流儀の違い

まず暇人28号様のコメントです。

「チーム医療」が昨今叫ばれており、重要性は皆さんが認識している通りなんですが、別々なところで研鑽を受けてきた医師たちが一同に集まって「チーム医療」が出来るのでしょうか。なんだかんだ言っても「同じ釜の飯を食った仲間」でないと細々としたところで様々な齟齬が生まれて破綻するんじゃないのかなあ。寄せ集めでは難しいと思います。そういった意味では、大学医局制度というのは必要悪だったんだなあ、しみじみ思います。

続いてなっく様のコメントです。

外科はもともとチーム医療が必須な科ですが、二つ以上の医局から派遣がある病院で一つにまとまってるとこなんて見たことありません。
すくなくとも手術はA大学チーム、B大学チームみたいな感じになっちゃってますな。
まあ、ケリーの使い方ひとつからして違う人たちじゃあ、手術がやりにくくてしょうがないですよね。
さらに流れ者ばかりが集まったとこで仲良くやってるなんて話聞いたことないですし

医師なら読めばすぐにピンとくる話ですが、一般向けに解説しておこうと思います。医師が疾患に対して検査や治療法を考えます。大枠で言えば同じ事を考えています。バラバラじゃ医療になりません。また治療法や検査を統一するために学会からガイドラインが発表されたりもします。いわゆる標準医療の確立の方針で、トンデモ治療方針で患者に被害をもたらさないようにそろえるところはそろえておこうの方針です。

ではすべての医師が金太郎飴のようにまったく同じ治療をするかと言えばそうではありません。もちろん大枠は同じなのですが、微妙に違います。やっている事は○○治療とか△△手術であってもやはり微妙に違います。この違いは技量の違いと言うのではなく流儀の違いみたいなものです。

どれほどの差かと言えば、あくまでも例えですが、茶道の表千家裏千家ぐらいの差とでも思ってもらえれば良いかと思います。私も茶道には詳しく無いのですが、素人から見ればどちらも同じ茶道であり、その差はまず見分ける事は出来ません。茶道だけでなく華道としても良いかもしれません。これも素人が見ても流派の違いはまずわかりません。綺麗な生け花と思うぐらいで、それ以上でもそれ以下でもありません。

ところが当事者は細かな作法の違いを重視します。重視するからこそ違う流派として成立しているのですが、客として茶を喫する、見物客として花をめでる分には差は無いと言えば言いすぎでしょうか。これと同様の事が医療でも起こります。患者として治療を受ける分には差はまず感じないでしょうが、医師にとっては大きな違いとして確実に存在します。

医療の勉強も基礎知識を学ぶ医学書レベルではほぼ同じですが、実戦的な臨床技術となれば手取り足取りの伝承技術になります。つまり指導する医師の技術を学ぶ事になります。指導する医師もかつてその上の世代の医師に伝承された技術をベースにしています。その技術の源泉はどこかといえば大学医局になります。

同じ大学医局の医師同士なら基本的な流儀は同じです。もちろん基本技術を学んだ後、新たな技術を研鑽したり、独自に工夫したりして、同じ大学医局出身でも各医師で差はありますが、それもベースの技術は同じですから、許容範囲の差として同じ流儀であると感じ、一緒に仕事をしてもそれほど違和感は生じません。

言ってみれば大学医局は家元制度であり、医局員は弟子、病院に部長クラスで派遣される医師は高弟ないし師範代と言う感じと思ってもらえれば理解し安いかと思います。大学は医療と言う芸事の流派で、教授は家元そのもの、今は昔ほどもてはやされなくなりましたが博士号は免状みたいなものです。

そういう状態なのですが流派が異なればどうなるかです。外科を例に取ればわかりやすいのですが、相当ギクシャクします。ナック様の言う

    ケリーの使い方ひとつからして違う人たちじゃあ、手術がやりにくくてしょうがないですよね
こういう状態になるわけです。ちなみに「ケリー」とはケリーバッグの事ではなく手術に使う鉗子の種類の事です。

どうやりにくいかと言えば、手術の手順が微妙に変わるからです。手術室の雰囲気はテレビなどでは「メス」とか言って、執刀者が順番に指示して粛々と進行するように思われている方が多いかもしれませんが実態はそうではありません。小児科医なので狭い知見ですが、ほとんどそんな指示無しに手術は進んでいきます。

どういう事かといえば、手術手順を執刀医はもちろんの事、助手も手術場看護師も熟知しており、次に何をするか、どうしたら良いか、なにが必要かを一歩二歩先を読みながら動くからです。言っては悪いですが、指示を聞いておもむろに行動するでは遅すぎるという事です。指示を聞いて大慌てで準備するようでは役にたたないということです。ですから慣れない研修医や新人看護師がよく雷を落とされています。

そんな芸当が出来るのは流儀が同じだからです。異動があって病院を変わっても基本が同じ流儀なら短期間に慣れます。ところが流儀が根本的に異なれば大変です。次の展開が読めなくならからです。当然のように手術場は混乱し、不必要な時間がかかったり、手術中の細かなミスが積み重なったりします。

流儀の違いでそんなに混乱するのなら、海外留学や国内留学に行く場合はどうなるんだになりますが、その場合は教えを乞いに行くわけですから、相手の流儀を無条件に受け入れます。受け入れないと技術を伝授してくれないからです。持ち帰った技術は相手の流儀の直伝ではありますが、やがて自分の流儀と融和し本家と若干異なりながらさらに伝承される寸法になります。

留学で新技術を伝授してもらう場合は自分に無いものを教えてもらうのですから謙虚ですが、対等の立場で寄り集まった場合は絶対に譲ることはありません。細かな違いでもそこに流儀の誇りがかかっているわけですから絶対に妥協しません。また流儀は全体のシステムになりますから、足して二で割るわけにも、パッチワークのように組み合わせる訳にも行きませんので、これもなっく様の御指摘のように、

    すくなくとも手術はA大学チーム、B大学チームみたいな感じになっちゃってますな
大学医局派遣制度は衰えてますが、それでも一つの診療科は一つの大学からの派遣である事が原則となっており、混成である事は少なくなっています。内科系でも原則はそうで、混成であっても治療グループごとに大学系列になっています。これは流儀が混ざり合う事のデメリットを考えてと解釈すれば分かりやすくなります。

だから医局制度を完全復活せよとは言いませんが、そういう伝統で今まで治療システムを構築してきたので数合わせの混成軍を作っても混乱するだろうと考えます。その当たりの事情を暇人28号様は、

    そういった意味では、大学医局制度というのは必要悪だったんだなあ、しみじみ思います
今後どうなるかの予想ですが、これが大変難しいものがあります。医局制度を破壊している新研修医制度はまだまだ続きそうです。医局と言う人事機構が衰弱してもその代替機関はそう簡単には出てきそうにありません。官製医局の試みを厚労省を中心にやっていますが、現役の医師にとってあれほど魅力のないものはありません。

一つの方向性として従来のように医師が病院を異動で渡り歩くのではなく、一つの病院で永久就職の様な形態が生まれてくると考えています。病院にとっても「医師確保」と言う面からは効率的です。ある程度の規模以上の大病院で無いと難しいかもしれませんが、そうなれば新たに○○病院流として確立していくとも見れます。

もう一つの方向性は大学系列に関係なく医師が渡り歩く形態が一般的となり、医師が「郷に入れば郷に従え」が常識になることです。

今は過渡期で混乱期ですから予測が難しいところがありますが、これも暇人28号様の

    別々なところで研鑽を受けてきた医師たちが一同に集まって「チーム医療」が出来るのでしょうか
この問題は当分の間つづくんじゃないかと感じています。