日曜閑話32

今日のお題は「ちょっと三国志」です。私の三国志知識は吉川英治版、すなわち演義が殆んどで、一部に正史を噛った程度なのでその辺は御了解下さい。

三国志前半の主役は誰がなんと言おうと曹操です。あれだけの英雄が中国統一を果たせなかったところが三国志最大のロマンなんですが、果たせなかった最大の理由が諸葛亮孔明の登場であるとされています。孔明が偉大であったのは間違いないと信じていますが、後世の脚色が物凄くて何が偉大であったのかよくわからない人物になっています。

孔明は戦術家と言うより戦略家、戦略家と言うより大政治家であるというのが本質ではないかとの説があります。ですから演義に書かれている数々の名戦術家のエピソードはかなり疑わしいとされています。孔明劉備三顧の礼で迎えられたのは史実の様に考えていますが、演義のように一躍軍師として実権を握ったかどうかは疑わしいのではないかと思っています。

孔明劉備に仕えた頃の劉備家臣団で重きを成していたのは義兄弟でもある関羽張飛だろう事はまず間違いありません。とくに関羽は武勇だけではなく見識も備えており、筆頭の地位にあったとしてもおかしくありません。もう少し言えば、劉備家臣団で主流を成していたのは関羽を筆頭とする武官派であったと考えます。

これは劉備が流浪の将であることからも裏付けられると考えます。演義劉備は徐州で敗れ、さらに河北の袁紹に頼り、さらに再び汝南で敗れて荊州に流れています。そういう経歴では武勇こそが頼みでもあり、武勇がないものは生き残れなかったとも推測します。そういう武官派主流の劉備家臣団に加わっても、文官である孔明がいきなり実権を握るとは思えないからです。

孔明が頭角を現したのは赤壁での呉への使者であると考えます。実際にどれ程の活躍をしたかは不明ですが、和戦の間で揺らいでいた呉を決戦に導いたのに孔明は大きな役割を果たしたと考えています。少なくとも使者の結果としてそうなったのですから、劉備から見れば大きな功績になったと考えます。曹操軍の南下により気息奄々状態であった劉備赤壁の後に息を吹き返す事になります。

劉備赤壁後に荊州を占領します。演義では孔明の智謀による大活躍が描かれていますが、なんとなく劉表の遺臣団が長年の宿敵であった呉の占領を喜ばず、劉備が押したてた劉除轤ノ集まっただけのような気もしています。ここでの孔明の活躍はむしろ外交と考えています。呉は赤壁の果実として荊州を求めたはずであり、それを宥めすかして既成事実化する外交です。

劉備荊州に拠点を築いた後に益州進攻を始めますが、この劉備による益州進攻は謎が多いと考えています。当然の事ながら劉備荊州軍を率いて遠征したはずです。あっさり劉備益州を占領するのですが、問題はその後です。劉備はそのまま益州の領主になるのですが、そのときに荊州はどうなっていたかです。

どうなったも、こうなったのも荊州には関羽がいるのですが、益州劉備荊州関羽がどういう関係であったのかがよく見えないのです。普通に考えれば、誠忠無比であり後世まで武人の鑑とされた関羽劉備から荊州の留守を任じられたと見えます。荊州益州は当時どれほどの国力があったか知らないのですが、演義には豊かな地として描かれ、天下十三州と言われた中で、たった2州しか確保していない劉備ですから絶対の信頼を置いた関羽に任せていたは筋が通ります。

しかしそれにしては、その後に曹操軍が荊州進攻を行ったときの劉備の動きが不可解です。曹操軍は赤壁で敗れたとは言え強大で、曹操軍の進攻を荊州関羽だけに防備を任せたというのはかなり不自然です。強敵曹操軍が攻めてきたのであれば、常識的な戦略として、

  1. 益州から援軍を出して曹操軍と対決する
  2. 後の孔明のように祈山に進出し、曹操軍の背後を脅かす
実際に劉備が行ったのは益州で手を拱いていただけで、関羽は戦死し、荊州は失われます。この劉備の態度からし荊州関羽は既に独立していたのではないかと考えています。荊州は独立国であったから関羽から要請の無い限り劉備も援軍を出す事は出来ず、結果として関羽は滅亡したと考える方が筋が通ります。


ではなぜ関羽荊州で独立したかになります。ここで関羽孔明が不仲であったのではないかとの説を考えます。関羽孔明の不仲は演義にも窺われます。有名な華容山の一件です。これも実際にあったかどうかは不明ですが、もっと現実的な話からも推測できます。

関羽は言うまでも無く劉備の旗上げ以来の同志です。おそらく一貫して筆頭家臣であっただろうと思われます。それに対し孔明は新参者です。関羽から見れば「口舌の徒」に過ぎないのに、赤壁の使者以来、孔明劉備軍での地位は急上昇したと考えられます。とくに荊州占領後はその運営に文官の力が必要であり、その筆頭として孔明の存在が大きくなっていても不思議ありません。

対立構図としては、武官派(徐州以来の家臣団)と文官派(荊州で新規採用された文官)の争いで、その筆頭が関羽孔明という訳です。この対立は劉備では手を焼いたと考えられ、その解決策として、劉備益州を占領する代わりに、関羽荊州を与える取引で解消を図ったのではないかと考えます。独立と言っても関羽劉備に対しては忠誠を誓っていますから、強力な同盟関係みたいなものです。

それと武官派と文官派の争いはこの時期は武官派が優勢であったと思われます。そのためか演義ですら荊州滅亡から夷陵の戦いにかけて孔明の存在感は希薄です。孔明が本当に存在感を持って台頭するのは夷陵の後の劉備の死に臨んでからです。有名な「遺孤を託す」です。こののち、孔明が正史に於てもはっきり登場するかと思います。

ここで何があったかですが、荊州・夷陵と二度の敗北で武官派の力が衰えたからではないかと考えます。有力な武将が多数戦死し、衰えた国力を託すには文官派の孔明に頼るしかないと判断したのかもしれませんし、もう少し現実的に言えば相対的に強力になった文官派に政権を譲らざるを得なくなったとも見れます。劉備の後継者はあの劉禅ですからね。


文官派筆頭として政権を掌握した孔明ですが、後半生は祈山での魏との対峙に費やされます。なぜに孔明があれだけ北伐にこだわったかですが、建前上は漢帝国の復興です。ただ本気でそれが出来るかを信じていたかはこれまた謎です。国力が違いすぎるからです。三国時代の戸籍調査と言うのが残されており、

    蜀:94万人
    魏:443万2881人
    呉:230万人
えらい人口が少ないと感じますが、軍勢は基本的に戸籍のある住民から動員されますから、国力差は歴然です。ここまで細かい数字を孔明が把握していたかどうかは不明ですが、孔明ほどの人物なら国力の差は十分知っていたはずであり、この差は少々の戦術戦略では埋めきれないものとわかっていたはずです。

孔明が何を考えていたかの記録があるかどうかは知りませんが、その戦略は蜀の保持の一点であったかと思います。強大な魏には、蜀単独でも、呉単独でも、蜀呉同盟を結んでも勝てません。蜀が存続するためには、魏に蜀と呉の二正面作戦を意識させる事が狙いであった様に思います。つまり蜀が内治に専念して外征を行なわなければ、魏は大挙して呉に押し寄せ滅ぼしてしまいます。

呉が滅べば蜀は簡単に粉砕されますから、常に蜀は魏に対して「進攻するぞ」の積極的な姿勢を見せる必要があります。ここで呉が連動して活発に牽制活動を行なってくれれば良いのですが、呉は長江の守りに自信を持っており、蜀ほど二正面作戦の必要性を感じていないのが孔明の苦悩であった様に思っています。

そのため孔明は蜀単独で二正面作戦の幻影を魏に見せ続けたのが祈山であったと思います。蜀呉が同盟を結んでいるのは魏も十分知っていますから、蜀が攻勢に出るときには常に呉を意識しなければなりません。魏はその気になれば蜀と呉に対し二正面作戦を十分行なえる戦力がありながら、孔明が行なう進攻により「守りを固める」意識が植え付けられたと考えています。

魏が防御意識を持ってくれれば、進攻はなくなりますから、その間は蜀の命脈は保たれるというのが孔明の狙いであったかと思っています。ただし払う犠牲は半端じゃありません。本心は陽動作戦なのですが、陽動作戦である事を見抜かれたら終わりですから、攻勢はあくまでも本気で行なわなければなりません。本気で長安を襲う姿勢を見せてこそ、効果があるという事です。

魏にすれば蜀が本気の攻勢を見せれば見せるほど、呉の動向が気になり、防衛意識を高くする戦略です。さらに孔明にはこの攻勢で決して負けてはならない十字架を背負わされています。大敗を喫すれば、そのまま魏が蜀に乱入してきます。孔明が毎回祈山に出陣したのは、そこなら大敗を喫し難い地形だからだと考えています。

最後は祈山から五丈原に移りますが、ここも決戦より持久戦に適した地形とされています。なぜに最後に五丈原移ったかの理由も定かではありませんが、推測するに連年の攻勢により戦力が衰退し、祈山では支えられないと判断したのかもしれません。

ただしその効果は抜群であったと思います。負けるはずがない魏が孔明の幻影に踊らされたからです。孔明の攻勢に備えて主力部隊をかなり厚く配置し、防御を固める事になります。それもこれも、孔明率いる蜀軍が本気で魏を征服するとの幻想が生じ、これに対する国防を本気で考えたからです。演義に伝えられている話は創作や誇張もあるでしょうが、やはり「孔明は本気だ」の意識がかなり浸透していたのもあると考えます。


孔明の偉大さは弱小の蜀でこれだけの戦費を費やしながら、内政を破綻させずに国力を保った事だと思います。北伐は本気で行なわなければ蜀は滅ぼされますし、本気でやればやるほど戦力も国力も消耗します。消耗するはずの国力をなんとかやりくりしきったのが孔明の大政治家たる所以ではないと考えます。

どういう内政を行ったのかの記録はほとんど残されていないはずですが、孔明への住民の尊崇は非常に篤かったのだけは間違いありません。蜀の国力は北伐により消耗しはずですが、孔明以後も30年も国を保つ事になります。30年も命脈を保った原因としては、魏に司馬氏が台頭して国を奪うという大政変が起こった事も大きいですが、孔明の遺産も少なからずあったと思います。

孔明時代の蜀の攻勢の記憶は残り、国力以上に強大な国の印象が強烈に残されていたと思います。孔明がいなければ荊州・夷陵と大敗を喫した劉備勢力はもっと早くに滅亡しても不思議ありません。それをなんとか三国鼎立まで持ち込み、苦心惨憺の末、その死後30年にもわたって蜀を存続させた功績こそ孔明が真に称えられる点ではないかと思います。

それがあまりにも信じられない行為であったがために、後に神算鬼謀の神秘的名将であるとの伝説が無数に生まれたと考えています。そうでないと出来るはずがないとの思いからです。

国史的にも三国時代は一つの時代の終焉を迎えたのだと思っています。夏商周から春秋戦国、さらには秦漢帝国を経て三国までは、基本的に古代からの中国文化が伝えられたと考えています。しかし三国後に中国統一を果たした西晋以後は、それまでの中国文化を担ってきたはずの旧来の漢民族が衰え、周辺の民族の乱入による大動乱時代が続きます。その時代に古代からの中国文明がかなり変容したのではないかと思っています。

そういう意味で孔明は古代中国文明の正統を受け継ぐ最後の大政治家であったとも見れます。だからこそ無数の伝説が作られたとも思います。孔明の内政の様子を伝えるのに有名なエピソードがあります。東晋の武将桓温が蜀にあった成漢を滅ぼした時に、孔明在世中の事を知っている老人に質問を行ったことが記録されています。

    桓温:「諸葛丞相今與誰比」
    老人:「諸葛在時亦不覚異 自公没後不見其比」
意訳すると
    桓温:「孔明は今の人物なら誰に該当するか」
    老人:「孔明が生きている間は特別な人とは思わなかったが、死後はあのような人はもう見ることが出来ないと思った」
個人的に孔明の実像をもっとも正しく伝えているんじゃないかと思っています。ではではこの辺で休題にさせて頂きます。皆様が楽しい連休を過ごされる様に願っています。