勤務医の労働環境の始まりと終わりみたいなメリー・クリスマス

まずは元ライダー様のコメントなんですが、

公務員特有のどんぶり勘定的な労務管理が、24時間稼働が必要な医師という職種に長時間労務を強いることにうまい具合にマッチした。そして、まず税金立病院でどんぶり労務管理が始まった。それが医師の労務管理の標準として、非税金立病院にも波及し、長らく継続していたのでしょうね。

それでは、なぜ、どんぶり勘定的労務管理に公務員(自治労なんてうるさそうですね)が異を唱えなかったかと言えば、大半の24時間稼働が必要ではない職種にとっては、メリットをもたらす一面があったということでしょうね。自分の体験からそう思います。

この意見の鋭いところは、旧来は大学医局が病院人事のほぼすべてを支配していた点です。大学医局は当然ですが大学病院(医学部も含まれると考えてください)に存在し、さらに多くは国立でした。国立以外にも自治体立もありますし、私立もありますが、医学部の拡大の歴史を考えると、主流は国立大学であったとしてもよく、国立大学病院が勤務医の勤務環境のモデルを作ったとしてもそんなに間違いとは思えません。

大学医局からの派遣にしても、かつては官高民低とみなされていたと聞いたことがあります。この辺は病院規模自体がピンキリなのですが、意識として同規模ならば公立病院勤務の方が格が高いと受け取られていたと聞きます。ここで派遣病院の勤務管理が大学病院を参考にしたと言う考え方はアリと思います。大学病院での方式を輸入しても、勤務している医師自体に違和感は少ないと考えられるからです。

大学病院方式は人件費が安くなるメリットがあります。安くなるなら経営者にとって大歓迎で、私立病院にも普及しても不思議ではありません。もちろん病院ごとに温度差はあったでしょうが、勤務医にしてみればどこに勤めても大同小異程度の差になり、なおかつ大学病院自体が一番酷いみたいな状況が展開したと考えられます。


次にBugsy様のコメントを引用します。

自分のころは大学の壁が厚くて出身校の影響のない有名な都市部の病院での勤務なぞ 夢のまた夢でした。そこに人員を送り込む医局に入るか 偶然研修医と採用されて入り込んでも研修期間が終われば行き先も決まらないまま放り出されるのは解りきっていました。多くの友人が最近までそうでした。

これも大学医局華やかなりし頃を知っている人間には、実にわかりやすいお話です。医局人事の支配は地方病院まで及んでいましたから、当然のように都市部の有名病院は激しい縄張り争いの標的になっていました。病院ごと大学医局が丸抱えもありましたし、診療科ごと、もっと細かくは同じ診療科の治療グループごとまでビッシリ医局人事の網の目が巡らされていたとしても良いかと思います。

そういう中で○○病院に勤務したいと思っても、医局人事の系列に入ってなければ勤務は不可能でした。有名病院を系列病院に抱えているのは、歴史のある偏差値の高い有名大学に多く、そういう医学部に入学すると言うのは、同時に有名病院に勤務できるパスポートを手に出来る意味合いもあったとしても良いでしょう。もちろん卒業後に有名大学医局に入るという方法もありますが、大学により温度差はあるものの、やはり生え抜きと外様の壁が厳然としてありました。

ここで有名大学を卒業して、そこの大学医局に入っても有名病院へのパスポートを得たというだけです。有名大学医局は他大学出身者の入局も多く、入局者を養うために非常に広範囲の系列病院も抱えています。この辺が面白いところで、有名大学といえども、有名病院ばかりを系列にしているわけではなかったのです。

そのため有名病院に勤務するには、「えぇっ」と言う系列病院の勤務が必ずセットになっていました。有名大学医局に属する事で有名病院勤務の可能性は出来ますが、一方ですんごい病院の勤務もまた義務づけられる感じです。不満があっても当時の医局人事の権限は強大でしたし、医局人事の網の目も細かいところまで張り巡らされていましたから、大学医局を離れてまともな勤務医生活などおくれないのクビキがしっかりとかかっていたとしても良いでしょう。

医師の出世の考え方は微妙なんですが、幾多のランク付けされた系列病院にいつ勤務するかで評価されている面は濃厚にありました。私は医局人事から殆んどドロップアウトしていましたから実感が薄いのですが、医師の雑談の定番は人事のお話でした。今でもそうかもしれませんが、実に延々と、なおかつ微に入り、細に窺う話を、それこそ飽きもせずにくり返されていたのを覚えています。

つまり勤務医の関心は、勤める病院の労働環境ではなく、次の人事異動でどういうポジションを占められるかに重きを置かれていた面が確実にあります。現在の勤務環境が劣悪でも、それさえ「ここを耐え抜くことが次の人事の評価につながる」みたいと言えばよいでしょうか。そういう環境が嫌なら開業してしまえみたいな気風も確実にあったかと思っています。

この開業するというのも大きな転機で、これは今でも十分ありますが、勤務医は開業医を一段低いものと見なします。かつての開業医は今とは段違いに儲かったのですが、儲かっている開業医を上から見下ろす事で勤務医の存在があると考えてもらえれば良いかと思います。もっと単純に言えば、勤務医を続けるとは医師としてのプライドを取り、開業医になるとはプライドを捨ててゼニを取るみたいな感じです。


それでも勤務環境は劣悪だったはずの指摘もありますが、勤務医自体が改善に積極的にならなかった理由の一つを麻酔科医様がコメントしています。

>大学医局として勤務先と交渉しなかった理由

それは病院の事務と交渉するより、研修日を黙認させたほうが医師の実入りが多かったからです。

労働環境が厳しい見返りではないでしょうが、労務管理はかなりドンブリな面があったのは確かです。公務員医師が公然と他の病院で診療や手術のアルバイトをやっていました。このバイト料収入が実にバカにならないものだったようですが、それだけ払ってもバイト先の医療機関は有名病院の医師が診療に来てくれるのメリットで十分に補えたとされます。

それ以外にも有名病院勤務と言う立場や肩書きは、暗黙の余禄がかなりあり、それを目当てに勤務している訳ではありませんが、結果として勤務条件の改善の方向に動き出すのを抑止していた一因になっていたと考えています。




実はと言うほどの話ではありませんが、労働環境の改善は労基法を押したてても、なかなか有効打にはなりにくいところがあります。一番有効なのは、その職場の労働環境では人員が確保できない現実が生じる事ではないかと思っています。どんな過酷な労働環境であっても、その条件で人員が集まり、業務に支障が無ければ、労働環境は殆んど改善されないと考えます。

勤務医で言えば、現在「過酷、過酷」と連呼される労働環境に耐え、順応してしまった事が改善の機会を生じさせなかったとすれば良いんじゃないでしょうか。経営者側の視点で言えば、文句も言われないし、人手も足りておれば、わざわざ経費が増える改善などやろうとも思わないと言う事です。逆にその労働条件では脱落者が続出するだけでなく、新たな人手の補充も困難となれば、経営の存廃に直接関りますから、人が集まるように努力を始めるみたいな感じです。

全国各地で「研修医や〜い」の運動が一斉に行われているのは、医師の補充のためには研修医を集めるのが有効そうだの認識が経営者側に芽生えたからだと考えています。そうでなかった頃の研修医の扱いなんて、言うも愚かの状態であったのは間違いありません。


医師の場合で言えば、医局人事華やかなりし頃は、事実上医局に属し、医局の人事に服さないとまともな勤務医生活は送れませんでした。いやそういう風に勤務医は固く信じ込んでいました。だからこそ地方への強制配置にも唯々諾々として従い、勤務条件の劣悪さも、これも他の代償条件と含みで順応していたと見れます。

ところが人為的施策により大学医局を弱体化させたらどうなったかの社会実験が行われました。医局の弱体化とは、医局による人事権の縮小化、弱体化になります。さらにこの上に、暗黙の代償条件の取り上げが出てきます。暗黙の代償条件は正直なところ不正ですが、不正によって他の不正をカバーするという不健全な状態があり、暗黙の代償条件だけ消滅して、代償されていた不正条件のみ残れば、どうなるかです。

はっきり断っておきますが、不正な代償システムを認めよとか言う気はサラサラありません。不正な代償システムは結果として代償して機能していただけの事であり、本来は無くて当たり前です。ただ当事者にすれば、代償システムだけ失い、負担だけ残った点がこの場合重要なポイントとして見ています。

人事権の縮小化は、当然のように端から切り捨てられます。最近ではニュースにさえなりにくくなった地方僻地病院の医師の慢性的な不足です。人事権の弱体化は、勤務先の流動化を生み出します。医局支配が緩めば、かつては勤務など無理だった病院への就職が可能になります。つうか、医局支配を離れても、まともな勤務医生活を送るのは可能と言うか、普通の感覚が広がったのが大きいと思っています。

そういう状況下では、勤務条件の悪い病院に耐え、順応する必然性が低下します。IYCの医師に対しての「代わりは幾らでもいる」の裏返しの「代わりに勤務する病院は幾らである」になっていくと言う事です。もちろんですが、これはBugsy様のコメントですが、

オイラの周りの医者は労務関係の法律を今の今まで興味がないそうです

別にそう考える勤務医が100%になる必要は無いという事です。もともと皆無に近かったわけですから、これがものの数%になっただけで地殻変動が起きるとしても良いと思います。10%にもなれば大騒動じゃないでしょうか。数%でも10%でも抜けた穴はゼロサムか下手するとゼロマイナスゲームになり、そこを埋めようとすれば、確実にどこかの穴が開く状態です。


最後にお弟子様のコメントですが、

現在の制度では無理が持続しないことが解っている以上、そういう明らかな事実を突きつけられること自体を制度改善の契機に出来ると喜ぶべきではないかと思うのですが、どうでしょう。

私もそう思います。ただこれにも根本問題はあり、劣悪な労働条件であっても病院が儲かっているわけではないのです。ここも微妙なんですが、医療費は勤務医が劣悪な労働環境に文句を言わないというのを前提として設定され、さらにその前提で削減を繰り返されています。病院側にしても無い袖は振れない状態に追い込まれています。

思えばそういう色んな矛盾を封じ込めていたのが大学医局制度であり、これを開けてしまったのが現在と思います。どう考えても行き着くところまで事態は進行していくと考えるのが妥当そうです。行き着いた先に何があるのでしょうか、壮大な黄昏を眺めている気分になっています。少し前まで傾いた太陽を食い止めようと足掻いていましたが、今は茫然と見守るばかりの心境です。

私も含めてですが、医療ブログやその他で尖鋭な労働環境論を主張している医師の大半が、ほんの4〜5年前には現在ないし現在以上に過酷な労働環境の支持者でした。医師なら、勤務医なら「それぐらい働いて当たり前」と無邪気に信じていました。今でも労働環境はさして変わっているとは思えないのですが、働いている医師の意識の根底は確実に変化しました。

旧来は「これこそ医師の働き方である!」であったのが、今では「やっぱりおかしいようなぁ?」にです。この意識変化の拡がりは深く広く、それも年を追う毎に確実に拡大を続けています。少なくともネットでは、最早そういう意識変化についての議論さえ起こらなくなるほどにです。お蔭でこの手の意見提示が主戦場であった医療ブログに一時の勢いが失われてしまったぐらいです。

本当に時代の流れは早いものだと痛感しています。そういう事で心からの、



Merry Christmas !


皆様におかれましても、可能な範囲で楽しいイブになりますように。