日曜閑話33

去年の9月からこのシリーズが中断しているのは誠に遺憾です。正直なところ手が回らないのが本音ですが、今日は余裕があるので手垢のついた「信長軍団」のお題で久しぶりに。

戦国期には日本史を彩る英雄が多数出現しています。北条早雲、斉藤道三、今川義元武田信玄上杉謙信毛利元就・・・これらの英雄が天下を取れずに信長が取れそうになった差の説明として、信長が尾張にいたという説明があります。当時の天下を取るの概念として、京都を制圧し将軍の権威で天下に号令するというのがありました。

京都に進攻するには今で言う東海道本線沿いが有利であり、他の英雄がローカル線から東海道線に出てくるのに疲弊しつくしたのに較べて、最初から本線に乗れた有利さを言われます。この説は武田信玄が典型的にあてはまり、上杉謙信川中島で局所消耗戦を行い、やっと今川家を滅ぼして駿河に進出すれば寿命が尽きてしまった状況です。

地理説は冬に閉じこもらざるを得なかった上杉謙信にもあてはまりますし、謙信の関東進出への対応に追われた北条氏康もそうかもしれません。しかし西の毛利はどうでしょうか。中国地方を支配下に収め、北九州にも進出していますから版図は広大です。地理的にも山陽本線にすぐに乗れますし、雪に悩まされる事もあまりありません、

毛利が京都を目指す障壁としては岡山の宇喜田がいますが、毛利全盛時には配下に入っていますし、その程度の障壁なら信長にも浅井・朝倉と言った強豪が存在しました。毛利の不運は二代目が英雄でなかった事かもしれませんが、それだけではないような気がします。


信長と他の英雄の違いは他にもあるでしょうが、最大の違いは勢力圏の意味合いの違いとも見れそうです。先ほど毛利の勢力圏を「版図」と表現しましたが、信長以外の英雄の勢力圏もやはり版図です。では信長の勢力圏は何かと言えば直営の「領土」ないし「領地」かと考えます。このシステムの違いが信長を天下に驀進させ、他の英雄が及ばなかった大きな差と考えています。

日本の軍団の最小構成は伝統的に在地領主です。村々を直接統治する在地領主が、領民の中から軍勢を整えて出陣します。在地領主が出陣の要請に応じる相手は自らの保護者です。保護者は村々の在地領主よりは大きな存在で、在地領主は保護者に守ってもらう代わりに、保護者が戦いに臨む時には兵力を提供する関係です。

この在地領主の保護者の上にも更に保護者がおり、そんな重層構造の積み重ねの上に軍団が形成されます。これの典型が源平時代の頼朝率いる源氏軍で、頼朝は重層構造のトップに君臨していましたが、頼朝直属の領地や軍勢はほとんどいなかったと考えられます。戦国期になってもこの基本構造は余り変わっていません。

戦国期になり各地に英雄が出現して、一国を統一していますが、英雄の直属軍団自体はさして大きくありません。頼朝時代と異なり、一国の中で相対的に大きいぐらいには成長していましたが、基本構造は豪族連合であり、豪族勢力の基本構成もまた在地領主の連合体です。一国の領主と称しても直接の支配権が及ぶ領域は狭く、領主の求心力が衰えれば支配下の豪族の離反の可能性が常にある状態と言えます。

旧来の豪族連合システムでも英雄が統治すると強大にはなります。謙信や信玄を見ればわかります。外からは天下を取れそうなぐらい強大に見えても、内実は在地領主を基礎とした豪族連合に過ぎないところが弱点になっていると考えます。

当時の住民意識としては、一国までがある意味精一杯です。一国の平和のためには英雄を押したてても、これを外征のパワーにまでするのは相当な手腕が必要です。同じ国の中の戦いであれば、移動も兵糧の調達も比較的容易ですし、負けて逃げ帰るのもまた容易です。それと最大の弱点は、軍団員が農民でもあることから、当時最大と言うか唯一の産業である農業に影響します。

農繁期に戦いに従事させれば農業生産に影響して在地領主の不満が高まりますし、兵力の損耗もまた農業生産に直接連動します。こういう不満に対する対策を常に行い、不平不満を漏らさない様に統治しないと豪族連合システムは機能しなくなります。そういう意味で謙信や信玄はカリスマであらねばならず、カリスマをしてようやく外征できるぐらいの弱いシステムであったと考えられます。


信長軍団が画期的であったのは、兵農分離をかなり徹底した事です。農民を軍勢とせずに、戦闘専用の軍団を形成した事です。しかしそれをするには従来の豪族連合システムでは無理になります。織田家は早くから銭経済に目を付け、領地以上の経済力があったともされますが、それでも当時の経済力では十分とは言えないかと考えています。

農民と別に戦闘軍団を養うためには、豪族支配を解消しなければ無理です。領土全体からの収入で戦闘軍団を養う必要があるからです。他の英雄と家臣の関係はカリスマへの信頼です。言い換えれば英雄と諸豪族との間に直接の金銭関係はありません。一方で信長は直接の金銭関係で家臣を部下として養っています。もうちょっとわかりやすい喩えにすると、他の英雄は商店連合会の会長に過ぎませんが、信長はスーパーの総帥とすれば良いでしょうか。


兵農分離の利点として、いつでも好きな時に戦争が行なえるというのがあります。他の英雄が構成単位の農業生産への影響を常に配慮しなければならないのとは大きな違いです。また敗戦の影響もかなり違います。信長軍団での損失は、スペアの補充であり速やかに行なえます。一方で他の英雄は産業基盤の損失になり、回復に時間がかかります。

他の英雄の敗戦は人的損失だけではなく、主要産業への影響も含む極めて深刻なものであるのに対し、信長軍団は戦闘部門の欠員の補充に過ぎないと言い換えても良いと思います。そんな単純には言い切れるものではないでしょうが、意味合いはかなり異なるのだけは間違いないと思います。

勝利の時もそうで、獲得した領土の分配は他の英雄にとって重大なポイントです。関係が信頼ですから、独り占めは出来ませんし、信頼をつなぎとめるには、自分の取り分を小さめにし、信頼して参戦した豪族の取り分を大きめにする必要があります。つまり勝っても、勝っても英雄直属軍団は、相対的には大きくなりにくい特質があります。

信長軍団では獲得した領土を直接支配しますから、勝った分だけ戦闘部門が大きくなります。戦闘部門は織田家の直営ですから、勝てば勝つほど強大になっていく仕組みになります。


他の英雄は版図を拡大しても、豪族連合が基本システムであるがために、拡大の限界がくると考えます。戦国の英雄はそれをカリスマ的信用を得る事によって一部突破しましたが、豪族連合システムのままで天下統一は非常に難しかったと思います。たとえ天下を握っても、弱体であった室町幕府並みか、それ以下の体制しか構築できなかったと思います。

毛利は旧来型の豪族連合システムで目一杯版図を広げましたが、ある意味あの程度が限界で、ついに京都に進めなかったと考えても良さそうに思います。毛利の強大さは戦国末期にも流布はされましたが、結局のところ織田軍の西進に対しはかばかしい戦いができていません。播磨の別所、摂津の荒木が抵抗している時期が毛利にとっても最大のチャンスであったはずが、座視して動けなかったのが史実です。

あれは輝元の優柔不断もあったかもしれませんが、それより輝元のカリスマ性では、対織田戦に毛利支配下の諸豪族を動員できなかったと見る方が正しいような気がします。毛利の版図は巨大なので、いつでも大軍が動員できる様に外から思われただけで、内実として身動きが取れない状態であったと考えます。


織田軍団にも弱点はあったと思っています。織田軍団は兵農分離システムで、これを可能にしたのは領土の直営システムです。ただ兵農分離であるがために、戦闘部門は農業部門で養う必要があります。つまり戦闘があっても、なくても戦闘部門を養わなければなりません。他の国であれば、戦闘が無い時には軍団兵は農民になり、当時の絶対の主要産業である農業生産の拡大に寄与できます。

直営システムを敷いても戦闘部門の兵力の上限は農業生産力に本来限定されるはずです。考えようによっては、従来の兵農未分離体制に対しても瞬間的な動員力では落ちる部分があるとさえ考えられます。さらに織田軍団の個々の兵の能力は他国に較べて落ちるというのもあります。落ちるがために

  1. 常に相手を上回る大軍の動員の必要性
  2. 高価な新兵器の鉄砲の大量導入
これでもって能力の落ちる織田軍団の強さを補う事になります。つまり織田軍団が勝つには、経済力以上の戦闘部門を養っておく必要があると言う事です。経済力以上の軍団を維持するためには、それを養えるだけの領土を獲得する必要があります。しかし獲得したら獲得したでさらに大きな敵が出現し、それに勝つためにさらに経済力以上の軍団を抱える循環になります。

信長が勝利する時は相手を根こそぎ滅ぼす事が多かったのは、性格もあったでしょうが、そうしないと膨れ上がった戦闘部門を維持できないというのもあったと思っています。獲得した領土は可能な限り直営にし、そこの収入で充当していかないと破産する懸念です。

こういう拡大路線が成立したのは、義昭を擁しての上洛戦の時かと考えています。美濃尾張の領主に過ぎない信長は1万5000と言う途方もない大軍を動員したとされています。一旦これだけの軍団を抱えれば、これを維持発展する方向にひたすら流れて行ったとも見れます。国力に較べて過剰な軍団を持つと決断した時点で、信長の生涯は決まったのかもしれませんし、他の英雄の没落も決まったのかもしれません。



さて、信長軍団を継承したのは言うまでもなく秀吉です。秀吉は継承した軍団を駆使して、四国、九州、関東と征服し天下人の地位に登りつめます。しかし天下人になった時点で秀吉流のリストラを行なったと見ています。信長軍団の特徴は直営の戦闘軍団です。問題点は平和になれば経費過剰である点です。

そこで秀吉は功績のあった味方や臣下に領土を与えるのと同時に、軍団兵もオマケにつけてリストラしたんじゃないかと考えています。つまり秀吉の直属兵はドンドン減らしていったと見ています。そうしないと秀吉政権が破産するからです。どれぐらいリストラされたかですが、関が原が参考になります。天下を制した秀吉軍団の直属兵は見事にいなくなっています。いなくなったが故に秀吉は豪奢な生活を営めたとさえ見ることが出来ます。

秀吉一代のうちは、解体された信長軍団でも軍団長としての秀吉の命令に服していたと考えています。直営状態から解体されても、圧倒的な秀吉の権勢が忠誠心の部分で軍団を支配下に置いている状態です。どれぐらい強大であったかは朝鮮征伐の動員を見ればわかります。他の大名は、反抗しようとしても秀吉の号令一つで巨大な討伐軍が出現する事を怖れ、服していたと言い換えても良いかもしれません。

ただ秀吉はアウトソーシングしすぎたと考えます。秀吉の権勢は秀吉であるから服したわけで、秀吉の後継者に秀吉のカリスマを求めるのは無理がありました。ましてや後継者は幼少の秀頼です。カリスマの権勢が落ちれば求心力は失われ、リストラ軍団は利害で動く烏合の衆になります。関が原は秀吉権勢の遺産でリストラ軍団が集まりはしましたが、結束力は弱く敗亡しています。


家康はどうかとなります。家康軍団も信長の影響を強く受けていたとは思います。とは言え、家康軍団が急膨張したのは信長死後であり、規模としては関東征伐後にようやく200万石程度です。この200万石も従来の本拠地から引き剥がされて与えられたものです。当時の経済状況からして、先進地である駿河遠江三河と後進地の関東ではどちらがメリットがあったかは疑問です。

それでも額面200万石の信用と、大坂方に較べて直営軍団が有力であった点で関が原を勝ち抜き天下を制します。家康の頭の中に信長型の完全制覇路線があったかどうかなんて証拠はありませんが、本当はやりたかったとも考えています。しかし家康にも寿命の壁が立ち塞がります。結果的にそれなりに長生きしましたが、関が原の時で57歳です。当時の感覚からすれば先は長くないです。

75歳まで生きはしましたが、57歳から信長型完全制覇はかなりしんどくなります。そこで信長型と秀吉型の折衷路線を選んだと考えています。信長型をある程度行なった点としては有力大名の可能な限りの取り潰しです。これも直接軍勢を差し向けてのものではなく、取り潰せる邪魔な大名のみに終始しています。

残りは下手に手を出すと第二の関が原を招きかねませんから、秀吉型の権勢による服従を併用します。併用はしますが秀吉の教訓は十分に活かします。秀吉の権勢支配の弱点は、その権勢の源泉が秀吉の個人芸であったことです。家康も権勢に於ては秀吉に匹敵するカリスマ性を持っていましたが、後継者に家康並を常に要求するのは無理があると考えたと思っています。

そこで権勢の源泉として強力な直営軍団を設けます。これも信長型の常に拡大再生産を行なわなければ維持できない直営軍団でなく、平時でも無理なく維持できる直営軍団です。無理なく維持して、なおかつ他の大名家が畏服させるだけの規模を徳川本家に設定したと考えます。その規模が800万石であり、旗本八万騎であったと考えます。

旗本八万騎がどれぐらいの実数であったかは良く知らないのですが、徳川本家は事あれば直営軍団10万ぐらいを即座に動員できるという権勢の物理的な裏付けを行なったと見ます。軍勢10万の信用力は絶大で、これだけの軍勢が出現すれば、他の大名は争って徳川家に味方します。数が多い方に加担するのが合戦の大原則であり、そのうえ徳川軍団の精強さは天下に喧伝されています。

徳川家の権勢が致命的に落ち込んだのは、直営軍団の強さが張子の虎であると見抜かれたからと見ることもまた可能です。直営軍団が弱体どころか事実上機能しないと足許を見抜かれたから討幕運動が盛り上がったと見ています。トドメを刺したのが第二次長州征伐になります。それでも200年以上機能していましたから、成果としては十分でしょう。


あくまでも一つの見方に過ぎませんが、信長も、秀吉も、家康も天下を目指しました。ただどうやって天下統治を行なうかの手法は手探りであったように思います。モデルとしては室町幕府がありますが、三人が見たのは室町幕府の終焉であり、同じものを作る気がしなかったと考えています。

信長は室町幕府の欠点を、中央政府の弱体と見たと考えます。室町幕府の轍を踏まないためには、中央政府は強大である必要があり、強大さを追及すると織田家による全国完全制覇路線になります。これを目指すために信長は驀進したと考えます。天下に反抗勢力がなければ、天下支配は完全であるみたいな感じです。

秀吉は信長を見ています。秀吉は信長の弟子ではありますが、信長が本能寺以後に取り組まなければならなかった課題を重視したのだと思っています。膨れ上がった軍団の清算です。功臣の処遇問題もドンドン大きくなりますし、下手に処遇すると反旗を翻されます。信長ならドライに切り捨て、反旗を翻せば木っ端微塵に踏み潰す路線を取ったかもしれませんが、秀吉は収拾路線を選んだとみます。

これは秀吉の性格もあったでしょうが、完全制覇をやらなくとも服従さえしてくれれば十分であるという考え方です。秀吉政権の基盤の弱さもあったとは思いますが、権勢で服従させれば制覇しなくても実質変わらないと考え、諸大名を服従させる手腕に十分な自信を持っていたと考えています。秀吉時代は室町体制にやや近く、各地に大大名が勢力を残しています。

秀吉の自信は有力大名が残っていても反抗はしないと考え、たとえ反抗してもすぐに捻り潰せる考えていたと思っています。実際のところもそうであったと考えられますが、秀吉に遠く及ばない能力の後継者では秀吉システムでは天下を統治できなかったと見ます。

家康は2人を見ています。2人の天下統治者の欠点を是正したのが家康だと考えています。家康は秀吉に比べると基盤は強力ですが、家康には2人に較べて持ち時間が少ないの命題を抱えていたと思います。そこで基本は秀吉型としましたが、信長型まで行かなくとも有力大名を減らしたのだと考えます。さらに秀吉型の欠点であった中央政府の強化に励みこれを安全保障にしたと見ています。


ただなんですが、家康型が成立できたのは先に秀吉がリストラを行なっていたからだと見ることが出来ます。秀吉がある程度以上の直属軍団を維持していれば、そもそも関が原の勝敗さえ判らなくなります。歴史の綾は無数にありますが、関が原に秀吉遺産軍団が3万でも出現すれば形勢は容易に逆転しますし、その前に家康の戦略自体が根本的に変わります。

家康は信長の過剰軍団が秀吉時代に清算されていたからこそ、徳川家巨大システムの構築が容易であったとも見ています。この辺で今日は休題にさせて頂きます。