小林繁氏を悼む

あの、あの、小林繁氏が急逝されたのニュースに昨日から動揺しています。私の青春を彩った名投手小林繁氏がもうこの世にいないとは今でも信じられません。まだ57歳の若さだったとの事です。

当時は普通の阪神ファンでした。「普通」とはどういう事かと言うと、少し時代がずれますが、85年の優勝時にまだ学生だったのですが、阪神の試合の行方が気になって進級が怪しくなるのが普通の阪神ファンで、試験も授業もブッチして論外に留年したのが熱狂的な阪神ファンぐらいの意味合いです。今朝は大急ぎですが、小林氏の足跡を追ってみます。

小林氏が由良育英出身であるとあちこちに紹介されていますが、今朝調べるまで名前からして私学と長年思い込んでいました。ところがギッチョン、れっきとした県立高校であるのにまず驚かされました。もともとは明治39年(1905年)に設立された私学だったようですが、昭和26年(1951年)から県立移管となっています。

野球部は県立移管後の1953年に設立されたとなっていますが、小林氏が在籍したはずの1960年代の成績は不明です。近年になってソコソコ強くなっているようですが、わかっているのは甲子園出場はないことと、主なOBとして小林氏1人であると言う事です。おそらく由良育英出身のプロ野球選手は小林氏1人ではないかと思われます。

小林氏が由良育英卒業後、社会人野球の全大丸に進んだ事も書かれていますが、これもちょっとビックリしました。つうのは大丸が社会人野球チームを持っていたことにです。私もそれなりに野球が好きですが、全大丸なんて聞いた事がありません。全大丸がどんなチームであったかなんて殆んど記録に残っていないのですが、wikipediaの第25回都市対抗(1954年)に京都市代表として4年ぶり3回目の出場となっていますから、かつては強かったのかもしれません。

これぐらいしかデータが無いので想像になるのですが、おそらく小林氏は鳥取のそれも田舎の県立高のエースとして鳥取県高校野球界では知られた存在だったのでしょうが、その程度ではドラフトはもちろんの事、強豪大学、強豪社会人チームからの誘いもなく、どちらかと言うと落ち目の全大丸野球部に拾われたのかもしれません。

社会人時代の成績も不明なんですが、ドラフトに下位であっても拾われるぐらいですから活躍はしたのだと思われます。小林氏は1952年生まれですから、高校卒業時は1970年、ドラフトは1971年ですから社会人での1年の活躍でプロに認められたとも考えられます。もっとも小林氏はドラフトに指名はされていますが、全大丸に恩義を感じたのか巨人入団は翌年となっています。後の小林氏の行動の一端があるようにも思えます。

小林氏が巨人に入団したのは1973年からですが、1年目はわずかに6試合に登板しているだけの0勝0敗です。2年目が8勝5敗、3年目が5勝5敗ですから、たいした成績ではありません。才能が花開いたのはプロ4年目の1976年からで18勝8敗、さらに翌年も18勝8敗。1978年は13勝12敗とやや不振でしたが、巨人のエースに近い存在であったと考えられます。

エースは言いすぎだとしても先発ローテーションの一角を確実に占め、栄光の巨人の一員として確実な地位を築き上げていた事だけは間違いありません。今の巨人のレギュラーと当時の巨人のレギュラーでは値打ちがかなり違うのですが、その辺のニュアンスを伝えるのが出来ないのが残念です。


このままで終われば、おそらく小林氏はある時期の巨人の先発陣を担った投手と言うだけで野球人生を終わったかとも思われます。そんな小林氏に一大転機が訪れます。江川の空白の1日事件です。この騒動の詳細を今日は書きませんが、誰がどう見ても江川の犠牲となって小林氏は阪神に電撃トレードされる事になります。

小林氏は今で言う「イケメン」タイプであり、体格もプロ野球選手にしては細身で華奢な印象を与える投手です。歌もうまく、正直なところ格好の良い選手です。どちらかと言うと甘い印象を与える選手ですが、阪神ファンにとってはそんな外見とは異なり「男、小林」として刻み込まれています。トレードに対し愚痴一つこぼさず阪神に入団し、黙々とシーズンを迎える事になります。

多くを語らなかった小林氏ですが、1979年のシーズンは一世一代の快投を演じる事になります。当時の阪神の野手は小林氏の背中に静かに燃え上がる闘志をヒシヒシと感じたと伝えられています。この年の成績は22勝9敗と生涯最高の成績であっただけではなく、古巣の対巨人戦8勝無敗の記録を残す事になります。

8勝無敗の意味を少しだけ説明しておきますと、当時のレギュラーシーズンは130試合で巨人戦は26試合です。プロ野球の基本は3連戦システムですから、おおよそすべての対巨人3連戦に登板し、そのすべてに勝ったのに近いぐらいの成績です。この年、巨人は58勝62敗10分の5位に沈みますが、巨人が調子を上げかけると阪神戦があり、そこに小林氏が鬼神の活躍を見せて叩きのめしたイメージが強烈に残っています。


小林氏に取って電撃トレードはようやく確保した巨人の一員としての地位を失う衝撃であったと思います。ただその逆境を小林氏は見事に跳ね返したと思っています。巨人にあのまま在籍していてもそれなりの成績を残した選手であったでしょうが、江川事件阪神にトレードされ、そこで男を挙げたことにより球史に名を刻む名投手になったと思っています。

球史に名を刻んだかどうかは主観かもしれませんが、あの時代の空気を共有した阪神ファンには間違い無く刻み込まれています。少なくとも私には間違い無く刻み込まれています。最後にどうでも良いデータを示しておきます。小林氏と江川の通算成績です。

    小林繁:実働11年、登板回数374、139勝95敗17S
    江川卓:実働9年、登板回数266、135勝72敗3S
一時代を飾った阪神のエース、小林繁氏の御冥福を謹んでお祈りまします。


追伸

朝は時間がなかったので調査が不十分でしたが、小林氏が属した全大丸の都市対抗の出場記録が見つかりました。大丸は京都大丸、全大丸、大丸とチーム名を変えていますが、実質同じと考えれば13回の出場記録があります。小林氏が在籍していたのは1971〜1972とすれば、まず前々年の1969年に出場ているのと1972年にも出場しています。1972年は小林氏も投げた可能性があるのですが、1回戦の電電東北に敗退しています。

たぶんエースだったと思うのですが、負け投手は筒井となっています。ただ試合経過を見ると電電東北が1回裏に1点取り、全大丸が8回表に同点とし、さらにその裏に電電東北が1点とって勝ってますから、8回表の攻撃の時に代打でも送られた可能性はあります。あくまでも推測ですけどね。

それと漠然と当時の全大丸は落ち目じゃないかと書いてしまいしたが、そうではなさそうで、小林氏がプロに行った後も、73、75〜78と出場を重ね、とくに75はベスト4まで進出しています。大丸の関係者の皆様失礼しました。

もう一つ由良育英時代の成績が見つかりました。たぶん小林氏がエースで活躍したと考えられる1970年の夏の県大会で決勝まで進出しています。1-8で米子東に敗れていますが、活躍していたのが確認されます。おそらく由良育英史上で最初の決勝進出として良さそうです。由良育英はその後も3度決勝まで進んでいますが、甲子園には手が届かなかったようです。