八戸縫合糸訴訟・論点整理

明日は参議院選挙の結果で盛り上がるでしょうから、今日は昨日の最高裁判決のコメントの論点整理です。情報は限定されており、そのため真相は不明の部分がどうしても多いのですが、ある程度確実に言える点を抜き出して見ます。整理と言いながら乱雑ですがご容赦ください。


上告棄却の意味合い


ssd様が真っ先に怒ってましたが、

結局、逃げて、高裁の判決を良しとしたに過ぎません。殺すなら自分の手で首を絞めろ。不作為で見殺しというのはあまにもチキン。

これに対しとく様から

上告が受け入れられる理由の限定「判決に憲法の解釈の誤りがあること、その他憲法の違反があること(1項)法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと(2項1号)」や「上告審の法的性格は法律審であり、上告審では原判決に憲法違反や法律解釈の誤りがあるかを中心に審理される。上告審が法律審であるとの性格から、証拠調べを行うことはない。」

だから二審で負けた時点で実質訴訟は終わっていたと言う主張です。これについてはYUNYUN様から反論はあり、

ご指摘のように、事実認定のみを争う場合は「上告」ではなく「上告受理申立」をしなければなりません。
しかし、事実認定にあたって裁判官が用いた経験則に問題があるとか、理由不尽とか、何らか上告理由に引っかけて、上告も併せてしておくことが多いです。
医療訴訟では医師がどんな治療をしたかしなかったかの事実認定の争いになるケースが多いとは思いますが、
医学的な知見に照らして、推論過程に誤りがある場合は、上告可能かもです。

私はここまでの法律解釈になると正直なところお手上げなんですが、知見として医療訴訟であっても三審が行なわれた先例を2つ知っています。一つは防衛医大コイル塞栓術訴訟、もう一つは第二次未熟児網膜症訴訟。どちらも医療側が負けていますが、どちらも三審での逆転差し戻しです。珍しい部類に入るかもしれませんが、YUNYUN様が指摘された「医学的な知見に照らして、推論過程に誤りがある」で三審が審理される事はあると言ってよいと思います。

少し意味合いの話からズレてしまいましたが、審理した上での判決と棄却の扱いの違いとして、これもYUNYUN様から

最高裁判例」ではなく、実質的には高裁判例に過ぎない事案と言えます。

上告棄却では最高裁判例に必ずしもあたらないと言う説も、素人には感覚的にやや分かり難いお話です。法律も難しいですね。


損害賠償金差し押さえの民事訴訟


ssd様のエントリーに詳しいのですが、最高裁判決を前に二審で決定された賠償金を八戸市が差し押さえられた一件です。余り聞かない話だったのですが、これもYUNYUN様から解説を頂きました。

「仮執行宣言付き判決」だからです。確定前でも強制執行が許されるという趣旨であり、金銭請求の訴訟では原告側がそういう請求をするのが、当たり前です。
一審で敗訴した側としては、当然に仮執行宣言の実行を警戒せねばならず、控訴すると同時に保証金を積んで「仮執行免脱宣言」を得ておくことは、よくあります。

なるほど判決が下ったからには控訴や上告をしても判決が出た状態ですから、その判決の効力が発揮されると言う事のようです。仮執行宣言は強力なようで、これに対して「仮執行免脱宣言」を取得するのが対抗策になるようです。八戸市はどうも多寡を括ってこれを怠っていたと言う事のようです。

怠った理由として

最高裁判決には時間がかからない。大丈夫だろう」

この理由についてもYUNYUN様は手厳しく批判しています。少しまとめると

  1. 最高裁では『上告棄却(上告人敗訴)では早く、破棄自判または差し戻し(上告人勝訴)は遅い』
  2. 「時間がかからない」の予想は被告敗訴を想定しているようなもの
だから八戸市最高裁で勝てないととの予想の上で、保証金を積んでの仮執行免脱宣言を取得しなかったとの批判です。つまり無駄なことに金を使わず経費節約に走ったのではないかと言う事です。負け戦への被害を少しでも減らす算段と言い換えればよいでしょうか。本当にそうなら気持ちの良いお話でありませんが、それでも最高裁まで争った八戸市の姿勢は評価しても良いの声があるのは書いておいても良いでしょう。


耕運機事故の企業責任


ラクターや耕運機、草刈り機の危険性についての指摘が昨日のコメント欄の終盤に出てきました。これらの農機具での事故は起こると大きなものだそうです。耕運機やトラクターに巻き込まれたら、「ひどい」を通り越して「ミンチ」状態だの指摘もあり、草刈り機だって当たれば足は切断されますし、破片が飛んで失明も必ずしも例外とは言えず、一定確率で起こる傷害とも指摘されています。

一定確率で起こり、起これば大きな被害をもたらすものなら安全への改良が取り組まれても不思議ありません。不思議ありませんというか、農機具以外なら「凶器」の糾弾を受け社会問題になりそうなものです。これについては半農半医あおむし様からのコメントが的を突いていると思います。

例えば国内で販売されている刈払機。スロットルに固定式とレバー式がありますが、どっちもヨーロッパの安全基準では欠陥品です。ヨーロッパ式では、安全トリガーを押さえた状態でしかスロットルレバーが動かない仕掛けになっていて、手を離すとブレーキがかかります。日本式のスロットルは、固定式でもレバー式でも、スロットルに物が触れると回転数が変わってしまいますし、固定式では使用者が倒れても回転は止まりません。ブレーキは付いていません。

チェンソーでも、キックバックが起きてチェンソーが跳ね上げられたとき、アームガードが右手で押されるか、慣性安全装置が作動し、チェンブレーキがかかって、チェンは瞬時に停止します。日本製の軽量チェンソーは、標準ではブレーキが装備されていない機種がほとんどです。スチール、ハスクバーナなどは軽量機種でも2種類のチェンブレーキが装備されています。装備されていないとヨーロッパでは安全基準違反ですから、輸出するために日本製もブレーキ装備可能なのですが、国内向けでは外されています。

独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構が「安全鑑定」なるものをやっていて、合格した機種には「安全鑑定証票」が貼ってあります。
http://brain.naro.affrc.go.jp/iam/Test/iam_tstamn.htm
しかし、例えば刈払機でも、安全トリガなしのレバー式スロットルを推奨しているのが現状です。
http://brain.naro.affrc.go.jp/anzenweb/anzensobi/anzensobi_02.htm

たとえ訴えても、メーカーは「安全鑑定」に合格していることで責任はないと逃げるでしょう。

農機具メーカーも「安全」のための取り組みを放置していると、しっぺ返しを喰らう様な気がしてなりません。

以上全く整理になっていない「論点整理」でした。


追加情報です。

7/29付デーリー東北新聞社より

 左脚を切断しなければならなくなったのは青森県八戸市民病院の医師が適切な診断と治療を行わなかったため―として、同市の男性(63)が同病院を管理、運営する八戸市を相手に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は二十七日までに、市側の上告棄却を決定した。これにより、原告側の主張をほぼ認め、市に約三千二百万円の支払いを命じた仙台高裁の判決が確定した。
 二審判決によると、原告男性は一九九九年四月、農作業中の事故で左ひざ下を負傷し、同病院で手術を受けた。術後、男性の家族が「感染症の恐れがあるから調べてほしい」と訴えたが医師は取り合わず、その後、別の医師がガス壊疽(えそ)に感染していると診断し、左脚切断手術を行った。
 裁判では、原告側が「不適切な治療で切断を余儀なくされた」と約七千万円の損害賠償を求めたのに対し、病院側は「医学的な過失はなかった」と全面的に争っていた。
 一審の青森地裁八戸支部は昨年十月、病院側の注意義務違反を一部認めたものの、切断手術との因果関係は認めず、被告側に慰謝料三百三十万円の支払いを命じる判決を下した。
 原告側は判決を不服として仙台高裁に控訴。今年三月の二審判決では、一転して病院の過失と切断の因果関係をほぼ認定した。これを受け、今度は市側が「医療に過大な期待と責任を押し付け、現場を委縮させる判決だ」として、最高裁に上告していた。
 敗訴が確定し、小林眞八戸市長は「主張が受け入れられず残念。この決定が、患者の医療不信をあおるものとならないか懸念している」とのコメントを発表した。
 原告の男性は「長い裁判に決着がつき、ほっとしている。私のような思いをする人が二度と出ないように願っています」と語った。

この記事からわかる新たの情報は、

  1. まず負傷した足の縫合手術を行なう
  2. 術後、「感染症の怖れ」の家族主張を取り合わなかった
  3. さらにその後、別の医師がガス壊疽と診断し左脚切断
記事にある「術後」と言うのがいつか分かりませんが、そこで患者家族の訴えを退けたように感じさせたのが訴訟の原因だろうとはまず推測できます。これだけの情報で訴訟にいたる経緯を組み立てるのには無理があるのですが、あえてやってみると、
    感染症の検査を要求したのにやってくれず、結果として感染症になった → その感染症が原因で左脚が切断された
検査さえ言うとおりにしておけば足は切断されずに済んだはずだ、「訴えてやる!」(某番組風)。こんな感じが発端ではなかったかと考えます。

ところがガス壊疽で切断はある程度妥当と分かり、そこで訴訟戦術をガス壊疽を起した原因に方向転換をしたと考えます。ガス壊疽の原因と言っても本来は耕運機事故なんですが、持って行く方向は初期治療でガス壊疽を予防できなかった点に絞り込んだかと思います。私は外科医ではありませんが、皆様からの情報により、耕運機事故の泥まみれは半端じゃないとの知識を得ています。半端じゃないとは表面だけではなく、負傷部の奥深くまで泥が混ざりこんでいる状態を想像すればよいでしょうか。

ガス壊疽の原因菌は嫌気性菌ですから、原因菌に対しては創部を開放する方が理屈では望ましいでしょうが、深く負傷した部分の筋肉とか、血管とかを開放で治療するわけにも行かないでしょうから、おそらくですがよくデブライドメントした上で、しっかり消毒して縫合せざるを得なかったと考えます。

この記事だけでは言い切れませんが、訴訟の発端となった「検査してくれ」の時点からガス壊疽の治療を行なっても切断は妥当の判断は出ていると考えます。そうなると話はすべて縫合手術にかかってきます。事件の舞台となった病院は優秀な三次救急病院ですから、縫合手術の基本的手技は問題無いかと考えます。

基本的手技は問題なく、ガス壊疽発生も予防しきれるものではなく、ガス壊疽発生の診断で切断も妥当な判断であるのなら、かわいそうですが不幸な事故です。ところが誰が唱えて、発見したかはわかりませんが、基本的な手技のうちの縫合糸の選択を問題の焦点にした猛者が現れたようです。弁護士や原告が発見するとは思えませんから、発見したのは原告側鑑定医でしょう。こんな事は外科医以外の医師でも気がつきませんし、普通の外科医でも通常気がつかないと考えます。

裁判官を納得させる分には非常な説得力をもった鑑定書であったに違いありません。裁判官はこの鑑定書を信じ、

    太い糸さえ用いなければガス壊疽は予防できた
この結論に到達したかと考えます。

この訴訟は判決文の入手の可能性もわかりませんが、鑑定書になると入手はもっと難しくなります。しかしもし入手できたら、心筋炎訴訟の鑑定を上回る凄まじい内容であろうと想像します。この鑑定医は自分がしでかした事の大きさをどれほど自覚しているのでしょうか。鑑定書を書くほどの地位と年齢ですから、おそらく自分でメスを握る事は無い立場であると考えますが、おかげで後進の外科医だけではなく、同じ事故に見舞われる患者の利益さえ果てしなく損なっています。

この罪の大きさを直接伝える手段がないことを恨みます。