助産師の集約化は不可能か

産科医療の問題をいつも真摯に語られているある産婦人科のひとりごと先生のところのエントリーとコメントから思った事です。原文はオリジナルを読まれれば良いのですが、エントリーもコメントも長文なので少しサマリしながらエントリーします。

話の背景は南和歌山医療センターの産科が廃止され、紀南病院に集約統合されるところから始まっています。産科のなくなった南和歌山医療センターは、残された助産師が産科無しの院内助産所を作るという流れがあり、それについてのエントリーがまずなされます。

産婦人科医、小児科医、麻酔科医などの医療チームとの緊密なタイアップがあってこそ、助産師も思う存分に活躍できます。従って、産婦人科医不在となった病院の助産師達を有効に活用しようとするのであれば、その病院の助産師全員が、即刻、産婦人科医・小児科医の集約先病院に移籍するのがベストだと思われます。すなわち、今後は、産婦人科医・小児科医の集約化だけではなく、助産師の集約化も同時に連動させることが非常に重要だと思います。

産婦人科医が病院からいなくなってしまったので、これからは地域住民のために病院の助産師だけで頑張ってくれ』というのでは、全くの丸腰で兵士を激戦地に送り出すようなもので、早晩、全員玉砕することは間違いないと思います。もしも分娩の途中で何か事が起これば、産婦人科医のいる病院に患者を搬送しなければならないとしたら、その助産所が病院内に存在する意義も全くありません。

助産師は地域にとって非常に貴重な人材です。彼女達を地域の中でいかにして有効に活用するのか?をよくよく考えるべきだと思います。

産科医療を支える戦力が枯渇化するなかで、集約化の流れは、より安全な医療のためには現状では是認せざるを得ない状況になっています。この大前提をある産婦人科のひとりごと先生は現実的に容認されて論を立てられています。産科医療を支えるものとして関連する産科医、小児科医、麻酔科医も同時に集約し、周産期医療センターとして基盤の確保が必要であるとの考えです。この点については異論をさしはさむ余地は少ないかと思います。

また現在の産科医療に厳しく求められている「絶対の安全性」に少しでも近づけるために、産科医無しの院内助産所の設立に強い危惧を抱いています。助産所手放し賛美論は私も常々疑問を抱いている事ですから、この点でも意見をほぼ同じくしていると思います。分娩の危険性はどれだけ力説しても足りないと考えるからです。

医師の集約化は厳しい産科医療の現状から現実として進行しています。ここである産婦人科のひとりごと先生は医師だけでなく助産師も同時に集約しなければならないと述べられています。これも至極当然の事で、産科医療を行なうに当たり医師を集約したら、助産師も集約しないと十分な機能を発揮できません。助産師の必要性は横浜の堀病院事件で明らかになったように、これに不備があると県警の50人の捜査員が突然踏み込んできます。また助産師数自体が必要数を確保するのが容易でないのも周知の事であり、統合されて産科がなくなった病院の助産師は貴重な戦力として出来る限りの有効活用を考えるべきです。

ちっともサマリになっていませんが、産科医療の危機に対処するために医師と助産師のマンパワーを集結して乗り切ろう論であり、現在の産科医療に対するもっとも正論的主張と考えます。この考えに対して正面切って大反対論を主張する人は少ないと思っています。私も基本的には異論はありません。

これに対し南和歌山医療センターの院長先生と名乗られる人がコメントを寄せています。

助産師に全員産科医のいる施設に異動させればよかったといわれた方には、もう一度人権教育からお勉強していただかねばなりませんね。「させる」、と言う言葉尻だけではありません。現実に立派な職業人である助産師個々人の意志を無視して施設とその雇用母体を超えてできるかどうか良くお考え下さい。既にご自分の事情で辞めることになっていたり、同じ国立病院機構内でなら異動するという意志を示したり、南和歌山で何とか頑張りたい、場合によっては助産業務でなくても頑張りたいといった人もいます。

主張のポイントをまとめると

  1. 助産師個人の意思を無視して雇用母体を超えて転勤させる事は出来ない
  2. 産科医のいない病院で助産所を設置したい希望は認める
  3. 助産師でなく普通の看護婦として働く希望を優先する
これを支える言い分として「もう一度人権教育からお勉強していただかねばなりません」となっています。これも立派な正論であるのは認めます。どこを取っても正しい主張であるのは認めますが、どうにも口の中に砂がジャリジャリする感覚が抜けません。

正面からは人権教育云々が立ちはだかりますから、少し搦め手から絡みたいと思います。まず助産師の医療での役割です。彼女らは助産業務をするために助産師の資格を取得したはずです。彼女らが働くのに最も相応しい医療現場は分娩業務であるはずです。助産師は同時に看護師免許を有しているため看護師としても働く事は可能ですが、それは彼女らの資格にとって専門職としての侮辱ではないでしょうか。医師であればバリバリの外科医を手術設備のない病院で内科医として働かせるようなもので、資格と技能の浪費であると考えます。

分娩業務が無くなる病院で助産師が看護師として働くのは貴重な医療資源の浪費になります。助産師が溢れるぐらいいるのならまだしも、助産師不足はほとんどの病院で慢性的であり、分娩業務に携われる助産師の求職はいくらでもあります。医療職にとって最も重要な役割は自らが持つ資格、技量を最大限に生かす事です。この事は医師なら当然以前ですし、医師以外のコメディカルもまた同様に求められると考えます。レントゲン設備の無い放射線技師が受付をやるような無駄と考えます。

医療に従事する専門職はその資格、技量を十全に生かせる職場を自ら求めるべきであり、その事は雇用母体のしがらみを越えると私は考えます。確かに院長として直接の転勤命令を下す事は無理でしょうが、これを勧奨するのは人権教育云々と別問題だと考えます。もちろん個人の意思としてこれを拒否する自由はありますが、拒否する事は助産師としての使命とプライドを放棄するものだと考えます。少々きつい表現ですが、産科医療での助産師の役割はそれほど重い地位があると思っています。

この院長先生の主張は、産科医療で医師の集約は可能だが助産師の集約は困難であると言明している事になります。もちろん経営母体を越えて就職場所を変えると退職金、年金などの額が目減りし、助産師にとっては経済的に不利な側面がある事は理解します。ただ医療者として自らが何をするべきかの使命は、天秤にかけると決して軽くないとも思います。

えらそうな事を言っても医者も待遇の悪い職場から逃散しているのですから、彼女らも同様だと言う見方もあります。それでも逃散した医師には僻地勤務強制化案が乱舞するのに較べて、助産師には人権教育云々ですから、扱いの落差にため息をついている医者はいるでしょうね。

南和歌山医療センターから紀南病院まで約3km、この距離は果てしなく遠い距離のようです。べつに尾鷲市民病院に勤務してくれと言う話ではないのですが、集約化の現実は厳しいようです。