ほどで亡くなります。

そうなれば持統−文武ライン派は権力維持のために文武の息子である首皇子皇位継承に驀進する事になります。元明天皇元正天皇と二代続けての女性天皇を擁立したのは、すべては首皇子聖武天皇)への継承のためです。またこの時にも文武継承の時と同様に草壁系(持統系)以外の排斥弱体化は続けられたと考えるのが妥当です。

持統−文武ライン派の努力は聖武天皇の時にある程度実を結んだとはいえます。草壁系(持統系)以外の皇位継承権を持つものは衰退し、奈良朝の栄華の最後の煌めきである大仏建立なんて国家事業に邁進できるほどになったからです。


ただし持統−文武ライン派にも誤算と言うかウィークポイントはありました。英雄天武と女傑持統の血統でありながら、文武も聖武も非常にひ弱い天皇であったことです。ごく簡単には気宇も二流でしたが、生殖能力も低く、草壁系(持統系)の皇位継承者が枯渇するという事態に陥ります。枯渇した挙句に登場したのが、史上唯一の正式の女性天皇(皇太女からの即位)である孝謙天皇です。

孝謙天皇が成立したのは持統−文武ライン派の延々たる努力の賜物でしたが、それだけにどん詰まりの策になります。最後の策は淳仁天皇の擁立と見ます。孝謙天皇では結婚相手が成立せず、このままでは草壁系(持統系)の子孫が滅亡する危険性を考えたからだと考えています。そのため草壁系(持統系)に準じる血統ぐらいでの妥協とも見えます。

ただこれも政争の中で廃位させられ、再び孝謙天皇重祚称徳天皇になります。何か奈良朝の中では初代の天武に唯一匹敵する人物であったようにも思いますが、再び女帝となります。称徳天皇も後世にいろいろ言われますが、結局のところ称徳天皇で草壁系(持統系)は消滅する事になってしまいます。


草壁系(持統系)は消滅しても皇位は継承しなければなりません。草壁系(持統系)は消滅しても持統−文武ライン派は権力を握っており、権力を保つためには天皇を擁することが絶対であったからです。持統−文武ライン派以外の勢力が天皇を担いでしまえば権力の座から叩き出されます。

ところが持統−文武ライン派の活動のお蔭で皇位継承権を持つ皇族は非常に衰弱しています。そこで白羽の矢が立ったのは天智系の白壁王(光仁天皇)です。光仁天皇皇位を継承した理由は色々書かれていますが、子どもが女系ながら聖武天皇の血を引いていた(奥さんが聖武天皇の娘)のと、凡庸とみられていたためと考えられますが、もっと言えばそれぐらい皇位継承候補は残っていなかったと言えます。

しかし光仁天皇の即位後に聖武天皇の血を引いていた他戸王が謀殺され、継いだのは天武系とは無縁の桓武天皇です。桓武の前の光仁天皇から天武系から天智系に皇統が変わったとされますが、当人にどれほどの意識があったのでしょうか。桓武天皇にはあったとされます。現代より祖先の誇りの意識が強い時代ですからあって当然ですが単純な天武系から天智系への回帰だけではないと思います。

奈良朝での草壁系(持統系)護持のおかげで他の皇族の勢力は地に落ちます。落ちたどころか血統が自然消滅した草壁系(持統系)ではなく天武系も道連れで自然消滅してしまいます。皇位から遠いために残滓のように生き残った天智系の皇族に皇位が回ってきただけのことです。天武系からの奪取と言うより、天武系が自然消滅して、辛うじて生き残っていた天智系に皇位が回帰しただけみたいな感覚もあったと思っています。

奈良朝の見方ですが、草壁系(持統系)のみ栄え、他の皇族はひたすら衰退を続け、栄えたはずの草壁系(持統系)も自然消滅するという時代であったとも思われます。そして代わりに台頭した藤原氏が全権を握り締める時代であったとも言えます。この構図は小さな変遷こそあれ、延々と平安時代が終わるまで続いていったと言っても良いと思います。

もう一つ付け加えれば、トップじゃなくてNo.2以下の者が実質全権を握る政治形態が日本で定着したとも言えます。トップには権威はあっても権力はなく、No.2がトップの権威を借りて権力を揮うシステムです。これが良かったか悪かったかの評価はまた微妙ですが、すべてを握りながら決してトップにならない藤原政治が今日まで天皇家を保持したとも言えますから、歴史は本当に微妙です。


さて桓武天皇家にとって待望の英雄的気質のある人物です。持統−文武ライン派も内部抗争を繰り返して勢力を弱めた時期でもあり、桓武独裁に近い政治を行なえるようになります。ここで一つの謎が出てきます。桓武最大の事業の一つとも言える平安奠都です。平安奠都の理由は実は謎とされます。諸説がありますが、結局のところ英雄桓武の気まぐれ説まで出てくる始末です。ただこうやって奈良朝の皇位継承を考えると二つほど理由が思い浮かびます。

  1. 根強く残る持統−文武ライン派の弱体化
  2. 天武系奈良朝が衰退したから縁起が悪い
奈良が都であれば持統−文武ライン派も奈良を中心に勢力基盤を持っているはずです。つまり奈良にいる限り持統−文武ライン派の影響力(クーデター)を心配しなければなりません。そこでそういう旧勢力の地盤から遠い京都に都を移し勢力削減を狙うのはありえます。都を移せば旧勢力の豪族もついてはいきますが、地盤から切り離されて弱体化する計算です。

もう少し考えを巡らせば、天智天皇も大和から近江に都を移しています。天智天皇在世中も天武天皇は大きな勢力を持っており、天智天皇は天武系の勢力の強い大和を避けて近江に都を構えたとも見れます。もう一歩進めると、近江は天智系の勢力が強い土地であったとも考えられます。誰だって反抗勢力の強い土地より自分の勢力基盤に本拠地を置きたいものです。

桓武天皇平城京と言うか大和は持統−文武ライン派の旧勢力が強すぎると感じたかと思います。そこで旧勢力の勢いが弱い山城を都に選んだ可能性はあると考えます。それだけでなく旧天智系の支持も期待できる計算があってもおかしいとは思いません。旧勢力は勢力基盤から遠くなるのと同時に、都も失いますから勢力削減にはもってこいと言うわけです。


それと祟りが国家レベルで信じられた時代でもありますから、桓武から見れば平城京は祟られた地に感じたかもしれません。持統−文武ライン派が散々苦労して皇位を継承した聖武天皇は結局男子後継者を作れず、娘の孝謙天皇称徳天皇)の代で文字通り消滅してしまいます。

東大寺及び全国の国分寺(尼寺)事業は一説では聖武天皇が男子を欲しかったからともされますが、結局望みは叶わず、巨大な伽藍も桓武天皇にとっては呪わしいだけの建物に見えたのかもしれません。あれだけの国家事業を起しても滅びた草壁系(持統系)ですから、これは平城京自体が本拠地として栄える土地でなく、衰える土地の感想を持ったとしても不思議ありません。

これは余談ですが、後年桓武天皇が奈良の旧仏教よりも最澄のもたらした新仏教に傾斜したのは、教義だけではなくこの時の経験がどこかにある様な気がします。簡単に言えば奈良六宗に御利益なし、平城京の地に栄え無しの感じです。



私のは単なる表面的な歴史雑談であって、実際は有力豪族による絶え間ない権力争いが続いています。ここで最初のテーマに少し戻るのですが、この奈良朝を舞台にして面白そうな歴史小説が成立するかです。非常に難しいと思います。奈良朝を舞台にした歴史小説もないわけでなく、これは天漢日乗様も挙げられていますが、井上靖の「天平の甍」があります。大仏建立を題材にしたものもあったようには思います。

ただそういうサイドストーリーではなく、正史に近いところが題材としてどうかと言われると「う〜ん」と考え込んでしまいます。知名度は別にして、どうにも人物が小さいのです。やっている事はコップの中の権力争いですし、権力を握ったからと言って大した事業も行なっているとは思えません。

権力闘争が小説になるのは権力闘争そのものでなく、権力闘争に勝ち抜いた人間が権力を握って何をしたかになります。権力闘争自体は陰惨な世界ですから、それだけを題材として小説を書くのは骨が折れます。陰惨な権力闘争からパッと明るい英雄的事業が後半に配置されてこそ、読者はカタルシスを得られます。

奈良朝の権力闘争は太政大臣なり左大臣になるためだけの権力闘争であり、その目的を果たせばその地位を守るために、これもまた陰惨な権力闘争第二幕の展開になります。どこまで行っても保身と栄達の枠内でのドラマであって、だから歴史にどう関ったかを描き出すのが容易ではないと思っています。

もうちょっと簡単に言えば英雄不在の時代で、英雄的事業が乏しく、英雄的事業を核にして小説を紡ぐというのが非常に難しい時代と思っています。大仏建立は事業規模としては英雄的ですが、そもそも何を目的にし、大仏建立によって日本の歴史に何をもたらされたかとなると困るみたいな感じになります。だから話としては大仏建立の技術的な話に終始し、建立者である聖武天皇の影が薄くなる関係になります。

素材としては女帝があれだけいた時代ですから、歴女が増殖中の世の中の需要としてはいかにもありそうです。歴女は女性ですから、やはり女性が主人公の歴史小説を読みたいという潜在的願望が小さくないと思うからです。それでも誰も手さえ触れようとしないのは、それだけ魅力が乏しい時代と言う証拠の一つと思えてしまいます。

それでも将来的には出るかもしれません。誰も期待していないでしょうが、私では無理ですねぇ。つう事で休題とさせて頂き春休みに入らせて頂きます。