その日が来たか・・・

奈良の事件です。まず亡くなられた患者様に深い哀悼の意を表し、残された御遺族の方に慎んでお悔やみを申し上げます。

事件の詳細はある産婦人科のひとりごとで詳しいかと存じます。ここでの管理人氏の意見が一番正論かと思います。宜しければそちらをまず読まれることをお勧めします。

事件の構図を簡単にまとめます。

  1. 分娩中に頭痛を訴え意識消失発作を起こした。
  2. 産科医は子癇発作と考えその処置を行なった。
  3. しかし経過が重篤で他院での処置が必要と判断した。
  4. 転送先を探すも18軒に断られ、19軒目の国立循環器病センターにようやく運ばれた。
  5. 患者は脳出血を併発しており死亡、子供だけは助かった。
ここで出てくる子癇発作の教科書的解説を先に入れておきます。
    妊娠,分娩,産褥期に出現する強直性あるいは間代性痙攣と昏睡を主症状とする特殊型妊娠中毒症である.このうち分娩子癇が最も多い.妊娠中毒症の早期発見・治療により,子癇の発症は減少した.1,000〜2,000分娩に1件といわれている.前駆症状として脳症状,眼症状,胃症状が出現する.高血圧,蛋白尿,浮腫は高度であるが,時にこれらの症状がみられないこともある.まず,意識が消失し,強直性あるいは間代性痙攣がみられる.痙攣がおさまった後に昏睡がしばらく続く.脳・肝臓内の出血がよくみられる.予後は速やかな治療法により改善されてきているが,母児ともに非常に危険であることに変わりはない
この経過中の処置や判断についてはネット上で様々な意見が既に交わされています。子癇発作と脳出血の鑑別、妊婦の頭部CTの是非、子癇治療と頭部CT適用の境界線、転送判断時期の可否、脳外科医が当該病院に勤務していたそうですが、呼び出しをしなかったことへの判断の問題、などなどです。

これらの問題はなにぶん情報不足で、ここでの是非の分析は控えておきたいと思います。話は単純化して、産科医は患者の子癇発作が自分の病院では処置しきれないと判断したところから始めます。おそらく転送要請の内容は

    「重症の子癇発作、母子ともに危険。緊急転送お願いします。」
ぐらいのような気がします。これに「経過から頭蓋内出血の可能性もあり」も付け加えられたかもしれません。この情報を聞いて受け入れる側の病院が考える事は、
  1. 緊急帝王切開が必要である。
  2. 脳出血に対する緊急手術が必要であろう。
  3. 胎児もリスクが高く、新生児室も万全の用意が必要であろう。
これらに必要な物は、産婦人科医、脳外科医、麻酔科医、小児科医がとりあえずまず必要で、さらにICUNICU、夜間緊急手術スタッフ、十分な輸血量の確保ぐらいは誰でも考えます。さらに手術は帝王切開と脳外科手術を並行して行なう必要があり、ドラマやマンガの設定なら神の手医師が奇跡の腕を振るう山場ですが、実際の現場では例外中の例外の出来事であり、そんな事をやった事のある医師の方が稀ですし、いずれにしても非常に高い水準の技量が求められます。しかも時刻は真夜中です。また受け入れてもリスクが非常に高い症例です。母子ともに非常に危険な状態で、母親は命だけでも救えればラッキーで、母子ともに死亡する可能性が非常に高いものと予想されます。

さらに受け入れ病院には非常に重い十字架が架せられています。最近の医療では不十分な体制で受け入れる事も非難される時代になっています。義侠心を出して手薄な体制で引き受け、結果として不幸な転帰を取った時には「引き受けた方が悪い」と非難の的になります。「なぜもっと万全の体制の医療機関に送らなかったのか」の厳しい批判です。批判は単なる言葉だけの問題ではありません。莫大な賠償金付きの訴訟が待っています。訴訟が起されればマスコミからのリンチのような社会的制裁が待っています。そんなものを受ければ病院の存亡に関わる事態になりかねませんし、担当した医師は医師生命を断たれてしまいます。

この十字架についてはネットに参加する医師の間では既に常識化しており、「ロシアン・ルーレット」とか「ババ抜き」と表現されています。患者の為に医師の使命感に燃え、無理を承知で引き受けたものが破滅する怖ろしいシステムです。この十字架は都市伝説の類ではなく、立派に司法の場で繰り返し断罪され判例となっている事実なんです。

この十字架はネット上では常識ですが、あくまでもネット上のことであり、どれほど広く医師一般に広がっているかはこれまでよく分からなかったのですが、今回の事件で相当広範囲に伝播している事が判明しました。さらに今回の事件でより広く伝わる事は想像に難くありません。

そんな日が来るのは時間の問題と考えていましたが、ついに現実のものとなったかと言う想いです。助けられそうに無い患者は引き受けない防衛医療の広範囲の浸透です。この事件のもたらすものは、これを契機に救急医療の再構築をが一般の反応でしょうが、医師の反応は防衛医療のより一層の徹底化です。いくら「引き受けろ」と言われても結果責任を引き受け側がすべて問われる現状なら、ノータッチで一切触れないほうに急速に傾くのはもう誰にも止められません。

それでもドンキホーテはいるでしょうが、ドンキホーテはやがて各個撃破されて消えていきます。医療の焼野原への大きな曲がり角を通り過ぎた事件と私は思います。