お盆閑話

本当は日曜閑話36でやった、大手前大学の小林教授の報告書を入手し、これを読み込んでエントリーに仕立てるつもりでした。その気マンマンで問い合わせたら、なんと売り切れだそうです。つう事で入手は当面不可能となったので、野球のお話にします。

プロ野球選手の成績とか実績の評価は色々あります。シーズン最多勝とか、本塁打王とか、首位打者みたいなタイトルを取ることも一つです。MVPを取るのも大きな評価になりますし、これらを複数回獲得すればさらに評価が上ります。さらに生涯通算成績でも評価を受けたりします。そう言った評価の中でも別格になるのが永久欠番です。

永久欠番に名を連ねるには抜群の実績はもちろんの事ですが、人気や球団の意向が様々に影響し、日本ではたったの13人しかいません(ファンとかオーナーとかを除く)。一覧表で示してみると、

選手名 背番号 球団名 登録年月日
沢村栄治 14 巨人 1947.7.19
黒澤俊夫 4 巨人 1947.7.19
藤村富美男 10 阪神 1958.11.30
西沢道夫 15 中日 1959.3.20
服部受弘 10 中日 1960.3.20
川上哲治 16 巨人 1965.1.18
金田正一 34 巨人 1970.4.2
村山実 11 阪神 1972.11.2
長嶋茂雄 3 巨人 1974.11.21
山本浩二 8 広島 1986.10.27
衣笠祥雄 3 広島 1987.9.21
吉田義男 23 阪神 1987.10.13
王貞治 1 巨人 1989.3.16


他に消えた永久欠番として大下弘西鉄)の「3」、中西太西鉄)の「6」、稲尾和久西鉄)の「24」、鈴木啓司(近鉄)の「1」がありますが、大下は返上、中西、稲尾、鈴木は球団売却により失効とされております。福本豊(阪急)の「7」も内定していたと言う話もありますが、これも球団売却により消え去っています。

最後に永久欠番となったのが1989年の王貞治ですから、そこから21年間も新たな永久欠番は誕生していませんし、思いつく限りで永久欠番になれそうな選手もいません。13人の永久欠番選手はさすがに球史に残る名選手、大選手と言いたいところですが、私でも殆んど知らない選手もいます。たとえば中日の西沢道夫服部受弘と言われても殆んど知りません。ただ中日球団史を調べれば、その栄光の足跡は確認できます。

それよりも一番謎が多い永久欠番選手は、伝説の名投手である沢村栄治とともに、プロ野球欠番第1号にあげられている黒澤俊夫です。この選手の事は2006年頃に一度調べて書いた事があるのですが、ネットを漁りまわっても目ぼしい情報が殆んど無く、書くのに非常に苦労させられた記憶があります。あれから4年が経ち、どうなったかと調べなおしてみると、ほんの少しですが情報が増えていましたので、もう一度取り上げてみます。


黒澤俊夫の事は子ども時代から、ほんの断片的には情報がありました。これがまた断片も度が過ぎるぐらいで、

    背番号「4」の黒澤選手は腸チフスで急死したため、以後「死」に通じる縁起の悪い背番号だから欠番になった
子供の時は「なるほど」と素直に納得していましたが、よく考えれば変なお話で、縁起が悪いから「4」を欠番にするのは良いとしても、選手名まで含めて欠番にする必然性はありません。縁起説で欠番にするのなら、同じ永久欠番であっても単なる欠番で、常に選手名を引き合いにする必要はありません。それと何より黒澤俊夫永久欠番は、間違い無くその活躍に対して贈られているものなのです。

とは言うものの戦前・戦中・戦後の混乱期に活躍した選手なのでその足跡を辿るのは容易ではありません。前回はプロでの成績ぐらいしかわからなかったのですが、さすがはネット時代です。もう少し詳しい情報が入手できました。まず掘り出せたのが黒澤俊夫の写真です。これが前にはどうしても見つからなかったのですが、



たった3枚ですが「よくあった」と思うぐらい貴重な写真です。ただなんですが、右と左の写真は眼鏡をかけています。しかし真ん中の写真は非常にわかり難いのですが、どうも眼鏡無しの感じがしないでもありません。個人的にはひょっとすると別人の可能性も疑っているのですが、真偽は不明です。

基本的なデータを追っかけてみたいと思うのですが、1914年6月10日生まれで大阪府出身となっています。八尾中学に進学し甲子園には5回出場しているようです。甲子園での八尾中の成績は、

1930年 1回戦 出場なし
1931年 ベスト8 1回戦
1932年 ベスト8 ベスト8


調べてみると八尾中−八尾高は春夏合わせて10回の甲子園出場歴があり、1952年夏には甲子園準優勝も記録しています。黒澤はそんな八尾中の5回の甲子園出場を支えていたとも言えそうです。八尾中卒業後に進学したのが関西大学で、いわゆる関六で大学野球を行なっていたと言いたいところですが、関六のこの頃の動きも微妙で、

動き
1929年 関西大学同志社大学京都帝国大学の三大学対抗戦開始
1930年 三大学対抗戦に京都五大学から脱退した立命館大学を加えて関西四大学野球連盟が発足
1931年 関西四大学野球連盟に関西学生野球連盟(旧連盟)の神戸商業大学が移籍し、更に関西学院も関西学生(旧連盟)との重複加盟で、同年秋に関西六校野球連盟を発足しリーグ戦を開始
1932年 同年3月の関西学院旧制大学昇格により、関西六校野球連盟を関西六大学野球連盟(旧連盟)と改称
1933年 秋季を最後に関西学院大関西学生野球連盟(旧連盟)から脱退。(重複加盟の解消)


関西大学時代の成績も不明なのですが、1936年に名古屋金鯱に入団となっていますから、卒業してそのまま契約入団したと考えて良さそうです。金鯱との契約条件も何故か判明していて、
    契約金350円 月給170円
なんと言っても時代が違うので全然ピンと来ないのですが、プロ野球契約1号とされる三原脩が契約金無しの年棒2000円であったとされます。年棒2000円なら月給にして約170円。三原は神宮のスターであり、慶応の水原に対し早稲田の三原として名を馳せていましたから、金額的には三原以上の条件であるとも見れます。でもって月給170円ですが、当時の大手銀行の大卒の初任給が70円だったと言う情報もありますから、その2.5倍ぐらいになります。

もっともプロ野球(職業野球)草創時のプロ契約は、球団も選手も手探り状態で、早稲田の三原と言えども、結果として抜群の契約条件であったかどうかは今となってはわかりません。感覚として当時の大卒(今とは価値が違います)を、海のものとも山のものともわからない野球と言う仕事に引っ張り込むために、かなりの高給を用意したらしいぐらいのエピソードはあちこちに書かれています。職業としての野球の社会的地位はかなり低かった関係もあると言われています。


プロ入団後の成績ですが、

年度 所属 試合 打数 安打 本塁打 打点 盗塁 四死球 三振 併殺打 打率 長打率 失策
'36春夏 金鯱 12 48 15 0 5 3 9 3 0 .313 .375 2
'36秋 金鯱 25 89 22 0 7 4 20 14 0 .247 .281 1
'37春 金鯱 56 200 59 1 16 17 51 15 0 .295 .365 2
'37秋 金鯱 48 165 46 2 26 15 34 12 0 .279 .436 4
'40 金鯱 53 191 43 1 28 2 27 13 0 .225 .272 4
'41 大洋 40 147 29 0 5 3 17 12 0 .197 .224 1
'43 西鉄 84 306 58 0 32 4 42 20 0 .190 .235 2
'44 巨人 35 135 47 0 17 14 24 7 0 .348 .452 2
'46 巨人 105 393 121 3 60 18 70 31 0 .308 .392 5
'47 巨人 26 95 19 0 5 0 11 8 0 .200 .232 0
通算 484 1769 459 7 201 80 305 135 0 .259 .329 23


'36に入団していきなり3割の好成績と言いたいところなんですが、プロ野球が始まった'36のリーグ戦の構成は複雑で、春期、夏期、秋期の3部に分かれ、さらにトーナメント制やポイント制が用いられ、球団ごとに試合数さえ違います。まず金鯱の春夏の試合数は16試合でそのうち12試合に出場しています。秋は28試合のうち26試合に出場です。ちなみに'36の金鯱の年間成績は15勝24敗1分で、とくに秋期は9勝19敗と低迷しています。それでもレギュラーであるのは間違い無さそうです。

翌'37になると春秋通算104試合のうち103試合に出場してますから間違い無くレギュラーです。打率的には2割台の後半程度ですが、当時のプロ野球がかなりの投高打低であったことを考えるとソコソコの成績であったんじゃないかと思われます。では'38はとなると成績は空欄です。ここは怪我とか成績不振ではなく兵役となっています。

'37の打順はどうだったかですが、調べればあるものです。職業野球!実況中継様の12年春 セネタースvs金鯱 5回戦 に、

 セネタースは2回、二死満塁から中村信の投ゴロをピッチャー鈴木鶴雄がホームに悪送球して2-1。金鯱は4回、五番ファーストに入る古谷倉之助が三失に生き、黒澤俊夫四球、相原輝夫中前タイムリー、鈴木も内野安打で3-2と逆転。金鯱は6回、黒澤が左中間を破る三塁打小林茂太の二ゴロで黒澤がホームに突っ込み、セカンド苅田久徳は黒澤の脚を意識しすぎて焦ったか本塁悪送球、金鯱が4-2とリードを広げる。

五番のファースト古谷倉之助の後に登場しますから、黒澤のこの時の打順は六番であった事が確認できます。もう一つ職業野球!実況中継様の12年春 タイガースvs金鯱 8回戦 は別の意味で興味深くて、

 金鯱は2回、先頭の黒澤俊夫が四球で出塁、小林茂太の二ゴロでランナーが入れ替わり小林茂はピッチャー牽制悪送球で二進、安永正四郎四球、五味芳夫の遊ゴロを岡田宗芳が失する間に黒澤が還って1点を先制。金鯱は3回、一死後濃人渉の三ゴロを伊賀上良平がエラー、島秀之助の送りバントが内野安打となり、瀬井清の右飛で濃人が三進、島が二盗を決めて一死二三塁、黒澤の一塁内野安打で二者が還って3-0とする。

金鯱のメンバーに後にロッテ監督として優勝した濃人渉がいた事と、これも後に名審判として名を残した島秀之助がいた事がわかります。この記事では打順は不明です。


兵役は'38〜'40とはなっていますが、'40から成績が出てきます。出場試合は53試合ですが、この年の金鯱の試合数が104試合ですから、シーズン後半になってからチームに復帰したと考えて良さそうです。ただ打撃成績は2割台の前半に落ち込んでいます。これも兵役の影響と考えて良さそうです。

'41は太平洋戦争開戦の年です。プロ野球も激動の時代に入るのですが、黒澤の周辺で言うと金鯱と翼(旧東京セネタース)が合併するのですが、前年度成績の関係もあったのでしょうか、大洋にトレードされる事になります。この大洋ですが現在の横浜の前身の大洋ホエールズとは無関係だったはずです。その'41の大洋の試合数は87試合なんですが、黒澤の出場は40試合に留まっています。

さらに'42の成績が空白になっているため再度の兵役があったのではないかと推測していますが、資料は沈黙しており不明です。そして次に登場するのは'43の西鉄です。仮に黒澤が兵役であれば復員後に拾われたのかトレードされたのが、この年からプロ野球に参入したと考えられる西鉄であったと考えるのが妥当そうです。

'43は西鉄の全試合である84試合に出場していますが、成績は.190の打点32、本塁打0です。本塁打はこの時代は滅多に出なかったので良いとしても、打率が2割を切るぐらいですから、お世辞にも強打者とか好打者と言えるほどの成績で無いのが確認できます。もっともなんですが、'43の打撃10位が.229で、4位でも.248の時代ですから無茶苦茶悪いと言うわけでもなさそうです。

ついでに言うとこの年のチーム打撃の最高は朝日と言うチームなんですが、これがなんと.211。優勝した巨人が.208、阪神までが2割を上回っていますが、残りの5チームは2割未満の成績です。そういう時代であることはわかっておいたほうが良さそうです。


ここまでの黒澤は大学卒業後にプロに入団し、いち早くレギュラーの座をつかんだものの、兵役によりその実力を低下させざるを得ない状態と見ても良さそうです。これはこの時代のプロ野球選手に共通したもので、戦前から活躍していた名選手の殆んどは兵役による経歴の中断を余儀なくされ、沢村を始めとして通算成績で大きなものを残したものは稀です。

好成績を残した者は旧制中学卒業後からキャリアを積み上げたものか、様々な理由で兵役を免れたものに限られ、黒澤のような大学卒やそれ以上の年齢のものはさしたる成績を残していません。黒澤もまた同じ運命を辿っていたと推測されます。

'44になると戦況の悪化は著明となります。簡単に言うと野球どころでない時代になっていると言う事です。各球団の選手も次々に召集され、レギュラーと言うか9人そろえるのも大変な時代になります。黒澤の成績は兵役後に低迷していると書きましたが、当時のオールスターとも言うべき東西対抗には、'40、'41、'44と選ばれ出場しています。

この東西対抗は'37から始まっているのですが、'44に行われたのも驚異的ですが、'45にも行われています。'45に東西対抗が開かれたのは幾多のドラマがあるのですが、これは今日は省略します。


'44は'36から連綿と続けられたプロ野球(職業野球)の最後の年になります。この年をもって職業野球連盟は事実上解散と言うか、休止状態にならざるを得なくなります。なんと言っても終戦の前年ですから、空襲警報を聞きながらの野球と言った時代です。この年に黒澤は西鉄から巨人にトレードされます。トレードとは書きましたが、実態は既にそんな状態ではなかったと言われています。

リーグ戦を行なうには参加チームが必要なんですが、とにかく選手不足で9人をそろえる事さえアップアップの状態であったと伝えられます。なんとかリーグを成立させるため、比較的余裕がある球団から、足りない球団へ選手の供出を行いリーグ戦の成立を行なったとされます。ここで各種の資料は、黒澤が西鉄から巨人への供出選手としてトレードされたになっています。

しかし良く調べると当時のリーグ所属球団は、

球団が8つから6つに減っています。西鉄は1943年に誕生はしているのですが、近藤貞雄のwikipediaに、

愛知県岡崎市出身。旧制愛知県立岡崎中学校から旧制法政大学を中退後、1943年に西鉄軍に入団。強打の一塁手として鳴らしたが、深刻な投手不足のチーム事情から石本秀一監督は、近藤の長身からの速球を見出し投手にコンバートした。同年、西鉄は資金難のため1年で解散に追い込まれてしまう。

さらに

折しも徴兵による選手不足に悩む東京巨人軍藤本英雄監督から申し出があり、1944年、黒沢俊夫らとともに巨人に移籍した(黒沢と共に、他球団から巨人に移籍した最初の選手となる)。

時代が時代ですから、西鉄は1943年にリーグ参加(よくしたものだと思います)したものの1年で解散を余儀なくされています。1944年のリーグの実情は西鉄と大和が解散、名古屋が産業(理研のこと)になり、南海が近畿日本と名を変えています。どのチームも選手不足が深刻ですから、解散した球団の選手は奪い合いだったかもしれません。

それでも巨人は当時も巨人であり、やはりリーグの盟主たる地位にいました。それだけの戦力もあったのですが、兵役に次々と主力選手を取られ、プライドを捨てて選手獲得に走ったのだと考えられます。それなりに選んで獲得したのが黒澤と近藤貞雄だったとも見ることはできます。


この新天地で黒澤は数年来の不振を吹き飛ばす活躍を見せます。川上も青田昇千葉茂もいない、誰も残っていない巨人の期待を背負って黒澤は活躍します。この年の黒澤は生涯最高の打率.348、また打点17の成績を残し、打撃成績は2位、打点も同じく2位、盗塁もたったの35試合で14個を数え主力打者の責任を立派に果たす事になります。

もちろん巨人に誰もいないのと同様に他球団も目ぼしい選手が払底していたうえに、戦時下の練習不足、食糧事情の悪化もあり、レベルダウンは当然ですが、それでも黒澤の成績は立派だと言っても良いとおもわれます。

余談 その1

1944年の成績が見ようによっては壮絶です。巨人の藤本は投げない日は外野を守っていたとされ、近藤貞雄も同様であったとされます。その藤本の打撃成績は.268で9位になります。その藤本ですが投手としてもフル回転し、21試合に登板し10勝8敗、17完投の記録を残しています。21試合と言っても全部で35試合しかないのですから物凄い登板率です。

藤本も凄いのですが、投手成績1位の阪神若林忠志となると目を剥きます。もう一度断っておきますが試合数は全部で35試合なのですが、31試合に登板し22勝4敗、24完投です。これはもう1人でリーグ戦を投げぬいたとしか言い様がありません。さらにこの2人が例外という訳でなく、

球団名 投手 登板数 完投数 投球回数 防御率
阪神 若林忠志 31 24 248 1.56
巨人 藤本英雄 21 17 169 1.59
阪急 笠松 14 7 106 1.78
天保義夫 11 5 72 2.22
産業 森井茂 22 14 160 2.25
野口正明 13 10 100 3.06
朝日 内藤幸三 29 21 222 2.10
近畿日本 清水秀雄 23 19 189 1.90
中本正夫 15 10 104 2.16


もう一度断っておきますが、この年は35試合だけしかなく登板回数は単純計算で315回です。もっともですがwikipediaに、

1944年は太平洋戦争の更なる戦局悪化から日本野球報国会(にほんやきゅうほうこっかい)と改め、平日は軍事高揚の労働に当て、試合は週末中心に開催された。

週末だけですから可能であったとも言えますが、この年は夏季リーグで終っています。それほどキチンと週末ごとに試合が消化できたとも思えませんし、雨天中止になれば翌週なりはダブルヘッダーどころかトリプルヘッダーがあっても不思議ないでしょう。物凄い時代です。

余談 その2

1944年を調べたついでなのですが、1939年も調べてみました。この年の試合数は96試合なんですが、巨人のエースであったスタルヒンは68試合に登板し、42勝15敗、38完投、投球回数458イニングスです。これがダントツかといえばさらに上がおり、翼の野口二郎は69試合に登板し33勝19敗、38完投、459イニングスを投げています。

翌1940年もスタルヒン、野口は投げまくっており、この2年だけの成績を簡単にまとめると、

年度 名前 年間試合数 登板試合数 完投数 防御率 投球回数 奪三振
1939 スタルヒン 93 68 42 15 38 1.73 458 282
野口二郎 69 33 19 38 2.04 459 221
1940 スタルヒン 104 55 38 12 41 0.97 436 245
野口二郎 57 33 11 29 0.93 387 273


この二人の成績は当時でも「凄い」方ですが、他の年でも他の球団のエース級もこれに近い登板回数、成績を残しており、当時の感覚からすれば「エースとはこれぐらい投げるもの」であったと推測は出来ます。

'45は戦後の混乱でリーグは開かれようも無く中止でしたが、'46から再び復活します。プロ野球の歴史を紐解くといつも感心するのですが、戦時下の'44までやせ細りながらリーグ戦を維持した執念、さらに終戦の翌年の'46にリーグ戦を復活させた情熱は驚き以外の何者でもないように思っています。

アメリカのメジャーは戦時下でもスケジュール通り行なわれていたとされ、日本との余裕の差を比較される事がありますが、日本のプロ野球終戦前年の'44まで続いていたのは考えようによっては物凄い事です。日本とアメリカでプロ野球が置かれていた地位の違い、プロ野球の歴史の浅さの違い、何より国としての余裕の違いを考えると、十分に驚異的と言っても良いと私は思います。


黒澤も'46のリーグ戦復活時に巨人に参加します。ここで運命の背番号「4」をつけるのですが、黒沢の背番号の変遷も興味深いところがあります。黒澤は'36に金鯱に入団していますが、この時の背番号は「4」です。'41に西鉄にトレードされた時に「3」に変更されています。次に'44に巨人にトレードされた時には「18」になっています。

'46の巨人ですが、この時、戦前の背番号を一度ご破算にしたと言われています。気分一新、新生巨人としてこれから歩んでいこうの趣旨であると聞いたことがあります。それでもって新規の背番号の割り振りとして、基本的に打順で持って割り振ろうとしたと伝えられています。つまり1番打者が「1」、2番打者が「2」みたいな感じです。

黒澤の「4」は当然4番打者を期待されての「4」であった事になります。'46には打撃の神様川上も復帰してきますが、川上の出場試合がリーグ106試合中70試合しかなかった事を考えると、この年も打率.308(打撃成績8位)、打点60の黒澤の打棒が巨人を支えた事は十分推測されます。つまり四番打者の「4」の期待に応える活躍を黒澤は立派に果たした事になります。


そして運命の'47を迎えるのですが、この年に巨人はメジャーにならって永久欠番制度を作る事にしました。とは言うものの球団が出来て10年余りであり、この時念頭にあったのは当時でさえ伝説になりつつあった沢村栄治の栄誉を讃えようと考えていたに違いありません。他の主力選手たち、川上や青田昇千葉茂藤本英雄などは幸いにも戦火を生き残り、他に有力候補としては捕手の吉村正喜がいるぐらいです。沢村が永久欠番となり、吉村がならなかった理由は今となってはよくわかりませんが、永久欠番制度第1号に沢村がまず内定しました。きわめて妥当な選択と言えます。

そんな時に黒澤は6月23日に腸チフスで急死する事になります。死の間際の黒澤はこう言い残したとされます。

    「私が死んだら、死体に巨人軍のユニフォームを着せて欲しい、巨人軍の一員のままで死にたい。」
この言葉は幾通りか違う表現で伝えられていますが、これを聞いた巨人の選手が立ち上がります。選手会長であった千葉を中心に立ち上がり異例の球団葬が行なわれます。この巨人の球団葬がどれほど異例と言うか、少ないかと言えば、まず黒澤が第1号なんですが全部で3回しか行なわれていません。さらに選手会長千葉茂らは球団に黒澤を永久欠番選手としてくれる様に申し入れ、これが了承される事になります。これが黒澤が沢村と並んで永久欠番第1号になった経緯になります。



さてなんですが、黒澤の経歴を可能な限り調べてみましたが、シーズン中の主力選手の急死と言うショッキングな出来事があったとは言え、球団葬から永久欠番にトントンと話が進んだのかは今となっては理解が難しくなっている気がします。よく永久欠番の条件にトレードがあったから云々は言われます。確かに13人の永久欠番選手で一筋型が多いのは確かで、トレード歴があるのは黒澤と金田の2人だけです。

金田は400勝と言う不滅の業績を称えられての永久欠番です。では黒澤の業績が金田の400勝に匹敵するかと言えば、残された記録だけでは比較するのも虚しいぐらいのものしかありません。そもそも巨人での実働自体が2年と2ヶ月ほどです。確かに主力打者として活躍はしていますが、首位打者を取ったとか、本塁打王に輝いたとか、優勝に多大な貢献を行なったわけでもありません。

盗塁は当時としては多く、ホームスチールの当時の日本記録を作っていますが、それも永久欠番として称えるほどの業績かと言われれば首を捻らざるを得なくなります。金田はトレードがあっても永久欠番になるほどの業績を積み上げていました、黒澤には申し訳ありませんが、金田のような球史に残る成績をお世辞にも残していません。


では黒澤の何に当時の巨人選手たちは価値を認め、異例の球団葬から永久欠番に推挙し、球団もそれを受け入れたかになります。巨人は今でも強い球団ですが、俗に3期の黄金時代を誇っていたと言われています。第3期といわれるのが川上巨人の9連覇であり、第2期といわれるのが水原巨人の時代です。では第1期とはいつかになりますが、戦前の5連覇の頃になるとされています。

巨人の戦前の5連覇は1939年から1943年までに当たりますが、この黄金期のメンバーが戦中戦後を経てどう変わったかを見れば少しは理解できるかと思います。

1940年 1944年 1946年 1947年 1948年
(遊) 白石 敏男 (二) 黒沢 俊夫 (遊) 山田  潔 (中) 呉  新亨 (遊) 白石 敏男
(三) 水原  茂 (右) 木暮 力三 (中) 呉  新亨 (三) 山川 喜作 (中) 青田  昇
(二) 千葉  茂 (投) 藤本 英雄 (二) 千葉  茂 (二) 千葉  茂 (二) 千葉  茂
(右) 中島 治康 (三) 中村 政美 (左) 黒沢 俊夫 (一) 川上 哲治 (一) 川上 哲治
(一) 川上 哲治 (一) 近藤 貞雄 (捕) 多田文久 (右) 平山 菊二 (左) 平山 菊二
(左) 平山 菊二 (捕) 川畑  博 (一) 諏訪 裕良 (左) 黒沢 俊夫 (右) 中島 治康
(捕) 吉原 正喜 (二) 渡部  弘 (中) 林  清光 (投) 川崎 徳次 (三) 山川 喜作
(投) スタルヒン (遊) 杉江 繁雄 (投) 近藤 貞雄 (捕) 武宮 敏明 (捕) 武宮 敏明
(中) 呉   波 (中) 呉  新亨 (三) 山川 喜作 (遊) 田中 資昭 (投) 川崎 徳次


仮に1940年のメンバーを黄金時代のベスト9とすると、4年後の1944年には呉新亨呉波)1人になってしまっているのが判ると思います。残りはすべて兵役ないし戦死です。1944年のメンバーのうち黒澤と近藤貞雄西鉄からの移籍組です。ちなみに巨人の移籍第1号と2号になるそうです。他に目ぼしいメンバーといえばエースの藤本英雄ぐらいです。

簡単に言うと巨人の黄金時代を支えたメンバーは綺麗サッパリいない状態に陥っていたわけです。誰もいなくなった巨人を移籍組の黒澤が懸命になって支えたのが1944年であり1946年であると言う事です。参考までに出した1948年のメンバーがわかりやすいと思いますが、この頃になってようやく戦前の黄金期のメンバーが戻ってきます。

欠けたのはエースであったスタルヒンは戦後の一時期野球を離れ、さらにその後は巨人には二度と戻りませんでした。捕手の吉原は戦死、三塁の水原はシベリア抑留されていました。それ以外の生き残ったメンバーがようやくそろったと言う事です。そういう巨人の危機的な時代を支えた支えた貴重な助っ人であったのは確認できます。


黒澤が栄光の巨人軍の弱体化時代を支えたのは判るとしても、それなら呉新亨もいますし、移籍組の近藤貞雄もいます。もっと言えばエースとして君臨していた藤本英雄もいます。そんな中で黒澤が永久欠番になったのは腸チフスで急死したからだけなのでしょうか。シーズン中の急死と言う衝撃的な出来事が、黒澤の永久欠番の強力な後押しになったであろう事は推測されますが、それだけかどうかは何とも言えないような気はしています。

しょせんはその時代に生きていないと最後の実感はわかるはずもないのですが、当時の若者が野球にかけていた情熱は今とは異質であったんじゃないと思っています。情熱の熱さは今と変わらなくとも、質が違っていたと考えています。第二次大戦前から日中戦争を続けていた日本では、若者は死というものを非常に身近に感じていたと思っています。

誰だって死にたくはありませんが、日本の男性と生まれ、この時代に生きていくには避けられない死というものを嫌でも意識していたと考えています。とくに太平洋戦争が始まり、さらに戦況が傾くと、さらに濃厚に感じていたとあちこちの記録に残されています。死が現実的な話となれば、それまでの間の生を目一杯生きてみようとしていたと思っています。

プロ野球選手にとってはそれが野球であり、選手だけではなくプロ野球に関係した人物すべてが生の証として野球に打ち込んだと考えています。あんまり良い表現ではありませんが、野球こそが生きている証みたいな感じです。だからこそ1944年までプロ野球は続いていたと考えています。また兵役に招集されても、生きている証として野球への情熱を燃やし続けていたとも考えています。

もう一度思う存分野球をやりたいの一念が、兵役に従事しさらに死が近くなっても心の支えになっていたとも考えています。

黒澤に球団葬を行い、永久欠番にしたのは選手会長であった千葉茂の働きが大きかったとされます。千葉茂も兵役を'42〜'45まで勤めなんとか生還しています。千葉もまた兵役中は野球の事を思い出していたと考えます。'46にリーグ復活の時に脇目も振らずに駆けつけたのが千葉とされます。それこそ「やっと野球が出来る」の一念だった様に思います。

そういう千葉から見て、黒澤は巨人だけではなく野球の恩人に見えたと考えています。黒澤がいたからこそなんとかリーグが'44まで続き、主力が歯抜けの様になった巨人が面目を保つ制度の成績を残せたの思いです。プロ野球が一番苦しい時代に奮闘した黒澤に千葉は大恩を感じていたと思います。大恩はこれから一緒に野球をやることで返して行こうと思った矢先の急死です。

たぶんですが、「戦争も終わり、やっと生き延びて思う存分野球がやれる時代が来たというのに・・・」を痛切に感じたんじゃないでしょうか。千葉にとって黒澤が支えた時代と言うのはそれほど重いものであり、これは千葉だけではなく他の選手でもすぐに共感できるものであったと考えています。

そう黒澤の功績は残した成績ではなく、重い苦しい時代を支えた功績であったと考えています。プロ野球を支えたのは黒澤1人じゃありませんが、他の選手はその後も野球が出来たのに、なぜに黒澤だけが野球が出来ないんだの強烈な感情が湧き上がったと考えています。野球が出来なかった代償として、せめて球団葬を行い、永久欠番の栄誉を飾ってやるのがせめてもとして出来ることと考えたのだと思います。

ゴメンナサイ、私も最後の最後のところはわかりません。事実としてわかることは、黒澤の戦中戦後のあの時期の活躍は千葉らにとって非常に重かった事だけです。その重さは千葉はもちろんのこと、他の選手もすぐに理解可能で、球団首脳部もすぐに理解可能であったのだけが判るだけです。



時代は流れ、戦争のない時代が日本に続いています。そして黒澤が情熱を傾けて守ったプロ野球は今も健在です。残念なのは黒澤の永久欠番に値する功績の意味を理解できるものが減ってしまった事だと思っています。黒澤の人となりを伝える情報は掘り出せませんでしたが、永久欠番に推されるぐらいですから、きっと素晴らしいものであったと勝手に推測しています。たぶん永久欠番と聞いて、

    あれは千葉が勝手にやった事でっせ。だいたい生きている頃でも沢村の球なんて見えへんかったし、天国でも三球三振やちゅうのに・・・。それに後から来る連中が物凄うて、こっちじゃ永久欠番は絶対無理でんな!
2006年から4年経って、集められる情報は増えました。増えましたが、結局のところ何故に黒澤が永久欠番になったのかの本当のところはよく判りません。説明としてそういう時代の空気であったらしいぐらいしか、相変わらずわかりません。

でも判らないと言うのが、いかに幸せな時代に生きているかの反証みたいに思えます。黒澤の活躍が永久欠番になる時代が再び来ないことを祈るべきだと、書き終えるにあたり強く感じています。