福島事件求刑

いくつか報道があるのですが、もっとも臨場感がありそうなohMyNewsから拾ってみます。

記事によると検察は5時間もかかって読み上げたそうなので断片的なものであるのは致しかたありませんが、雰囲気だけでもわかると思いますから感想を交えながら、

「(用手剥離の)手指が入らないほど強い癒着胎盤だったのに、クーパーを使って無理な胎盤はく離を10分以上にわたって続け、次々とわき出るような出血を起こさせたのは、医師として基礎的な注意義務違反である」

これまでの産科医の見解では癒着胎盤は剥離して初めて診断が可能であるとの説明がなされていましたが、検察の癒着胎盤の診断基準は

    (用手剥離の)手指が入らない
この時点で診断できるとし、その程度の事は、
    医師として基礎的な注意義務違反である
では「(用手剥離の)手指が入らない」時にはどうしたらよいかですが、

「癒着胎盤の無理な剥離には大量出血のリスクがあるので、直ちに子宮摘出すべきというのは産婦人科医として基本的な知識。大量出血を予見する事情は多数存在したのに、回避しなかったのは、被告は医師として安易な判断をしたといえる」

なるほど検察側の定めた診断治療の基準は、

    (用手剥離の)手指が入らない → 即座に癒着胎盤を診断 → 子宮摘出
ここで検察側は「基礎的」と言う表現を使っていますから、とくに産科医であるなら常識的な知識としているようです。

「出産の喜びを期待して廊下で待っていた家族を、手術開始から4時間、何の説明もなく待たせ、いきなり『すみません、亡くなりました』と最悪の現実を突き付けた。それが遺族の厳しい感情を呼び起した」

癒着胎盤の剥離による大出血は20リットルに及んだと記憶しています。さらに輸血血液の手配から到着まで70分ほど必要だったとも記憶しています。4時間の間、被告産科医師は救命のために死力を尽くしていたのですが、それを中座して家族に説明しなかったのは極悪非道の所業と論じています。これは今回の症例だけに当てはまる話ではないと考えられ、あらゆる手術で危機的な状況に陥ったとき、手術を中断し「非常に危険な状態である」と家族への説明をしなければ非難される行為と検察は論じています。

「被告は、公判が始まって以降、自分の責任を回避するために、クーパー使用にいたった供述を変遷させた。なりふり構わず、事実をねじ曲げようとする被告人の言動からは、遺族に対する真摯な態度はうかがわれず、厳しく追及されるべきである」

クーパーをチョキチョキ切るハサミであるとの思い込みが裁判を通じて改まらなかった事を示しています。「クーパーとはチョキチョキ切るハサミ」と思い込み、そこからすべての話を展開構築しようと高圧的に怒鳴る人間を相手に説明方法を変える事は、

    供述を変遷させた
こうなると言う訳です。それとこれは純粋に立場の違いなんですが、検察は当然ですが被告産科医師を「120%有罪」としており、「120%有罪」の人間に残された道は情状酌量を求めるしかない理屈になり、
    遺族に対する真摯な態度はうかがわれず
こういう態度の人間は言語道断となるかと考えます。

「被告は、供述と公判では発言を変遷させている。自己の責任回避のための事実のねじまげで、信頼できない」

別に強調するほどのものではありませんが、拘置所に監禁し連日長時間の尋問を受けたら誰だっておかしくなります。心理的精神的な拷問と同じなのですが、その時の供述と平静を取り戻した時の相違が検察は許せないそうです。

「この事件に関しては日本産婦人科学会など多数の学会が抗議声明を出している。それらの団体に所属する医師の証言には、一定方向の力が働いている。結果ありきで任意性に劣る」

なるほど、なるほどです。被告側の証言も信用できないのなら検察側の証言も同様になります。検察側の医師も「それらの団体に所属する医師」に該当するかと思います。証人の信憑性を争うのは法廷戦術としてポピュラーなものなのかもしれませんが、医療裁判において学会が反対声明を出し、その所属員の証言がすべて信用できないとの戦術は興味深いものです。そこまで大風呂敷でくるんでしまうのも戦術として常識的なものなのでしょうか。

とにもかくにも裁判は大詰めに近づいてきました。今回の裁判は多くの医師が注目しており、さらに裁判中のあらゆるやり取りを熟知しています。正直なところこの内容で被告産科医師が負けるとは夢にも思いません。それでも負けるようなことがあればどういう結果をもたらすかは怖ろしくて書けません。息を殺して結果を見守りたいと思います。