ベスパでツーリング

と言うほど大層なものではなく、実態はあがりそうになるバッテリーの充電走行です。充電走行といっても闇雲に走っても徒労なだけなので、目的地をもって走ったのでツーリングと少し威張ってみました。

目的地は柏原。兵庫には姫路城に代表される素晴らしい城郭遺跡が残っていますが、その中に全国的にも珍しいというかここしか無いという陣屋遺跡が二つも残っています。一つは先日訪れた三日月藩乃井野陣屋、そしてもう一つが昨日訪れた柏原陣屋です。乃井野陣屋には二階建ての物見櫓が現存しており、それを中心に陣屋の正門にあたる壮大な建物を復元しています。正直なところ「こんなところに」と言うぐらい異様な立派なものでした。

柏原陣屋には正門に当たる長屋門と表御殿に当たるとされる書院が残っています。何と言っても長屋門も陣屋の書院も現存しているのは日本でここだけですから、歴史オタクとすれば一度見ておかなければなりません。てな理由でベスパでウンコラ遥か柏原まで走ってきました。

柏原について市内案内図と、あちこちに整備されている案内標識ですぐに柏原陣屋に着きました。写真で見たとおりの長屋門は確かにありました。ただその前に乃井野陣屋の総二階建ての正門を見た後なので、「迫力無いな」とは正直な感想です。入場料がいるかと窺えば、そんな気配は無く、長屋門を通り抜け表屋敷へと進みました。

書院は突き出した玄関部分のみが檜皮葺きで、あとは瓦葺のほぼ正方形の建物です。書院に附属するように建物がついているという構造です。表御殿の檜皮葺の屋根が傷んで修復中でしたが、書院周辺は自由に見れます。しませんでしたが、書院をぐるりと取り巻いている縁側も上がろうと思えばあがれるみたいでしたし、とくに禁止を呼びかけるものもありませんでした。

小なりとは言え大名の表御殿の一部なのでそこそこ大きいのは確かです。ただ正門のはずの長屋門から表御殿の玄関まで10mぐらいしかなく、どこかの小さめのお寺の印象が頭から離れなかったのは本音です。建物は屋根こそ修理中でしたが、長屋門も含めて手入れは良いとはお世辞にも言えず、書院の内部もどうやら非公開のようです。

なにより周囲のロケーションが良くない。長屋門と表御殿は残っているのですが、隣接と言うか、塀も柵も無しで小学校に隣接しているのです。ちなみに表御殿の真後ろには体育館があり、全体の印象が表御殿と言うより小学校の旧講堂という雰囲気を醸しだしているのを否定できませんでした。

うらぶれたの印象が溢れた長屋門、表御殿を見て回りながら柏原藩の事を考えていました。柏原藩の領主は織田氏、あの信長の子孫です。柏原藩の始祖は織田信包、信長の弟で信長以外はボンクラが多かった織田氏の中ではなかなかの人物であったようです。人物ではありましたが、権勢欲には薄く、本能寺後の動乱では秀吉側につき15万石程度の大名になっていますが、その後秀吉の勘気を蒙り改易。再び復活して柏原に3万6千石の所領をもらっています。人物の故か、織田家にそれなりの思い入れがあったのか、信包は関が原で西軍についても不問となり、関が原後も秀頼に近いところに位置していましたが、大坂の陣前に死去したせいか、これもとくに問題とされず柏原藩は続いています。

織田家は本能寺後はガタガタになっています。信長はもちろん嫡子であった信忠も二条城で死んでいます。織田家の相続争いであった清洲会議では次男信雄も三男信孝も外され、3歳の三法師が後継者とされ秀吉が織田家の大勢力を実質継承します。不満を抱いた三男信孝は柴田勝家滝川一益とともに賤ヶ岳の戦いを中心とする後継者戦争を行なったものの敗死。形式上の後継者とされた三法師こと秀信は、成人後の関が原で西軍につき、岐阜城で東軍に敗れ改易、子孫を残していません。

そんな中で「暗愚」とまで酷評された信雄は賤ヶ岳では秀吉につき尾張で100万石を領有し、その後の小牧長久手では家康をそそのかして戦うも、秀吉と単独講和して所領を広げています。ただし北条攻めの後、家康が関八州に転封された後、旧家康領への転封を拒み改易。織田家の金看板は生きていたらしく、再び所領を与えられるも関が原で再び改易。ところがまたまたその後に所領を与えられています。この時ももらったのが、大和宇陀松山3万石、天童2万石です。信雄は大和に4男の信良を天童の領主となっています。

織田家では本能寺後、直系は秀信(三法師)で途絶えています。直系が途絶えれば傍系に移るのですが、信長の嫡男信忠は子供が三法師一人なので、これが途絶えれば次男の信雄が本家となるような気がします。本家になった信雄ですが、大和宇陀松山3万石は領主となったものの、実務は天童の信良が行い、信雄は死ぬまで京都で遊んでいます。当然ですが大和宇陀松山も天童も信良の子孫が受け継いでいます。

天童と大和とどちらが本家なのかは微妙だったらしいのですが、少なくとも大きい方の大和のほうは本家と考えていた節があります。そんな中で、信長の弟の信包を始祖とする柏原藩が藩主急死で改易なります。その後大和の方で後継者争いから騒動が起こり、その影響で2万石に減らされて柏原に転封となります。そう考えると柏原の織田家は本家とも考えられます。証拠というほどではありませんが、信長の墓のある惣見寺の管理は柏原だったそうですから、先祖を祀る者が本家という当時の常識からしても本家になるかと思います。

衰微したとは言え織田の総本家の根拠地として柏原を見、陣屋を見れば、これは感慨深いです。間違い無く草履取りから出世した家来の秀吉、同盟国とは言え実質的に家来扱いであった家康。二人の天下人に仕える信長の子孫。領国はといえばたったの2万石で、城さえもありません。山深い丹波からエッチラ江戸まで参勤交代で出かけ、家康の家来として這い蹲るような臣下の礼を取る事に、何か感じるものは無かったかという事です。

なんにも感じなかったから江戸時代を無事に過ごしたのでしょうが、信長の栄光と子孫の対比を考えると、それだけで興趣は尽きない思いでした。