麻生発言を考える

11/19付時事通信より

「社会常識欠けた医者多い」=麻生首相が発言、すぐに陳謝

 麻生太郎首相は19日、首相官邸で開かれた全国知事会議で、地方の医師不足問題に関連して「社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い。とにかくものすごく価値判断が違う」などと述べた。首相はその後、記者団に「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」と陳謝したが、医師の資質を批判したとも受け取れる発言で、今後波紋を呼びそうだ。

 同会議で首相は、「地方病院での医者の確保は、自分で病院経営しているから言うわけじゃないが大変だ」と強調。その上で、「小児科、婦人科が猛烈に問題だ。急患が多いところは皆、(医師の)人がいなくなる」「これだけ(医師不足が)激しくなってくれば、責任は医者の(方にある)話じゃないか」と述べ、産婦人科に対する診療報酬加算などの対応が不十分との認識を示した。

 問題の発言は、医師の多くが産婦人科などでの過重な勤務を敬遠して開業医に流れる現状に、知事側が懸念を示したのに対して飛び出した。首相は同日夜、記者団に「医者は友達にもいっぱいいるが、おれと波長が合わねえのが多い」としながらも、「そういう(社会常識の欠落という)意味では全くない」と釈明した。

発言として問題になっているのは、

  1. 社会的常識がかなり欠落している人(医者)が多い。とにかくものすごく価値判断が違う
  2. これだけ(医師不足が)激しくなってくれば、責任は医者の(方にある)話じゃないか
この二つでとくに前者が大きく取り上げられています。個人的には前者の発言は問題発言と言うより、首相の表現力の乏しさと受け取っています。麻生首相に失言と言うか表現力や説明の不足による問題発言が多いのは就任前から周知の事ですし、もう十分に関係者からの批判もありましたから、私はこの程度にしておきたいと思います。


私は話題になった前者の発言より、後者の発言の方が気になります。時事通信記事を補足する記事として、11/19付朝日新聞には、

首相はさらに「(医師不足が)これだけ激しくなってくれば、責任はお宅ら(医師)の話ではないですかと。しかも『医者の数を減らせ減らせ、多すぎる』と言ったのはどなたでした、という話を党としても激しく申しあげた記憶がある」と続けた。その上で、医師不足の一因とされる臨床研修制度の見直しなどに取り組む考えを示した。

医師不足は医師の責任であるという趣旨の発言です。医師数抑制政策は医師だけで決定したものではありません。2007.2.20付赤旗より、

福祉切り捨ての「行革」路線のもとで、八二年、政府は医師数の抑制を閣議決定。これを受けて八六年には、厚生省の「将来の医師需給に関する検討委員会」が「一九九五年を目途として医師の新規参入を最小限10%程度削減する必要がある」との見解を発表しました。

ソースが赤旗なのが気になる人も多いかもしれませんが、事実関係の確認ですから問題ないと考えています。思想とは別ですからね。確認される閣議決定はもう1回あり、医師の需給に関する検討会報告書(2006)には

平成9年6月に医師数を抑制する旨の閣議決定がなされたことから、平成9年7月新たに「医師の需給に関する検討会」を設置

1982年の医師数抑制の閣議決定を1997年に再確認している事がわかります。政府の動きを見てみると、

年月 政府の動き
1982.9 医師数抑制を閣議決定
1984.5 「将来の医師の需給に関する検討委員会」設置
1986.11 「将来の医師の需給に関する検討委員会」報告
1993.8 「医師需給の見直し等に関する検討委員会」設置
1994.11 「医師需給の見直し等に関する検討委員会」報告
1997.6 医師数を抑制する旨の閣議決定
1997.7 「医師の需給に関する検討会(1998)」設置
1998.5 「医師の需給に関する検討会(1998)」報告
2005.2 「医師の需給に関する検討会(2006)」設置
2006.7 「医師の需給に関する検討会(2006)」報告


大した流れではありませんが、1982年の閣議決定を受けて「将来の医師の需給に関する検討委員会」および「医師需給の見直し等に関する検討委員会」が行われ、1997年の閣議での再決定に受けて、「医師の需給に関する検討会(1998)」および「医師の需給に関する検討会(2006)」が行なわれたのは明らかです。4回の検討委員会の結論の「医師数抑制」は閣議で既に決定されており、検討委員会に求められたのは「どれほどの医師数に抑制するか」であったのは自明の事です。

政治や行政の実際について詳しいわけではありませんが、閣議決定されている結論を検討委員会で覆す事なんて日常的な事とは思えません。ごく当たり前に考えて、閣議で決めた大方針を具体的に色付けするのが検討委員会の役割として良いかと思います。だから4回の検討委員会は競って医師数抑制策を打ち出したと考えるのが妥当です。ちなみにですが参議院法制局によると閣議決定とは、

閣議決定とは、内閣総理大臣及びその他の国務大臣をもって組織する合議体たる内閣の会議(閣議)で内閣の権限事項を決定することであり、憲法又は法律が内閣の意思決定を当然必要としている事項、例えば、法律案及び政令の決定は例外なく閣議決定の方式によることになります。また、特に法令上の根拠がなくても、重要な政策に関する事項は閣議決定で決められることが多くなっています。

軽いものではないのがわかりますし、検討委員会が閣議決定を覆すような事はそうはあるとは思えません。

問題は1982年の閣議決定がどういう経緯で行なわれたかです。1997年の閣議決定は再確認的な性格と思われますから、最初の閣議決定のプロセスが重要かと考えます。厚労省資料によると

1982(昭和57)年には、医師については、全体として過剰を招かないように配意し、適正な水準となるよう合理的な養成計画の確立について政府部内において検討を進めることが閣議決定(「今後における行政改革の具体化方策について」)され

こうなっていますから、「今後における行政改革の具体化方策について」がカギを握ると考えられます。これについては文部省資料である医学部入学定員削減に関する答申等について(抜粋)に書かれています。

○ 昭和57年7月 臨時行政調査会「行政改革に関する第3次答申」

    医療従事者について、将来の需給バランスを見通しつつ、適切な養成に努める。特に、医師については過剰を招かないよう合理的な医師養成計画を樹立する。
○ 昭和57年9月 閣議決定「今後における行政改革の具体化方策について」
    医療従事者については、将来の需給バランスを見通しつつ養成計画の適正化に努める。特に医師及び歯科医師については、全体として過剰を招かないように配意し、適正な水準となるよう合理的な養成計画の確立について政府部内において検討を進める。

読めばお分かりのように閣議決定の「今後における行政改革の具体化方策について」は臨時行政調査会「行政改革に関する第3次答申」に基づいて決定されています。この臨時行政調査会は第二次臨調とも土光臨調とも呼ばれたもので、wikipediaによれば、

主要メンバーには、会長の土光敏夫の他に瀬島龍三加藤寛屋山太郎らがいる。

土光臨調は有名ですが、これに対して医師なり医師会が麻生首相の言葉通り、

    『医者の数を減らせ減らせ、多すぎる』と言ったのはどなた
てな運動を繰り広げたとは記憶にございません。土光臨調の決定に医師が大きく影響したのも記憶にございません。これについて情報をお持ちの方がおられればコメントお願いします。1982年の閣議決定は土光臨調に基づくもので当時当選2回組の麻生議員では、
    党としても激しく申しあげた記憶がある
こういう立場にあるとは思えないからです。一議員として「激しく申し上げた」かどうかまでは残念ながら確認できません。


ここで麻生首相の発言として最も問題と感じるのは閣議決定の責任を医師に押し付けようとしている点です。当時の医師過剰論はそれなりに有力で医師や医師会も賛成と言うか反対していなかったと考えています。そういう中での1982年の閣議決定に医師の賛成意見はあったかもしれません。それでも重要なのは決定の責任は意見を述べた医師ではなく政府であるという事です。様々な意見を聞くのが政府の仕事ではありますが、決定は政府の独自判断であり、責任もまた政府にあります。極めて基本的な常識です。

それを麻生首相は賛成意見を述べたかもしれない医師に責任があると発言されているのに問題を感じます。医師に限らず専門分野の問題対処に当たり、その分野の専門家の意見を聞くことは通常の政治手法です。しかしあくまでもそれは参考意見であり、閣議決定の責任まで一緒に負うものとは私には考えられません。強いて批判するのなら医師の『医者の数を減らせ減らせ、多すぎる』の意見(本当に存在すれば)を諮問意見に取り上げた土光臨調への批判になり、その意見を取り入れ閣議決定した当時の政府の責任とするのが筋と思われます。

さらになんですが、医師抑制政策は1997年にもう一度閣議決定されています。当時の麻生首相経済企画庁長官として内閣に名を連ねていらっしゃいます。ひょっとすると麻生首相が「激しく申し上げた」のは1982年の閣議決定時ではなく、1997年の閣議決定時かもしれません。麻生氏は閣僚ですから閣議決定に直接関与する立場です。

閣議決定の採決方式は存じ上げませんが、閣議決定は多数決での決定なのでしょうか。曖昧な記憶ですが閣議決定は全閣僚の賛成が原則であったように思います。決定にあくまでも反対する閣僚がいれば、総理大臣はこれを罷免してでも全員賛成にする方式だったように思います。反対が認められれば、閣議決定後でも「オレはあの閣議決定は認めん」となって内閣不一致になってしまい好ましくないからです。

閣議決定されたのは1997年6月であり、麻生経済企画庁長官は1997年9月までその地位に留まっています。常識的に考えて当時の麻生首相は医師数抑制政策の閣議決定に賛同されたと思われます。閣僚として閣議に賛成するという責任は非常に重いかと考えます。こんな古証文を云々するのは好ましい行為と言えないかもしれませんが、麻生首相が、

    責任は医者の(方にある)話じゃないか
ここまで持ち出されるのなら、対抗上出さざるを得なくなります。


先週から過去4回の医師数抑制策に大きな影響をもたらした4回の検討会の分析を行ないました。現在の状況からすると過去の医師数抑制政策は間違いであったとはなります。しかし当時の認識として「医師過剰論」は非常に説得力のある物であった事は否定できません。検討会も具体的なデータを示してこれを立証し、人々はこれを信じました。

問題は20年、30年、40年先の未来予想が非常に難しかった事です。未来予想が難しい上に医師数の増加ないし抑制は10年から20年スパンで無いと変えられない性質を持っています。不確かにならざるを得ない未来予想の上で短期では調節が利かない医師養成を考えなければならないのは非常に難しい事です。麻生首相経済企画庁長官として1997年の閣議決定に賛成されたことは当時の状況からして非難は出来ないと考えています。

つまり結果としての医師不足が現在にありますが、特定の誰かが1982年から現在に至るまで医師数抑制に魔王のような影響力を及ぼし続けていたわけではは無いと考えています。当時の政策決定に携わった人間は本気で医師過剰論を信じていましたし、そのための施策を継続していただけと言うことです。医師不足自体も表面化したのは、2004年からの新研修医制度施行後に漸くでてきたものであり、それまでは誰も今日の事態を予測してなかったといえば大袈裟でしょうか。

過去の「誰が」の責任論をすれば麻生首相も1997年の閣議決定に関与しており共犯になります。麻生首相だけではなく医師過剰論に賛成した当時の関係者すべてが医師も含めて共犯になります。ここで当時も医師不足論が非常に有力であったにも関らず、これを強引にねじ伏せて医師過剰論に基づいた医師抑制政策を断行したというのなら責任者はまだ特定しやすいですが、そんな議論はなかったと記憶しています。

それにも関らず「責任は医者」論を展開するのは問題だと考えますし、こちらの方の発言はその後も訂正も釈明もされていないと思いますから問題として大きいと考えています。