稲尾和久氏を悼む

今日は医療の話ではありません。時代を作った英雄の死が伝えられましたので、プロ野球ファンとして謹んで故人を偲びたいと思います。


さすがに現役時代は存じ上げません。私が知っているのはせいぜい江夏、村山(晩年のみ)、王、長嶋の時代までで、金田の現役時代も見たことがありません。ただし途轍もない大投手である事だけは知っています。うちのコメンテーターならBugsy様ぐらいが現役時代の勇姿を生で見たことがあるかもしれません。Bugsy様の推定年齢を読み間違えていたのなら先に陳謝しておきます。

稲尾和久の敬称は「鉄腕」です。鉄腕の意味は超人的なタフさで来る日も来る日も投げぬき、その期待も確実にかなえたところから付けられています。どれだけの大投手であるかは記録でしか確認できませんが、まずは通算成績です。

    実働14年、756登板、完投179、完封43、276勝137敗、通算投球回数3559.0、奪三振2574、防御率1.98
現役通算でシーズン平均20勝なんて化物じみた記録は、現在の投手では夢どころの数字ではありません。しかし稲尾の通算記録は歴代の大投手の中では並みの記録です。たとえば投手記録の化物と言ってよい金田正一と較べればよく分かります。
    実働20年、944登板、完投365、完封82、400勝298敗、通算投球回数5526.2、奪三振4490、防御率2.34
稲尾と金田はリーグが違うとは言え、ほぼ同年代に活躍しています。つまり二人の全盛期は同時に見て評価することが可能だったわけです。野球物でよくある企画に、歴代名選手によるベスト9なんてものがありますが、二人の全盛時代を知っているものでも投手には稲尾の名を上げるものの方が多数派です。さらに言えば金田の名を挙げた者は聞いた事がありません。これは金田が稲尾に劣るという単純なものではなく、記録以上に記憶に残る大投手であったからだと考えます。

稲尾は実働14年とは言え、8年で肩を壊し、最後の6年間の記録は53勝45敗です。逆にその前の8年間は223勝99敗となり、この間のシーズン平均勝敗数は驚くなかれ28勝12敗です。またこの間の投球回数は2765であり、これもシーズン平均で346イニングになります。さらに登板数も524でありシーズン平均65.5となります。

シーズン65登板、投球回数346イニングがどれほどの数か実感しにくいと思いますが、稲尾の8年間の球団試合数は年度により変遷がありますが、通算で1122試合です。1年平均で140試合ですから、イニングス数は単純計算で1260となり、346と言えば27.5%にあたり、一人でチームの全試合の1/4以上を投げ抜いていた事になり、それだけ酷使されてもシーズン平均28勝12敗ですから鉄腕の名に本当に相応しい活躍です。

それでもこの物凄さがわかりにくいと思いますので、パ・リーグの今年の最多勝投手である西武の涌井秀章の年間記録を出しておきます。今シーズンの試合数は144です。

    登板数28、17勝10敗、投球回数213.0、防御率3.53
もちろん時代が違うので単純比較は出来ません。当時の野球で投手とは酷使に耐え抜くものであり、耐え抜いて成績を残したものがエースの称号を与えられました。エースとなった投手は先発はもちろんの事、救援もこなすのは当たり前であり、優勝がかかってくると、先発→救援→先発なんて使われ方は珍しくもなく、ダブルヘッダーに連続先発して両方完封なんて離れ業の記録(秋山登:大洋)さえあります。

簡単に考えると1950〜1960年代の野球は投球技術の進歩の方が打撃技術をしのぎ、投手天国の時代であったと考えてもよいと思います。そのうえ、現在より各球団の戦力差は大きく、万年Bクラスのチームと優勝を争うチームとでは格段の戦力差があったとも言えます。稲尾が全盛を極めた1956〜1963のセパの最多勝投手をあげると、

年度 パ・リーグ 勝利数 セ・リーグ 勝利数 稲尾和久
'56 三浦方義 29 別所毅彦 27 21
'57 稲尾和久 35 金田正一 28 35
'58 稲尾和久 33 金田正一 31 33
'59 杉浦忠 38 藤田元司 27 30
'60 小野正一 33 堀本律夫 29 20
'61 稲尾和久 42 権藤博 35 42
'62 久保征弘 28 権藤博 30 25
'63 稲尾和久 28 金田正一 30 28


今では信じられないレベルの最多勝争いですが、それだけ投手が優位な時代であったの傍証と考えます。

ただしそういう投手酷使時代であっても、鉄腕と敬称された稲尾の酷使ぶりは別格であり、それ故に伝説として伝えられたのだと考えます。稲尾が酷使された最高のシーズンは1961年です。この年は140試合のうち、78試合に登板、投球回数404、42勝14敗、防御率1.69の記録を残しています。前年度が登板数39、20勝7敗と「不振」だったので奮起したのかもしれません。

このうち年間登板数は藤川に、さらに久保田に抜かれていますが、年間42勝は最高記録です。年間最多勝が稲尾の単独であるのか、スタルヒンとタイ記録なのかは議論もあるようですが、これは不滅の記録で二度と抜かれる事はありません。今年のパ・リーグ最多勝の涌井が登板した28試合を全部勝っても28勝ですから、追いつける記録ではありません。さらに投球回数404も絶対に追いつける記録ではありません。また登板回数が70以上の年は1961年以外に、'58が72登板、'59が75登板、'63が74登板ですし、全盛期8年間の平均がシーズン平均65登板ですから、'61が頭抜けて異常に登板回数多かった訳でもないのがわかります。

稲尾の最大のエピソードである1958年の日本シリーズの獅子奮迅ぶりはあえて割愛しますが、九州にはダイエーホークス以前に西鉄ライオンズという王者球団があり、そこの大黒柱として「鉄腕稲尾」が君臨した事は、ある世代以上の人間には絶対に忘れられない記憶であるはずです。


神様、仏様、稲尾様



現役時代から神や仏にならび称された鉄腕稲尾、本当に神様、仏様になってしまわれました。謹んで御冥福をお祈りします。