日曜閑話24

今日のお題は「北条時宗」です。言うまでもなく二度にわたる元寇鎌倉幕府の指導者であり、世界帝国であるモンゴル軍を撃退したヒーローとして知られています。ところが元寇の関連文献を読んでも何をしたかよく分からない人物でもあります。この辺は私の勉強不足もあると思うのですが、それも含めての日曜閑話です。

鎌倉幕府源頼朝が独創した政府形態です。ただ教科書で鎌倉幕府創設により日本の政権が単純に移ったみたいな理解は危険です。徐々に力を成長させますが、京都の朝廷と言うか有力貴族の力は消えておらず、鎌倉時代に衰弱は続けましたが、それでも南北朝の動乱を引き起こすぐらいの力を保持しています。京都朝廷の力が完全に地に落ちたのは室町期に入ったからと考えた方が無難です。

頼朝の作った鎌倉幕府の力の及ぶ範囲は基本的に東日本であり、もっと言えば関東の地方政権であるとしても良いかと思っています。さらに頼朝は武家の棟梁とされた源家の嫡流ではありましたが、源家自体に広大な所領は無かったと考えています。あくまでも関東の土豪連合の旗頭であり、求心力としての要として頼朝は存在価値があったと見るのが正しい様な気がします。

土豪連合が鎌倉幕府に求めた機能は、

  1. 土着の自作農であった土豪の領地を公式に保障する事
  2. 土豪同士の争いを血を見ずに平和的に仲裁する事
  3. 功名手柄に対して確実に恩賞でもって応える事
この3つが当時の関東の土豪連合が切実に求めた事であり、これに頼朝が忠実に応えた事で鎌倉幕府に強い求心力が生まれたと考えています。頼朝は日本史上でも稀に見る大政治家であり、ともすれば分裂抗争に走る土豪連合をよくまとめ上げたと思います。鎌倉幕府は頼朝でなければ作れず、また頼朝ほどの政治的手腕があってなんとか維持できる政権であったとも考えます。

頼朝一代はそれでよかったかも知れませんが、頼朝でなければ維持できない政権は頼朝が死亡すれば求心力が維持できなくなります。頼朝には当時の人間が服従するのに不可欠な血統と家柄と言う権威と、政治力と言う二つがそろっていたからです。頼朝の子孫も頼朝と同等の政治力があれば良かったのですが、そんなに簡単に頼朝クラスの才能の人間は続きません。

結局、源家は三代の実朝で滅亡します。その後は実に日本的な政治形態で鎌倉幕府は運営されます。鎌倉幕府が求心力を保つには権威と政治力が必要なんですが、権威と政治力を分離します。権威としての将軍は京都から有力貴族や親王クラスを迎えて保持します。さらに京都から迎えた将軍は幼少時に迎え、成長すると交換しています。つまり将軍は権威としてのみ存在し、政治力を発揮しない仕組みにしています。

政治力を握ったのは北条一族です。北条家は頼朝の妻である政子でつながり、三代で滅んだとは言え源宗家と密接な血縁関係があります。またおそらくですが、頼朝は政治的求心力を保つために源宗家を大きくする事はほぼ不可能だったでしょうが、北条家は十分に恩賞に預かって大きくなったはずです。つまり北条家はドングリの背比べの関東諸豪の中で頭一つ抜けた家柄と実力を持っていたと考えます。

ただ北条家の権威だけでは頼朝の権威を代行できないので飾り物の将軍を立てて新たな権威とし、それに次ぐNo.2の権威と実質的な政治的権力を掌握したのが北条執権政治と考えています。何の事はない京都朝廷の藤原氏のような役回りです。ただ事実上の支配者である執権を担当した北条家は歴代優秀な人物を輩出し、政治的には安定したことは間違いないと考えています。

北条執権政府は初代が頼朝の妻の政子の父である老獪な時政であり、二代は政子の弟である義時で承久の乱を勝ち抜き、三代泰時は教科書で有名な御成敗式目貞永式目)を作っています。四代の経時ははかばかしくありませんでしたが、五代は鉢の木で有名な最明寺時頼になります。政権が興隆に向う時は優れた人物が輩出するというのを実感します。


北条時宗得宗家といわれた北条宗家の嫡流であり、エリート中のエリートとしてわずか17歳で第八代の執権の座に座ります。このあたりの経緯も微妙そうなんですが、初代から五代までは北条得宗家の当主が執権の座を受け継いでいます。五代時頼も嫡子である時宗を六代執権にしたかったようですが、時頼が執権職を引退した時で時宗は6歳。これではと言う事で中継ぎに北条傍流でしたが六代長時を立て、長時が引退時にも時宗は13歳でしたから、長時の叔父の政村がさらに七代執権としてリリーフしています。

時頼は時宗12歳の時に死亡していますが、おそらく時頼の威光及び北条得宗家の力は強大であったと考えられ、時宗本人の資質も良好だったので17歳と言う若さの執権が実現したと考えて良さそうです。略年表をwikipediaから引用しますが、

和暦 西暦 年齢 内容
建長3年 1251年 0 生誕
康元2年 1257年 6 元服
弘長元年 1261年 10 従五位下に叙し、左馬権頭に任官。
文永元年 1264年 13 連署就任。
文永2年 1265年 14 従五位上に昇叙。左馬権頭如元。
文永2年 1265年 * 但馬権守兼任。
文永2年 1265年 * 相模守兼任。但馬権守去る。
文永5年 1268年 17 左馬権頭辞任。
文永5年 1268年 * 執権就任。
文永9 1272年 21 二月騒動
文永11年 1274年 23 文永の役
弘安4年 1281年 30 弘安の役
弘安4年 1281年 * 正五位下に昇叙。相模守如元。 
弘安7年 1284年 33 死没


6歳で元服鎌倉時代でも早すぎると思うのですが、この時に父の五代執権時頼が引退していますから、一種の後継者宣言でなかったかと考えます。13歳で副執権とも言うべき連署になっていますが、これは時頼の遺訓を受けた長時、政村の意向と考えて良さそうです。時宗が執権になって最初に直面した問題が二月騒動と呼ばれるものであり、これもwikipediaから引用すれば、

1266年(文永3年)にもたらされた蒙古(元)国書に対する返書や、異国警固を巡り紛糾する最中に起こった事件で、得宗家を中心に鎌倉幕府を主導する北条氏の内紛。幕府に対して謀反を企てていたとされる六波羅探題南方の北条時輔、北条一門の名越氏らが執権北条時宗の命により討伐された事件で、2月11日に鎌倉で名越時章・教時兄弟、同月15日には京都で時輔がそれぞれ誅殺された。

もっとしっかり調べれば良いのですが、このwikipediaの解説も少々混乱があります。元寇でのモンゴル側の国書はこれもwikipediaでは、

1268年正月に大宰府へと到着。大宰府少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)と高麗王書状を受け取り、鎌倉幕府へ送達する

二月騒動は1272年に起こっていますから、大筋では無関係ですがちょっとだけ寄り道です。いずれにしても、世界帝国モンゴルの日本への影響が得宗家の嫡流である時宗を執権に立てる政治的必要性につながっていたと考えて良さそうです。

ここでなんですが、時宗及び鎌倉幕府の対モンゴル外交は一貫して無視から拒絶の姿勢です。文永の役の後の国使はなんと切り捨てています。これについては、まともに国書に対して返答しても、モンゴルの目的は日本征服であり、これに対して断固たる姿勢を示したものと評価はされています。ただ後世から見ると余りに芸の無い対応と感じざるを得ません。

ただ時宗及び鎌倉幕府の硬直的な姿勢については、京都朝廷の存在が念頭にあったとされます。鎌倉幕府時宗の頃には実質的な全国支配を完成していたと考えますが、形式上は京都朝廷の下に存在するのが鎌倉幕府です。この二重支配構造は江戸幕府まで続きますが、鎌倉幕府の頃は衰えたと言っても京都朝廷は無視できない力が残存していました。つまりモンゴルの国書は京都朝廷に対して出されたものであり、外交の担当は鎌倉幕府ではなく京都朝廷であったと言う事です。

とは言うものの京都朝廷に外交を司る能力などありません。厄介なのは能力はないのですが、口だけは挟むウルサさがあった事です。下手に時宗鎌倉幕府が口出しすると、粗探しを行なって猛烈な批判だけが炸裂する構造であったという事です。そうなると政治的には鎌倉幕府はモンゴルの国書問題については「何もしない」選択しかなかったという見方です。

国内政治的に京都朝廷との間に波風を立てないとする考え方は一応筋が通るのですが、時宗及び鎌倉幕府がどれだけモンゴルの力を把握していたかが問題です。後世では時宗は英雄として称賛されていますから、モンゴルの動向を十分把握していたとされますが、正直なところ疑問符がつきます。まずモンゴルが本気で日本征服を最初から考えていたかです。

モンゴルは当時世界最強の大帝国です。力の源泉は勇猛無比なモンゴル騎馬兵団ですが、モンゴル軍の弱点は陸戦は無敵でしたが、海戦は非常に苦手とすることです。朝鮮征服でも陸戦では鎧袖一触でしたが、高麗政府が江華島に籠っただけで攻略に四苦八苦します。南宋戦でも同様で陸戦では無敵でしたが、南宋亡命政権海上に漂ってから手間がかかっています。そうやって見ると日本は海の向こうの国であり、嫌でも海上渡航が必要になり、国書を送った当初から日本征服の意図があったかどうか疑問です。

モンゴルの当時の皇帝はフビライですが、フビライにしても南宋戦を抱えながら、日本に遠征軍を送るのは余り気の進まない戦略ではなかったかと思います。おそらくフビライの狙いは、形式的に臣従してくれればそれで十分ぐらいであった様な気がします。ひょっとしてですが、時宗もまた「どうせモンゴルは攻めてこない」の観測があったのかもしれません。

形式的でも臣従をすれば京都朝廷は蜂の巣を突付いたような大騒ぎになるでしょうし、鎌倉幕府を支える武士団も幕府の力を疑う可能性があります。そうなると国書問題に対する基本姿勢は「どうせ攻めてこない」の前提で「無視する」との断固たる姿勢が国内政治的にもっとも賢明との判断です。それと当時絶頂と言っても良い鎌倉幕府の戦力を過信していたのかも知れません。

今と元寇時では情報量の桁が100桁ぐらい違います。博多の商人あたりならモンゴル軍の強大さを肌身で感じていたものもいたとは思いますが、鎌倉までそう簡単には届きません。時宗の手許に届くまでには何段階ものフィルターがかけられ、その情報を分析する限りで「どうせ攻めてこない」、「もし攻めてきても十分蹴散らせる」の観測が立てられても不思議ありません。

時宗がモンゴル軍を甘く見ていたのではないかの傍証として文永の役の動員があります。文永の役の時のモンゴル軍は記録によると900隻、2万6000人の兵力であったとされます。これを迎え撃った日本軍は九州を中心に動員されていますが、5000〜1万とされています。文永の役では日本軍は非常な苦戦を強いられ、その原因としてモンゴル軍の集団戦法と新兵器「てっぽう」の威力とよく解説されます。

しかしよく見れば兵力差がそもそも歴然としています。2.5倍から下手すると5倍の兵力がモンゴル軍にあるわけですから、苦戦しなかったら嘘になります。兵力差が歴然とある上で戦法まで劣っていたら勝てるわけがないという訳です。これは時宗のモンゴル認識が、そもそもその程度であったとする傍証になるかと思います。ここまで本気でモンゴルが日本を攻めてくるとはまさしく想定外であったと言う事です。

戦法のことはさておいても、文永の役博多湾防衛に動員された日本軍が5000〜1万であるという事は、モンゴル軍はもし攻めてきても数千程度であろうと考えていたとしてもよいかと思います。海を渡るためには船が必要であり、時宗の認識として作ってもせいぜい100隻が関の山としていたんじゃないかと思います。100隻なら2000〜3000人程度ですから、5000〜1万も集めておけば負ける訳がないとの戦略です。ところが押し寄せてきたモンゴル軍はなんと900隻であったと言うことです。

それより何より時宗を驚かせたのはこの世に現実として博多に2万6000もの大軍が出現した事じゃないと思っています。源平合戦では富士川の源氏軍17万騎が集まったとなっていますが、当時の人口から絶対不可能な数字です。そこから続く源平合戦でも両軍の動員兵力は一の谷でも万を越さなかったと考えるのが妥当かと思われます。つまり日本人がはじめて見る大軍であり、時宗も関東で動員をかけられる兵力の概数ぐらいは知っていたかと思いますから、モンゴルの実力と本気度に震え上がったかもしれません。

2万6000がどれほどの大軍であるかですが、はるか時代が下って今川義元の西上軍の評価を考えると良く分かります。今川軍は約3万とされましたが、これがいかに大軍であったかは戦国時代でも語り草になるぐらいだからです。鎌倉時代の武士の大軍感覚は1万でも目の眩む数であったかと考えます。海と言う関門もあるため、そういう感覚でモンゴルの動員力を計っていた時宗は冷水を浴びせられる思いになったとしても不思議ありません。

ですから7年後の弘安の役の時には徹底した防御持久戦法を取ります。これも様々な見方がありますが、狙いは食糧が尽きて帰ってくれるのをひたすら待つ戦法であったと考えます。まともに陸戦をやれば勝ち目は薄いので逆兵糧攻めみたいな戦略です。これは当時の船の航行力も計算していたと考えています。今なら博多湾に強力な防御線があるのなら、どこか別の地点に船を回航し、手薄なところから上陸して陸戦を挑めば良さそうなものですが、そういう能力は乏しいとの計算です。

この戦法は功を奏し、たとえ神風が吹かなくともそのうちモンゴル遠征軍は退却した可能性は高いと考えます。弘安の役のモンゴル軍の動員兵力は14万とされますが、船から降りないと兵力は有効に使えません。一旦上陸してしまえば、文永の役の二の舞以上の損失を蒙るので、ひたすら水際防御で上陸を許さない持久戦を構想し展開したと考えています。

個人的にですが、文永の役時宗が見通しを誤った失敗であり、弘安の役はそれを教訓にして綿密に情報を集め、慎重に戦略を立て撃退に成功した功績と考えています。そうなると時宗の偉大さは、文永の役の怪我勝ちに慢心せず、教訓を弘安の役に活かした点とするのが良いような気がします。書けば簡単そうですが、こういう事は言うは易しの事柄であり、おそらく鎌倉幕府内でもあったと考えられる「前勝ったから、次も大丈夫」の声を、指導力でねじ伏せて負けない戦略を遂行させたのはやはり凄い手腕だと考えます。

ではでは、この辺で休題にさせて頂きます。