日曜閑話20

日曜閑話も今年最後になりました。最後を飾る話題は「佐野仙好」。完全に私個人の思い入れでの日曜閑話です。だいたい佐野仙好と言っても「誰じゃ?」と言われそうなぐらい地味な人物ですが、私の青春のタイガースを彩る虎戦士です。マイナーな選手のマイナーな話題ですが、よろしけばお付き合いください。

私ぐらいから上の世代の阪神ファンが忘れられない年にS.48があります。8連覇を続けていた巨人に対し、129試合目にマジック1を点灯させ、ナゴヤ球場で勝たしてやろうの星野仙一を打ち崩せず、130試合目に甲子園で無残な大敗を喫し9連覇を許したシーズンです。この年のドラフトで入団したのが佐野です。とりあえずこの年のドラフト、セ・リーグ分を見てもらうと今昔の感じが改めてします。

順位 巨人 阪神 中日 ヤクルト 大洋 広島
1 小林秀一 佐野仙好 藤波行雄 佐藤博 山下大輔 木下富雄
2 黒坂幸夫 樋上健治 鈴木博昭 釘谷肇 大橋康延 福井文彦
3 中村裕 小竹重行 中山敏之 世良賢治 草場益裕 瀬戸和則
4 追丸金次郎 尾藤福繁 福島秀喜 生田啓一 ウイリー木原 福島義隆
5 尾西和夫 高橋寛 樋野和寿 高泉秀輝 三浦道男 野村豊
6 新谷裕二 掛布雅之 金森道正 長野隆裕 入江道生
7 金鳥正彦 山北芳敏 藤原仁 石淵国博


青字が入団選手で黒字が入団拒否です。優勝球団である巨人が7人指名して4人拒否、それも1位から3位まで蹴られています。阪神にしても1位、2位こそ入団していますが7人中4人に拒否されています。なぜこんな事が起こったかですが、とりあえずプロの給料が安かった事が上げられます。今とは物価水準が違うとは言え、当時の一流プレーヤーの証は「1000万円プレーヤー」です。この程度なら社会人野球に進んだほうが、将来の保障もありよほど堅実な選択とも当時は考えられていました。

それともう一つ大きな理由が指名順位がくじ引きであった事です。くじで指名順位が確定するので、事前の根回しがそれほど通用しなかったのです。そのため殆んど事前交渉なしでいきなりドラフトで指名し、そこからおもむろに入団交渉に入る事もさして珍しい事ではありませんでした。これも記憶が曖昧になってしまうのですが、たしか当時は契約金や初年度の年棒の上限が決められていて(裏金もあったそうですが・・・)、札束で「誠意」を見せる手法の幅も狭かったかと記憶しています。

そのためドラフト指名しても安定が魅力の社会人野球選手に拒否されたり、社会人野球に進むから拒否されるのもさして珍しい事ではなかったのです。もちろん大学野球に進むからもあります。野球を続けるのに何が何でもプロ野球でなければならないという考えは、それほど濃厚とは言えなかったと思っています。プロに進んだ時のリスクに比べ、成功した時のメリットが小さかったと言い換えても良いと考えています。隔世の感がありますが、そんな時代であったと言う事です。

この年の注目新人はパリーグ分は省略しましたが、実は作新の江川です。江川が巨人を強く志望したのは有名ですが、この年に指名したのは阪急です。もちろん蹴飛ばしてこの時は穏和に法政に進学しています。それ以外の有望新人としては大洋の1位指名の山下大輔、中日の1位指名の藤波行雄であったかと記憶しています。どちらも大学野球の強打者で、佐野はこの二人に継ぐ程度の強打者との評価でなかったかと思います。他で目に付く限りで後に活躍した選手として、近鉄1位の栗橋茂がいます。何分古い話なので、記憶も曖昧なので御勘弁ください。

もちろん阪神もくじ運もありましたが、佐野を指名する理由はありました。佐野の守備位置はサードだったのです。日本では三塁手は強打者の代名詞であり、ここにチームの顔が座るというのがチーム構成の基本です。阪神も古くは「初代ミスター・タイガース」藤村富美男、「名手」三宅秀史と名三塁手を生み出していましたが、当時のサードは後藤和昭。守備には定評がありましたが、生涯最高のシーズン打率が.250と非力で、強打の三塁手になってくれる事を期待して佐野を指名したのは間違いありません。

阪神の三塁
左:藤村富美男、右:三宅秀史


ところがここに思わぬライバルが出現します。同じ年にテスト生として6位指名で入団した掛布雅之です。佐野と掛布の三塁を巡る争いはS.49〜S.50にかけて繰り広げられましたが、勝ったのは掛布です。佐野との争いに勝った掛布は三塁のレギュラーを不動のものとし、やがて「若トラ」さらには「ミスター・タイガース」としてスターダムをのし上がる事になります。


川崎球場の惨劇

S.51は掛布の控えに甘んじた佐野でしたが、傾くチーム力の中で佐野の打撃は必要とされ、S.52にレフトにコンバートされます。ようやくレギュラーポジションを確保した佐野は打撃も好調で、掛布や田淵、新外国人のブリーデンの打撃も快調で良いシーズンになりそうな滑り出しでした。滑り出しだけではなく、シーズン終了時の成績も優秀で首位に2ゲーム差の2位の結果を残しています。ちょっと寄り道しますが、次の優勝はS.60になりますがそれまでの阪神の成績は、

年度 試合数 勝率 順位 首位とのゲーム差
S.49 130 57 64 9 .471 4 14.0
S.50 130 68 55 7 .555 3 6.0
S.51 130 72 45 13 .615 2 2.0
S.52 130 55 63 12 .466 4 21.0
S.53 130 41 80 9 .339 6 30.5
S.54 130 61 60 9 .504 5 8.0
S.55 130 54 66 10 .480 4 20.5
S.56 130 67 58 5 .536 3 8.0
S.57 130 65 57 8 .533 3 4.5
S.58 130 62 63 5 .498 4 11.5
S.59 130 53 69 8 .434 4 23.0


この年が最後の輝きであった事が確認できます。以後は長期低落とそこからの再建に悪戦苦闘した時代です。

寄り道はともかくこの年の佐野です。惨劇は4/29の川崎球場での大洋戦で起こります。試合は接戦で9回表を終えたところで7-6で阪神1点のリード。大詰め9回裏、1死ながら大洋は1塁に代走の野口善男を置き、代打清水透をおくります。同点を狙う清水の一撃は大飛球となって佐野の頭上を襲うことになります。背走につぐ背走を重ねた佐野は最後はフライング・キャッチを行いこの大飛球を捕球します。間違い無く捕球はしましたが、そのままの勢いでコンクリート剥き出しの外野フェンスに頭から激突、すぐ近くの観客は「グシャ」と言う音が聞こえたと伝えられます。

そこへ遅れて追いついたセンターの池辺は佐野の様子を見て仰天します。泡を吹き、白目を剥き、完全に意識を消失した佐野を池辺は見たのです。野球どころでないと直感した池辺はあわてて阪神ベンチに合図を送り急いで他の野手を呼び集めます。ところがこの一連のプレー中にタイムがかかってないことを知った代走の野口は1塁に戻りタッチアップを行います。野口が三塁を回った頃に気がついた捕手の田淵は大声で池辺に指示を送り、池辺は佐野からボールをとろうとしますが、しっかり握り締められたボールは佐野の執念が乗り移ったように容易に離れず、ようやく田淵に返球しましたが間に合わず同点となります。

このプレーはその後のプロ野球にいくつかの影響を残すことになります。今では当たり前の外野フェンスのラバーが全球場に設置されたのはこの事件が契機になったものであり、当時のルール上問題無しとされた野口のタッチアップも人命に関わる緊急事態の時にはタイムとできるルール改正も行われました。

佐野は頭蓋骨陥没骨折から脳挫傷の重傷で、生死の境を1週間も漂うことになります。選手生命どころか生命自体が危惧されるほどのものでしたが、佐野は無事克服し、長いリハビリの果てに奇跡の復活を果たします。ようやくシーズン終盤に1軍の代打で登場した佐野は見事に本塁打を放ち、それを目にしたファンは涙でダイヤモンドを回る佐野が見えなくなり、感動の余り、

    佐野ハ男ダ感動シタ
の電報を送ったと伝えられています。

川崎球場
ありし日の川崎球場
10.19の死闘、張本の3000本安打を記憶するこの球場も今はもう無い。

コンバート

生死の境を彷徨う大怪我から復活した佐野は、翌S.53には左翼のレギュラーポジションをしっかり確保し、大怪我の影響も忘れさせるような活躍を見せます。ところがこの年のオフに大事件が起こります。オフの大事件とは球史の上では「空白の一日」からの江川の巨人入団。さらにはその後のゴタゴタ騒ぎの末の小林-江川電撃トレードです。もちろんこの事件とは佐野はほぼ無関係ですが、この事件とは別に阪神球団史に残っているのが田淵の放出です。

田淵の打棒は「伝説の長距離砲」とまで言われましたが、この頃にはガンバレ!タブチ君状態に陥り、阪神部屋の部屋頭と陰口を叩かれるまでになります。ただスターとしての価値は十分あり、田淵のスターとしての価値と再生可能の判断の下、当時新生だった西武との交換トレードが行なわれます。田淵の代わりに西武からやってきたのが、真弓、若菜、竹之内、竹田(だったかな?)。投手の竹田はともかく、残りの3人は阪神のレギュラーに即座に名を連ねる実力者たちです。

真弓は藤田平をおしのけて遊撃のポジションを占め、若菜は田淵の後釜の捕手です。竹之内は外野なんですが、ここでもう1人新外国人選手のスタントンが加わります。スタントンも外野で、外野にはもう1人「青い目の猛虎魂」ラインバックが頑張っています。つまり竹之内、スタントン、ラインバックが外野のレギュラーを占めたため、佐野がレフトのレギュラーから溢れてしまう事になります。

開幕時は控えに甘んじた佐野でしたが、もう一つ事件が起こります。真弓に遊撃を譲った藤田平は一塁に回ったのですが、これが4/17のヤクルト戦で負傷し、結局このシーズンを棒に振る事になります。藤田平の抜けた穴は大きく、困った監督のブレイザーはなんと佐野を一塁にコンバートします。真弓も後にショート → セカンド → ライトとコンバートされどのポジションも器用にこなしましたが、これに較べると佐野は遥かに不器用です。

不器用な上に急造のコンバートであったため、キャンプ中からのトレーニングも行なわれていません。それこそ生まれて初めてファーストミットを使ってのものでしたから、この年の佐野の守備ははっきり言って悲惨でした。落球、お手玉、後逸と阪神ファンは一塁方向に打球が飛ぶたびに目を瞑ったものです。それでも、それだけ守備に振り回されたにも関らず、この年に初めてシーズン3割をマークする活躍を見せる事になります。

この年のオフに「うたんとん」とまで酷評されたスタントンは解雇され、ようやくレフト佐野の定位置を確保する事になります。

竹之内雅史Leroy "Utanton" StantonMichel Wayn Reinbach
S.54の阪神の外野陣
竹之内(右)、スタントン(中)、ラインバック(左)
スタントンはともかく、竹之内は死球をものともしないファイターぶりでファンを魅了し、ラインバックは阪神史上バースに継ぐ最高の助っ人として今もって語り継がれる。佐野とともに低迷する阪神を支えた忘れられない渋い脇役たちである。


いぶし銀

佐野の体型はおっさんで、顔も甘いマスクとは程遠いものです。レフトに定着してからの守備も堅実ではありましたが、ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)なんてものとは縁遠い存在です。オールスターやベスト9にも多分選ばれていないかと思います。打撃も3割以上を2回記録していますが、通算打率.273、通算安打1316本、通算本塁打144本、通算打点564もとくに目立つ成績ではありません。唯一のタイトルはS.56の勝利打点王ですが、このタイトルそのものが短期間で消滅してしまった代物です。

残した成績は平凡ですが、私に残した残した記憶は鮮やかです。鮮やかと言っても球史に残るとか、スポーツ新聞の一面を飾るような派手なものではなく、チャンスで佐野に回ると何とかなりそうと思わせる勝負強さです。たとえば掛布がサヨナラホームランを放って一面を飾っていたとしたら、その前の7回の攻撃で同点の犠牲フライを記録して2面にしっかり書かれているという感じです。

打撃の特徴は完全なヤマ張りだったようです。読みが当たれば少々のボールでも安打や犠飛にする力があり、さらにチャンスの時にはこの読みがさらによくなったようです。さらにヌーボーとしたおっさんの外見とは裏腹にとてつもない闘志を秘めており、プレッシャーがかかるほど闘志は静かに燃え上がるタイプで、ここ一番の勝負強さは特筆ものでありました。阪神ファンにとってある意味、掛布よりなんとかしてくれるんじゃないかの期待感を抱かせた打者と言っても良いかと思います。そんな佐野のいぶし銀のエピソードをS.60の優勝から拾ってみます。

槙原粉砕

S.60のシーズン開幕は4/12です。前年度4位の阪神は昨年の覇者広島との開幕のため広島市民球場に遠征します。ところが開幕戦は雨天中止、翌日になった開幕戦はたしか北村のチョンボで無残な負け試合。この試合を見た阪神ファンは「今年もダメだ」と囁きあいながら大阪に帰ったとも言われています。それでも第2戦はT8-7Cでなんとかものにして、甲子園での運命の巨人三連戦に臨みます。何が運命って、この三連戦の第2戦にプロ野球史上で不滅の出来事が起こるからです。

とりあえず第1戦も接戦でしたが、巨人のショート河埜の信じられない落球をキッカケにT10-G2で大勝します。そして第2戦の巨人の先発は槙原。槙原も好調で7回裏の阪神の攻撃を迎える時点でT1-3Gとリードとなります。ここで起こったのがあの有名なバックスクリーン3連発です。バース、掛布、岡田と続いた本塁打の競演はこの年の新ダイナマイト打線を後世に象徴するものとして今も語り継がれています。

バースに逆転スリーランを打たれへたりこむ槙原
バックスクリーン3連発を浴びた槙原
S.60を象徴する名場面。翌月、佐野は槙原の息の根を止める満塁弾を浴びせる。


ここで佐野なんですが、実はと言うほどのことは無く、岡田の後に打席に入っていますがもちろん本塁打は放っていません。佐野の出番は翌月の5/20の後楽園での巨人戦になります。この時の巨人の先発はまたもや槙原。この日の槙原も快調で6回まで阪神打線を抑え込み、T0-5Gと巨人快勝パターンとなります。そしてまたもや7回ですが、阪神はようやく満塁のチャンスをつかみ代打に佐野を送り込みます。ここで佐野は見事満塁本塁打を放ち、気落ちした槙原はさらに真弓に逆転ツーランを浴びて逆転負けを喫します。

甲子園でのバックスクリーン3連発は槙原をノックアウト寸前に追い込みましたが、これに止めを刺したのが佐野の満塁弾かと思います。阪神の猛烈な本塁打攻勢に調子を崩されたのか、このシーズンの槙原はさえず、4勝7敗でシーズンを終えることになります。またこの時の打撃の凄まじさは全球団に阪神打線恐るべしの印象を植え付けたのも間違いないと思っています。

殊勲の同点打

20年ぶりの優勝までマジック1とした阪神神宮球場に乗り込みます。神宮は阪神ファンが多く集まる球場として有名で、ホームのヤクルトファンをしばしば上回るなんて事が珍しくもありませんでしたが、この試合はさらに異様でなんと観衆の99%が阪神応援と言っても良い雰囲気の中でゲームは始まります。わずかなヤクルトファンはライトポール際で、球場全体を覆う黄色の大津波の中で孤軍奮闘の状態でした。

それでも試合は「胴上げだけは見たくない」のヤクルトナインの気迫の前に緊迫した接戦となり、T3-5Sのスコアで最終回を迎えることになります。優勝への重圧からかやや動きが硬かった阪神打線でしたが、まず掛布がレフトポール直撃の本塁打、岡田2塁打、北村送りバンドの後、平田への代打は佐野。見事に同点犠飛を打ち、この試合ではあきらめかけていた優勝を呼び込むことになります。阪神ファンが20年間待ち望み、夢にまで見た優勝をついにつかんだのです。

神宮での優勝の瞬間
S.60歓喜の優勝の瞬間
S.48同期入団の佐野と掛布にとってもまた悲願の優勝であったが、この年を最後の輝きとして静かに舞台から去ることになる。

佐野と掛布

「ミスター・タイガース」とまで呼ばれた掛布のライバルは江川とされます。確かにこの二人は好敵手とされ、いくつもの好勝負を演じています。しかし掛布が真のライバルと考えていたのは佐野ではないかと考えています。江川との関係はたとえその打席で打ち取られても次の機会は幾らでも巡ってきます。言ったら悪いですが、「全力を出しましたから満足しています」なんて綺麗事の言える関係です。

しかし佐野との関係はそんな綺麗事の世界ではありません。掛布が調子を崩せばいつでも佐野は三塁を奪いに来ます。掛布は自分が手にした三塁を守るためにひたすら精進を重ねたとも見れます。掛布は体型的に中距離打者であったのが、本塁打王を取るまでの長距離打者に成長し、当初は酷評された守備もダイヤモンドグラブ賞を獲得するまでに上達します。これだけの成長の原動力の陰には常にライバル佐野が脳裡にあったんじゃないでしょうか。

佐野もまた掛布をライバルとして不屈の闘志を燃やしたと考えています。華々しくドラフト1位のエリートとして入団したにも関らず、三塁のレギュラー争いでは無名のテスト生の掛布に奪われます。三塁を奪われたまま野球人生を終わりたくないの思いが、佐野の闘志を支えたように感じます。しかし順風満帆でスターダムにのし上がった掛布とは対照的に佐野には苦難の道のりが待ち構える事になります。

なんとかレフトのポジションを獲得したと思えば生死を彷徨う大怪我を起こし、これをなんとか克服したら新加入の選手によってレフトを追い出されます。さらに次に与えられたポジションは急造ファーストで散々な目にあいながら、それでも打撃で成績を確実に残します。次々に襲い来る試練を、表情一つ変えずに、さらに不器用に乗り切る闘志こそ佐野の魅力だと感じています。

打撃の通算成績では比べものにならない佐野と掛布ですが、ここでも熾烈な争いが繰り広げられたと思っています。クリーンナップに座る掛布が掃除しきれなかった走者を佐野が返す事によって存在感を示せば、掛布は佐野まで走者を残さないために長打に磨きをかけるという関係です。

ただ掛布が長打力を身に付けたのは選手寿命を短かくしたかもしれません。掛布はそもそも作られた左打者であり、体型も長距離打者として恵まれたものではありませんから、その負担の蓄積は目に見えないところで溜まっていったのかもしれません。S.60の優勝後、相次ぐ怪我に見舞われた掛布はついに往年の打力を取り戻せず、3年後のS.63に33歳の若さで引退しています。

一方の佐野は年齢による衰えが確実に忍び寄り、掛布の翌年に静かに引退しています。掛布より4年年長ですから38歳かと思われます。

佐野と掛布が本当にライバル関係にあったかどうかの具体的な話は実はほとんどありません。それでもわずかな証拠がインタビューとして記録されています。掛布のコメントにはこんなものがあります。

    「佐野さんの見てる前でまずいプレーはできない、レフトにボールは逸らすまい。」
佐野はほとんどコメントを残していない選手ですが引退の時にはこう語ったと伝えられます。
    「俺は掛布がいたからこそここまでやってこれた。俺は今までずっと掛布を意識してプレーしてきた。」
とくに佐野のコメントに、知られざるライバル物語の万感の思いが込められていると思っています。私は「不屈のいぶし銀」佐野仙好を生涯忘れません。そう、せめて私の記憶の中だけでも。

佐野仙好
佐野の写真はネットではほとんど無く、いくら探してもこれ一枚きりである。