著作権問題に関する新聞界の基本的な考え方

引用元は日本新聞協会です。

今日の元もとのテーマは、ブログを書く上で注意が欠かせない著作権の「引用」の知識整理をしようと考えていました。とくに新聞記事はよく引用しますし、著作権は著作者の意向で違法性が左右される事が多いとされますので、それを確認しておこうです。確認と言うか「お勉強」の役には立ったのですが、それだけでは話が退屈なのでオマケをつけてのセット販売です。


まずお勉強の「引用」ですが1997(平成9)年11月6日 第564回編集委員会「新聞・通信社が発信する情報をネットワーク上でご利用の皆様に」から「引用して利用する場合には、いろいろな条件を守る必要があります」を引用します。

 著作権法32条は「公表された著作物は、引用して利用することができる」としています。この規定に基づく引用は広く行われていますが、中には、記事をまるごと転載したあと、「○年○月○日の□□新聞朝刊社会面から引用」などとして、これに対する自分の意見を付けているケースも見受けられます。また、記事全文を使えば「転載」(複製)だが一部だけなら「引用」だ、と考えている人も多いように思われます。

 しかし、著作権法32条は、「この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」という枠をはめています。

 この規定に当てはめると、引用には、報道、批評、研究その他の目的に照らして、対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の分より少ないという関係にないといけません。

 表記の方法としては、引用部分を「」(カギかっこ)でくくるなど、本文と引用部分が区別できるようにすることが必要です。引用に際しては、原文のまま取り込むことが必要であり、書き換えたり、削ったりすると同一性保持権を侵害する可能性があります。また著作権法第48条は「著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない」と定めています。新聞記事の場合、「○年○月○日の□□新聞朝刊」などの記載が必要です。

公表された著作物は引用できるは著作権法に定められていますが、条件として、

この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない

これの新聞協会の見解が書かれています。引用するための前提条件として、

自らの創作性をもった著作物があることが前提条件

こうしています。この前提条件を満たす更に条件として、

  1. 質的な問題の主従関係
  2. 分量としても引用部分の方が地の分より少ないという関係
質的にも量的にも引用部分が「従」であり、創作部分が「主」である事を求めています。その前提条件を満たした上で、
  1. 引用する必然性
  2. 引用の範囲にも合理性や必然性
  3. 必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません
変な事を新聞協会が主張している訳ではもちろんありませんが、かなり曖昧な部分が多いことがわかります。もちろんこれは新聞協会が著作権法違反として見なす条件であり、「質」とか、「合理性」とか、「必然性」は引用者による主張もあり、争えば訴訟にもなりうる事です。この辺は「そうか」ぐらいで良いかと思いますが、次は具体的に引用するときの方法論です。
  1. 引用部分を「」(カギかっこ)でくくるなど、本文と引用部分が区別できるようにする
  2. 引用に際しては、原文のまま取り込むことが必要
  3. 新聞記事の場合、「○年○月○日の□□新聞朝刊」などの記載が必要
今日のここまでのエントリーは「質」は主観になりますが、「合理性」「必然性」は満たしているかとは思います。ただ量に関しては必ずしも満たしているとは言い難いところです。量に関しては実は議論があり、一般的には引用の2〜3倍が望ましいという話もあります。ただこれを杓子定規にやれば短切な批評は成立しなくなります。ダラダラと長い文章の引用をしたら、その2倍ものそれに関する文章が量として必要になる関係です。

著作権の喩えに持ち出すのは良くないかもしれませんが、判決文みたいな難解で時に冗長な文章の引用なら、引用元より長くするのはかなりの努力を要します。そういう点についての解釈も幾つかあるようですが、新聞協会が示しているのはあくまでも原則ですから、これも「そういうものだ」とここはしておきます。



ここまでで本来の「お勉強」の部分は終わりで、後は長〜い、長〜い「オマケ」です。本当についでのオマケなのですが、1978(昭和53)年5月11日第351回編集委員会「新聞著作権に関する日本新聞協会編集委員会の見解」にちょっと面白いところがあったので御紹介します。引用するのは見解の「著作権問題に関する新聞界の基本的な考え方」からなんですが、まず冒頭部です。

 周知の通り、自由で民主的な社会の維持とその発展のためには、新聞が社会生活に必要な情報や意見をできるだけ広く国民大衆に伝達することが不可欠の条件である。特に、現代社会のように、生活環境が多様化し、価値観が多元化しつつある状況にあっては、その報道・評論活動を通じて、社会の各階層、各個人あるいは集団間における情報と意見の自由な交流を促進するための”共通の広場”を形成することが、新聞に強く要請されている。今日の新聞がこの公共的使命にこたえて、社会生活のあらゆる分野に生起する多様な情報・資料ならびに意見を可能な限り幅広く収集し、紹介する努力を重ねていることは知られる通りである。

もちろん新聞協会の見解ですから最初に、

自由で民主的な社会の維持とその発展のためには、新聞が社会生活に必要な情報や意見をできるだけ広く国民大衆に伝達することが不可欠の条件である

これが「周知の通り」と書いてあるのを笑ってはいけません。この見解が出されたのは31年前の1978年ですから、この頃には誰もがそう信じていたとしても良いからです。今ではどうかの議論もしたいところですが、サラッと流します。次は、

現代社会のように、生活環境が多様化し、価値観が多元化しつつある状況にあっては、その報道・評論活動を通じて、社会の各階層、各個人あるいは集団間における情報と意見の自由な交流を促進するための”共通の広場”を形成することが、新聞に強く要請されている

新聞と言う情報装置は一方向性の性質を持っています。完全に一方向性かどうかは異論もあるかもしれませんが、かなり明確に送り手(情報発信者)と受け手(読者)が分離されます。とくに31年前ならなおさらだったと思います。そういう新聞が「共通の広場」をどういう形態で形成しようとしていたかの意図が興味深いところです。

あえて推測すれば新聞記事がキッカケになって、職場なり家庭で新しい情報が話題になり、意見の交流が為される事ぐらいが思いつきます。確かな事は新聞社が物理的な場所としての「共通の広場」を作ることはなかったであろうと言うことです。この

    社会の各階層、各個人あるいは集団間における情報と意見の自由な交流を促進するための”共通の広場”
これが物理的な場所として真に形成されたのは新聞の努力ではなく、ネットの発達によってのものです。ネットの特徴は双方向性であり、様々な話題に関して「社会の各階層」「各個人」「集団」が「意見の自由な交流」を可能にしています。ネット以前では「新聞に書いてあること」が絶対であった時代の意見交流だったのが、現在では「新聞に書いてあること」も一つの意見として扱われるに変わっています。健全な発達と思っています。

今日の新聞がこの公共的使命にこたえて、社会生活のあらゆる分野に生起する多様な情報・資料ならびに意見を可能な限り幅広く収集し、紹介する努力を重ねていることは知られる通りである

「知られる通りである」の言葉が微笑みを誘いますが、新聞協会の公式見解ですから流しましょう。次の段は

 すなわち、日々の紙面づくりに当たっては、読者大衆の欲求と期待に沿って、収集、蓄積した情報をより豊富に掲載すべく努めているばかりでなく、独自の価値判断に基づいて、より適切、より正確な記事とするための創意、工夫もあわせ行っている。

短いのですが面白い論理展開です。記事を書くに当たって「読者大衆の欲求と期待」に沿うとまずしています。悪意で表現すれば大衆迎合ですが、これはこの見解が発表されて31年間の新聞の歴史を見れば忠実に努力されているかと私は思います。ただ一方で「独自の判断」に基づくともしています。「読者大衆の欲求と期待」と「独自の判断」はやや相反する気もするのですが、ここは、

    「独自の判断」が「読者大衆の欲求と期待」に沿うように「創意、工夫もあわせ行っている」
こう書き換えればまだ意味が通りそうな気もします。いや、気はするんですがやぱり「沿う」と「独自」の整合性がやはり余りよろしくないような感触が私には残りますが、どんなものでしょうか。この「独自の価値判断」は次の段にもかかると思われます。

 かねて、新聞は、このように高度に独創的な著作物性を有する各種記事

ここで新聞記事は「高度に独創的な著作物」としています。前段の「独自の判断」がさらに強調されたとも解釈は出来ます。ただ強調されたが故に疑問点が出てきます。ちょっと雑学ですがYahoo百科事典で「独創性」を引用すれば、

主として芸術作品について、傑出したものの基準の一つとされる概念で、芸術家の並はずれた創作力が作品のうちに記す新しい、類例のない、個性的な性格をいう。現代では「新しさ」が文化の一般的価値基準となり、芸術やその周辺現象はもとより、倫理、宗教、思想、政治においてさえ、新しいものが追い求められる傾向がある。この傾向にあわせて、創(つく)り手の側も「違いを出す」ことに汲々(きゅうきゅう)としている。

ほとんど風俗化したこの文化現象の大もとに、独創性の概念があることは明らかである。だが、本来の独創性を新しさと混同してはなるまい。単に「他と違っているもの」を独創的とよぶことはできない。なぜなら、英語をはじめとして西欧語において独創性を意味する単語は、「源泉origineから湧(わ)き出したもの」を意味するからである。「源泉」が創造力をさすことはいうまでもない。独創性とは、作品に刻み込まれたこの源泉のしるしのことであり、新しさはその結果の一面にすぎない。そこから明らかなように、独創性は個人の創造力を重んずる近世思想と不可分の関係にある概念である。したがって、その歴史を考えるためには、ルネサンスから始めるのがよい。

ここでの独創性の概念は厳しくて

    新しい、類例のない、個性的な性格をいう
これの具体的な説明として、
    単に「他と違っているもの」を独創的とよぶことはできない
この程度では独創性と呼ばず、
    独創性とは、作品に刻み込まれたこの源泉のしるし
源泉の意味は新たな泉と言うか水源と考えれば良さそうです。従来の源泉からの流れを汲むものは目新しくとも独創とは言わず、まったく違う源泉を掘り当てること、見つけることを独創と言うとの事です。新聞記事で言えば扱う事件が異なっても、テンプレ内容であればそれは独創性のある記事には既にならないという事です。


寄り道はこれぐらいにして、独創性を求めるのは表現者のサガですが、とくに高度となれば問題が少々生じます。独創性が常に正しいとは限らない事です。医学でも時に仰天するほどのトンデモ理論がありますが、これも見方によっては高度の独創性と言えなくはありません。新たな源泉を自ら掘り起こしているのですから、originalityと言う意味で条件を十分に満たしています。

また独創性とはまったく新しい概念を打ち出すことですから、その概念が新聞記事に必要な「正しさ」を打ち出した時点で検証するのが困難な時もあるはずです。少々の独創性ではなくあくまでも「高度」ですから、従来の概念を遥かに飛び越えるものであっても不思議ないからです。それでも記事は見解によると、

より適切、より正確な記事

これを求めると示しています。「より適切、より正確な記事」を書くのには異議は何もありませんが、これと「高度の独創性」が整合するかです。整合する時もあるかもしれませんが、むしろ整合しないケースの方が多い様な気がしてなりません。

ところでこの見解が作成されて31年ですが、ごく最近までこれを読まれた人間は非常に少なかったと思います。新聞記者でも誰もが読んで暗記していたとはちょっと思えません。当然作られた時にも広く世間に公表するというより、新聞協会の内規と言うかどちらかと言うと内輪向きの扱いであってもおかしくありません。

31年前なら新聞社が記事にしない限り誰も知らないものですし、作成するほうも身内しか読む者はいないだろうと考えていたとしても不思議ではありません。見解は著作権法に関することですから、新聞記事が著作物である事を強調するためにやや過剰な文飾を行ったと考えますが、過剰すぎてやや支離滅裂になっているように感じます。

別にここまで過剰に装飾しなくても、誰がどんな文章、たとえ匿名ブログであってもそこに著作権は発生します。おそらくですが狙いは、新聞記事のうち

著作権のないもの(「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」著作権法第10条第2項)

これを後段で大幅にというか、ほとんど無くしてしまう著作権法に関する見解を打ち出しています。「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」に著作権がある事を示すために、新聞記事への過剰な表現を用いていると考えられます。ただ読みながら思ったのは、非常に初歩的な異論反論です。見解では「高度に独創的な著作物性を有する各種記事」であるからとの理由で著作権の主張を展開していますが、この前提が崩れたらどうなるかです。

下手に「高度に独創性」なんてしているものですから、正直なところ大部分の記事は「高度に独創性」でないとするのは容易です。上述した様に独創性の定義はかなり厳格ですから、金太郎飴みたいな横並び記事、テンプレ記事、受け売り記事、勉強不足記事は真っ先に否定されます。言葉の遊びのようですが、新聞記者も嘘でも言葉のプロですから、字義を正確に使うのは責務です。これは少し飛躍しますが、

    新聞とは高度の独創性がある記事によって構成されるものであり、そうでないものは新聞とは言えない
こういう風な事も指摘されると言う事です。もっとも肝心の著作権法については、独創性があろうが無かろうが、著作物としては保護されますから、見解としては目的を十分果たしています。もう一つ思いついた事があるのですが、この見解が出された31年前と違い現在は新聞業界が経営に苦しんでいます。打開策と言うか延命策として政府の補助金まで運動しようと言う体たらくです。

新聞がサバイバルするにはそういう姑息策ではなく王道を行くべしです。つまり、

    真に高度に独創性のある記事で紙面を埋め尽くす
なかなか提言として格好が良いのですが、ここで自分で書いた罠に嵌っている気がしています。「高度に独創性」に一部のトンデモ学説も該当すると書いた手前、トンデモ理論に基づいた記事でも「高度に独創性」になりそうな悪寒です。脳内妄想と「高度の独創性」の差は時に紙一重ですから、そんな記事で埋め尽くされるのも「どうか」というところです。

チト苦しいのですが、そこは新聞協会の見解にある「より適切、より正確」が脳内妄想の排除になっていると言う事にしましょう。上で整合性に疑問符をつけた部分ですが、解釈を手直しして、「より適切、より正確」は「高度に独創性」のうち脳内妄想を排除するためのものとします。これなら苦しいですが、なんとか話が通ります。

散々今日はアラを突付きましたが、31年前に見解が出された頃は「ひょっとしたら」すべての新聞記事が「高度に独創性」がったのかもしれません。さすがに当時の記憶がないのですが、仮にもしそうなら基本に戻るだけの事です。31年前でも出来ていなかったのなら、今からでも見解どおりの紙面にされれば良いと思います。

え、そんな事は無理って。いやいや日頃山ほど書かかれている精神論・根性論・机上論を自業界に適用すればよいだけの事です。精神論・根性論・机上論の支援が必要ならば、「高度に独創性」なものは無理ですが、新聞記事のテンプレ程度のものならネット中が協力してくれると思います。もちろん才能のある方は「高度に独創性」のある精神論・根性論・机上論を提供してくれるかと推察します。